二年目の帰郷


 今年もまた、母経由で夏油くんの帰省を知った。
 母は椎茸を刻みながら、「夏油さんちに回覧板を持って行った時にちょっと顔見たんだけど、傑くんまたハンサムになってたわぁ」と、どこかうっとりとした声色でそう言った。私はその隣で、毎年恒例の餅つきをしながら「へえ」とだけ返した。いいなあ、お母さん。そんな心の声が漏れそうになるのを押し殺す。
 ――私も、もし夏油くんに会えるなら会いたい。でも電話をして約束を取り付けられるほどの勇気はないし……。
 そう思いながら、餅つき機の中で踊るまっしろな餅をしゃもじで突いていると、母が「しまった」と声を上げた。「きな粉を切らしてるんだった」と。つきたてのお餅にきな粉をまぶしてつまみ食いするのが母と私の楽しみだった。母は「お願いしてもいい?」と遠慮がちに言った。そういえば去年もこうして母におつかいを頼まれて、その帰りに夏油くんと会ったんだった。もしかすると今年も同じような奇跡が起きるかもしれない。そう思った私は、財布を握りしめて家を出た。


 そうしてそのままスーパーに向かったはずが――なぜか今、私は夏油くんと小学校にいる。
 スーパーへの道中で、夏油くんと鉢合わせたのだ。一年ぶりに会う夏油くんはまた少し背が伸びていた。けれど、去年よりも痩せたように見えた。夏油くんは「久しぶり」と言いながら、片手に提げていたレジ袋をこちらに差し出した。袋の中には、きな粉が二袋入っていた。どうしてきな粉が必要だって分かったんだろう。私がそんな疑問を口に出す前に、夏油くんは「このあと時間ある?」と言った。こくんと頷き返せば、夏油くんは「じゃあそれをおばさんに届けてからにしようか」と歩き始めた。自宅に着くと、私は玄関の靴箱の上にレジ袋を置き、「きな粉ここに置いとくね。ちょっと出掛けてくる」と口早に言って、母の返事も待たずにまた家を出た。
 夏油くんの後ろを歩きながら、ふと思う。小学生の頃は、同じ目線の高さだったのに。今じゃ夏油くんは私よりも遥かに高いところからこの世を見ているんだな。そんなことを思いながらぼうっと歩いていたら、夏油くんが言った。「着いたよ」と。そこは小学校の裏門だった。門は開いていて、夏油くんは何の躊躇もなく中へと入っていく。私も慌ててその後に続いた。

「あの頃はもっと広く感じたんだけどな」

 グラウンドを歩きながらふと足を止めて、夏油くんはそう言った。私は毎年一月にこの小学校で行われるどんど焼きに来ているので新鮮さはないけれど、夏油くんは卒業以来一度も来ていなかったようで、昔を懐かしむようにグラウンドを見渡していた。

「あ、あの、夏油くん」
「うん」
「……訊いてもいい?」

 夏油くんの背中にそう声を掛ければ、「うん」と返ってくる。

「なんで小学校に来たの?」

 少し間を置いたのち、夏油くんはこちらを振り返った。その顔に表情はなくて、一瞬、胸の内側がひやりとした。

「何色だったかなと思って」
「……え?」
「シーソー」

 そう言って、夏油くんはグラウンドの隅の方を指した。そこには古びたシーソーがあった。塗装はほとんど剥げているけれど、かろうじて元の色が青だと分かるぐらいには色が残っている。そんな理由なの、と首を傾げていると、夏油くんはぷっと噴き出す。

「嘘だよ。本当は自分でもよく分からない」

 笑った夏油くんに、内心ほっとした。今日の夏油くんは、去年の夏油くんと少し変わったように思えたから。けれど目を横にすうっと引いて笑うその顔は相変わらずで。だから、安心した。

「なんでだろうね。郷愁ってやつに駆られたのかな」


 その後、私たちは中庭へ向かった。夏油くんはウサギ小屋とニワトリ小屋を遠巻きに見ながら「ああいうのってまだやってるんだ」と呟いた。小動物が好きな私は、小学校に来た時にはいつもこの中庭のウサギ小屋に立ち寄る。金網の間から差し出された草をはむはむと食べる姿がかわいいのだ。

「近くで見てみない?」

 そう声を掛けると、夏油くんは少しためらったのち、小さく頷いた。小屋に近づくまでの間に、私は花壇に生えている草をぷちぷちと引き抜く。そうして夏油くんの方を振り返り、こっちこっちと手招きをする。夏油くんが小屋の方へと一歩踏み出した、その時――ニワトリのけたたましい鳴き声が中庭に響き渡った。小屋の中ではニワトリが羽をばたつかせ、ウサギたちがぴょんぴょんと跳ね回る。まるで何かに恐怖しているようだった。

「行こう」

 そう言った夏油くんの顔には、どこか自嘲的な笑みが滲んでいた。



 河川敷のファミレスに入った私たちは、窓際のソファー席へと案内された。そこは、去年とまったく同じ席だった。夏油くんもそのことに気づいたかな。そう思いつつ、メニュー表を眺める夏油くんの様子をうかがってみる。

「どうかした?」

 メニュー表を伏せた夏油くんは、静かにそう口を開いた。

「全然たいしたことじゃないんだけど、その……去年もこの席だったなあって」

 夏油くんは少し目を大きくすると、

「よく覚えてたね」

と、感心したように言った。「だから何?」とでも返されそうなところを、たとえ本心からではなくとも「よく覚えてたね」と肯定的な反応をしてくれる夏油くんは、やっぱり優しい。
 メニュー表の中に黒蜜きな粉のソフトクリームを見つけたとき、お母さんはもうきな粉餅を食べたかなと思った。そこで改めて疑問が浮かぶ。どうして、夏油くんはきな粉を持っていたんだろう。

「夏油くん」
「うん」
「……なんで、きな粉が必要だって分かったの?」

 夏油くんは「ああ、あれね」とソファーにもたれ掛かりながら言う。

「小学生の頃、君がクラスの女子たちにやらされた漫画の犬。あれに似た生き物が教えてくれたんだ」
「――え?」
「ほら、そこにいる」

 夏油くんは私の右側を指した。その方へ顔を向けてみるけれど、そこには丸めて置いた私の上着しかなくて。訳が分からずに夏油くんの方へと視線を戻せば、彼は「冗談だよ」と言った。

「昔言ってたからさ。つきたての餅にきな粉をかけて食べるのが年末の楽しみだって。きなこ餅ならいくつでも食べられるって。だから差し入れようと思っただけだよ」
「……そう、なんだ」
「タイミングが良かったみたいだね」

 テーブルに頬杖を突いた夏油くんは、呼び鈴を押す。その後で「あ、もう注文決まった?」と訊くので、私は慌ててメニュー表を広げる。
 ――冗談っぽくはなかったけどな……。
 夏油くんの言う通り、自分の右隣に何かいるように思えてきて仕方がなかった。そういえば、私をいじめた女子たちは河原での一件があった後、しばらく夏油くんのことを怖がっていた。夏油くんは彼女たちが近くにいると、ワン、と吠えてみせるのだ。そのうちの一人が、こんなことを漏らしていたっけ。顔のない犬が夢の中で追い回して来る、と。
 なんだか落ち着かなくて手を揉み合せていると、店員さんがオーダーを取りに来た。夏油くんはシーザーサラダを、私は海老ピラフを頼んだ。サラダだけで足りるの、と訊けば、夏油くんは「うん」と窓の外を見やりながら頷いた。その横顔を見ながら、今日こそは夏油くんを頼らずに一人でちゃんと全部食べないと、と強く思った。

「高校はどう?」

 窓の外を見たまま、夏油くんがそう訊く。

「ちょっと楽しくなってきた……かな」

 クラスの誰もがやりたがらなかった文化祭の実行委員。なかなか委員が決まらず重苦しい空気が漂っていたところ、担任がおもむろに「さんどう?」と名指しをしてきた。学校に馴染めていないようで心配しています、と三者面談でそう話していた担任は、きっとこの実行委員を通じて私に何かを得させようとしたのだろう。余計なお世話だなと思いつつも断ることはできず、「はい」と蚊の鳴くような声で答えると、担任は満足そうに笑った。あの時は担任を少し憎んだけれど、同じ実行委員だった他のクラスの子たちと仲良くなれたので、今となってはちょっと感謝している。

「――そうか」

 そう独り言のように呟いた夏油くんと、一瞬目が合った。けれどすぐに視線は外され、夏油くんの黒褐色の目は再び外へと向けられる。夜道を照らすのはファミレスの屋外看板と、申し訳程度に設置された街灯、あとは道路を渡った先にある自動販売機ぐらいだ。田舎の夜は暗い。闇が重い。東京の夜は、明るいのかな。

「夏油くんは、学校どう?」

 その答えは聞けなかった。ちょうど「お待たせいたしました」と店員さんが料理を運んで来たから――ではない。夏油くんが、その質問に答える気がなさそうだったから。去年の夏油くんは、少し唇を緩めて「楽しいと思うよ」と答えた。でも今目の前にいる夏油くんは、違った。配膳されたサラダを前に「いただきます」と手を合わせ、私の質問をなかったことにした。もうそれ以上学校の話題に触れてくれるな、とでも言うように。
 私も手を合わせ、スプーンを取る。そうして海老ピラフを一口頬張った時だった。ポケットに入れていた携帯が鳴る。このメロディーはメールの着信音だ。これ良い歌なんだよ、と友達に教えてもらった曲。今放送されているドラマか何かの主題歌らしい。良さはよく分からなかったけれど友達がおすすめするので、オルゴールバージョンを着信音に設定した。
 友達からかな、と思い、テーブルの下で携帯を確認する。違った。差出人は、同じく実行委員で知り合った男の子だった。そういえば、初詣に一緒に行かないかと誘われていたっけ。そんなおぼろげな記憶をたぐり寄せながら、集合時間と場所について相談したいんだけど、という文章を目で追う。

「彼氏?」

 えっ、と顔を上げる。夏油くんはサラダに視線を落としたままだった。フォークできゅうりやレタスを刺しているけれど、口に運ぶ様子はない。
 私は首を横に振る。けれど、夏油くんはこちらを見てくれない。違うよ、と声を出そうとした時、着信が鳴った。これはメールではなく、電話の方だ。画面に表示されているのは、ついさっきメールを送ってきた男子の名前。

「出たら?」

 夏油くんは静かに言った。鳴り止む気配のない携帯を握りしめ、私は席を立つ。すると夏油くんは私を見上げた。――やっとまた、目が合った。

「ここで話して」

 目には見えない重しが両肩にずしりと乗ったみたいだった。私は夏油くんに言われるまま、立ち上がったばかりのソファー席に腰をおろす。そうして通話ボタンを押すまでの間、夏油くんの顔から目を逸らすことができなかった。夏油くんもまた、私と男子が話しているのを、ただじっと観察するように見つめているのだった。

「あ、でも年越しはいつも家で……」

 初詣は、てっきり元旦の昼から行くのだと思っていた。けれど男子が言うには、大晦日の夜に行って、日付を越えた瞬間に拝むのがいいらしい。彼の家では毎年そうだから、自分もそうしたいのだと。

「……うん、わかった。じゃあまた明日」

 向こうの勢いがすごくて、断ることができなかった。私は携帯をポケットに仕舞いながら、はあ、とため息をつく。
 ――年越しはいつも家で、お母さんとこたつでお菓子を食べながらテレビを見るのが恒例だったのに。
 紅白が終わった後の年越し番組では、日本各地の神社からの中継映像が流れる。参道に並ぶ人々が年越しの瞬間を待つ姿に、こんな寒いなか行列に並ぶなんて大変だな、そもそも夜中にお参りしても神様は寝てるんじゃないのかな、なんて思いながらブラウン管越しに見ている側の人間だったのに。まさか自分が、夜中の参道に並んで年越しの瞬間を迎える側になろうだなんて。

「何の用だった?」

 夏油くんはフォークに刺したきゅうりを口に入れる。

「えっと……明日、初詣に行こうって誘われて……」
「明日は大晦日だよ」
「……うん」
「つまり一緒に年を越そうと?」

 うん。声も出さずに頷けば、夏油くんはフォークを置いた。

「行かない方がいいと思うよ。相手に妙な期待をさせるだけだ」

 夏油くんはそう、淀みなく言った。けれど私はその言葉の意味がよく分からず、首を横に倒す。
 
「だって君にその気はないんだろう?」
「その気、って?」

 夏油くんは深めの息を吐いた。そうして人差し指で手招きするので、私はテーブルの向こうにいる夏油くんの方へと身を乗り出す。すると夏油くんは、私の耳元でこう囁いた。

「抱かれる気」

 その声が、言葉が、脳の動きを奪った。
 硬直した私の顔を、夏油くんは覗き込むようにして「意味分かる?」と訊いた。抱くという言葉がセックスを意味しているということは、知っていた。
 こくりと頷いた私に、夏油くんは続ける。

「じゃあ、ちゃんと断れるよね」

 ポケットからおずおずと携帯を取り出した私に、夏油くんは「いい子だ」と言った。なんだか犬になったような気になった。けれど夏油くんに飼われるなら、それもそれでいいかもしれない。そんなバカなことを考えながら、私は断りのメールを打つのだった。



 ファミレスを出た時にちらちらと降っていた雪は、歩いているうちに勢いを増していった。吹雪が視界から色を奪う。まっしろな視界の中で、前を歩く夏油くんの背中を見失わないよう、私は無意識のうちに手を伸ばしていた。夏油くんは不意に立ち止まると、私の手を取り、自分の上着のポケットへと突っ込んだ。
 ――夏油くんの手と私の手がポッケの中で同居してる。ああ、これでもう夏油くんを見失うことはない。
 そんなことを思い、雪が顔面に吹き付けるのに構わず、安堵や嬉しさでニンマリとしてしまった。きっと間抜けな顔をしていたはずだ。それを証明するかのように、夏油くんが私を見おろして、「変な顔」と笑った。夏油くんには私の表情が見えたらしい。でも私には、吹雪のせいで夏油くんの表情を確認することはできなかった。でも笑った。声だけでも分かった。夏油くん、笑ってくれた。

 これ以上歩いているのは危ないと、夏油くんと私はコンテナ型のカラオケ店へ入った。敷地内には小屋のような見た目のコンテナが六棟ほどあって、私たちはそのうちの一棟へと案内された。ドアを開ければすぐにL字型のソファーと小さなテーブル、テレビモニターが置いてあって、こういう場所に初めて来る私は、まずどこで靴を脱いだらいいのか分からずしばらくドアの前で突っ立っていた。そんな私に「靴そのままでいいから」と言って、夏油くんが中へと招き入れてくれる。
 中学生の頃、このカラオケボックスは学年のヒエラルキー最上位にいるような子たちの溜まり場だった。背が高くてかっこよくて運動も勉強もできる夏油くんも、もちろん最上位の人間だった。だからきっと、中学時代に何度もここに来たのだろう。勝手知ったるという様子で空調の温度を調整している夏油くんの横顔を見つめていると、それが物欲しげな顔に見えたのか、夏油くんは「何か飲む?」とメニュー表を渡してくれた。


「やっぱり薄いな」

 オーダーしたコーヒーを一口飲み、夏油くんは呟いた。けれどそれは文句ではなく、懐かしむような口ぶりだった。「この店の飲み物って全部薄いんだよ」と言うので、私は自分が頼んでいたグレープフルーツジュースを飲んでみる。確かにちょっと薄い気がした。
 夏油くんと私は何か歌うわけでも、話すわけでもなく、ただ薄いコーヒーとグレープフルーツジュースを飲みながら、吹雪が止むのを待った。
 夏油くんは小窓の外をずっと眺めている。陽はすっかり落ち、暗闇の中を白い雪が舞っていた。けれど夏油くんの目には他の何かが見えているのか、じいっと何かを捉え続けている様子だった。思い返せば、夏油くんはファミレスにいる時も窓の外を見つめていた。冗談だよとはぐらかしたけれど、私の隣に犬に似た生き物がいるとも言っていた。
 ――夏油くんには、何が見えてるの?
 小中時代まで記憶を巻き戻してみると、みんなとは違う方向を見つめている夏油くんの姿が浮かび上がってきた。
 そういえば、中学の修学旅行で京都に行った時。夏油くんは観光名所のお寺に入るのを嫌がった。人混みが苦手だから観光バスに残る、と。それでも担任から「お寺の前で集合写真を撮るから」と強引に連れ出されて、夏油くんは不機嫌そうにしていた。
 事件は、集合写真の撮影後に起きた。このお寺は切り立った崖の上に本堂があった。そんな本堂から、クラスのムードメーカー的存在の男子が飛び降りようとしたのだ。まるで何かに取り憑かれているかのような、土気色の顔をしていたのを覚えている。そんな彼を救ったのは、夏油くんだった。転落防止の手すりを乗り越えようとしていた彼の腰に飛び掛かり、内側に引き入れた。その後、手すりの向こう側へと腕を伸ばしたのだ。周りにいた先生や生徒たちは、救助された男子生徒に注目していた。夏油くんのことを見ているのは、きっと私だけだった。だからみんな、夏油くんが目に見えない何かに向かって手を伸ばしたことや、ぼそぼそと話していることに気づいていなかった。誰と話してるの? そう思って視線を向けてみたけれど、そこには木々と空しかない。「雑魚が調子に乗るなよ」という言葉が聞こえた。夏油くんの声だった。その時、それまで土気色だった男子の顔に色が戻り、先生たちから安堵の声が上がった。夏油くんは何かを制服のポケットに入れると、人だかりから離れて行った。私はその後を追う。
 夏油くんは境内の片隅に佇み、ポケットから取り出した何かを口に入れた。そうして、ごくりと飲み込んだのだ。苦しそうな顔だった。何を食べたの、と声を掛ければ、夏油くんは勢いよく振り返った。その目は驚きで見開かれていた。「別に、なんでも」とめずらしく口ごもった夏油くんは、苦いものを食べた後のような表情を浮かべていた。そして突然胸を押さえて咳き込み始めたので、私は慌てて駆け寄り、その背中をさすった。飲みかけだけど、と言いながらペットボトルの緑茶を差し出せば、夏油くんは「ありがとう」と微笑んだ。喉を鳴らしながらお茶を飲む夏油くんの横顔にはもう、苦しそうな色は滲んでいなかった。

 ――きっとあの頃から、いやもっとずっと前から、夏油くんには私たちには見えない何かが見えていたのだろう。

「何か、いるの?」

 夏油くんは、相変わらず窓の外を見つめたままだった。私は窓に映る夏油くんの顔を見ながら、静かにそう訊いた。
 
「いるって言ったら怖い?」

 窓越しに夏油くんと目が合う。

「もし君に私と同じものが見えたなら、君はどうするんだろうね」

 私は何も答えなかった。窓に映る夏油くんの向こうには闇しか見えない。それでも目を凝らし続ければ、夏油くんが見ているものが私にも見えるかもしれない。そう信じた。

「今年は色々あって、少し疲れたんだ」

 いつの間にか窓ガラスから夏油くんが消えていた。そのことに気づいたのは、ソファーがぎしっと軋んで、すぐ隣から夏油くんの声が聞こえた時だった。

「だから、癒してくれる?」

 囁くような声。低くて、どこか甘やかで。夏油くんの長い指が私の首筋に触れる。その冷たさに、体がかすかに跳ねてしまった。それでも夏油くんが手を止めることはなかったし、私も私で、拒むことはなかった。

「断ってくれてもいいんだけどな」

 ソファーにあおむけに倒れ、パーカーをたくし上げられて下着があらわになっている私を見おろしながら、夏油くんは言った。

「……いいよ」

 今から何が始まろうとしているのかは、分かってる。承知の上でそう言ったのだ。でも夏油くんは私がちゃんと理解していないと思ったのか、

「簡単に受け入れたら駄目だ」

と、体を離そうとした。だから私はその手を掴んで、自分の胸へと押し当てた。

「全然、癒せるほどの体じゃないけど……でも、夏油くんがそうしたいなら……」

 心臓が体を突き破って出てきそうだった。夏油くんにも手のひらを通じて知られただろう。

「君はどうしたい?」

 夏油くんは、静かにそう訊いた。
 
「私も――夏油くんと、同じ」

 夏油くんは一瞬、唇に力を込めたように見えた。けれどすぐにその形のいい唇をゆるませ、かすかに吐息を漏らした。艶っぽい笑みだった。
 夏油くんは、自分の後頭部へと片腕を回す。そうして、一つ結びにしていた髪をほどいた。その一連の仕草を、心臓の鼓動に体を震わせる私は、ただ見上げていた。はらりと垂れた横髪を片耳に掛けたあとで、夏油くんは私の胸を両側から寄せるように何度か揉んだ。
 身に着けていたものが一枚ずつ剥かれていく。それでも全く寒さを感じなかったのは、夏油くんが空調の温度を高めに設定してくれていたからなのか、私が熱を帯びすぎていたのか。夏油くんはそんな火照った私から熱を吸い取るかのように、全身にキスをした。けれど唇を重ね合わせることだけは、なかった。




(2022.12.07)