一年目の帰郷
食べるのが遅い私は、いつも居残り給食をしていた。
みんなが昼休み開始のチャイムとともに外へ飛び出して行くのを見ながら、冷え切った食べ物をひたすら口に押し込めていた。小学一年の頃の担任の先生は厳しくて、体調不良でない限り、給食を残すことは許さなかった。先生に監視される中で食べるのは、もはや食事という名の拷問だった。
ある時、痺れを切らした先生が、まだ半分以上残っていたご飯に味噌汁をかけた。そうしてぐちゃぐちゃと混ぜながら、こうやればすぐ食べ終わるでしょうと言った。その後で、早く職員室に戻りたいのに、とため息混じりにこぼす。汁気を吸ったお米がどんどんと膨らんでいく。お腹はもういっぱいだった。これ以上はもう、食べられなかった。
「先生、教頭先生が呼んでますよ」
涙を堪えている私と、そんな私を冷ややかに見おろす先生との間に割って入った声。私と先生はその声の方へと視線を向ける。
――夏油くんだ。
教室の入り口に立って「先生」と急かすように繰り返した夏油くんに、先生はもう一度ため息を吐く。そうして私に「食べ終わったらお皿を持って職員室まで見せに来なさい」ときつい声色で言った。
「あの人、高圧的だよね」
教室から出て行く先生の背中に向かって、夏油くんはベーッと舌を出した。
「……こーあつてき?」
「嫌な感じの人ってこと」
夏油くんは大人びた笑みを浮かべながらこちらへ近づいて来ると、私の向かいの席に腰掛けて、
「食べるの、つらい?」
そう尋ねた。
今日の給食は、カレイの南蛮漬け、ひじきと大豆の炒め煮、ごぼうとじゃがいもの味噌汁、わかめご飯。私のお皿にはその全てが少しずつ残っていた。先生の手によってごちゃ混ぜにされた味噌汁とご飯を見つめたまま、私は夏油くんのその問いにこくんと頷いた。
「じゃあ僕が代わりに食べてあげようか?」
「えっ、え……? いいよ、食べかけの物だし、悪いよ」
「平気だよ。こんな食べ残しぐらい、呪霊に比べれば」
「……じゅれい?」
夏油くんは曖昧に笑いながら、ううん、と首を振った。そうして、見るからに残飯と化した味噌汁ご飯やおかずたちを瞬く間に食べてくれた。
その日から夏油くんは、先生の代わりに私の居残り給食を見届けてくれるようになった。先生は優等生の夏油くんに監視役を託したつもりだったんだろうけど、夏油くんは私を監視なんてしなかった。今日も時間内に食べられなかったと落ち込む私の気を紛らわせるようにお喋りしてくれたし、お腹が膨れてもう入らないときには代わりに食べてくれた。
先生には内緒。そんな秘密を共有する夏油くんは、私にとって初めての、大切な友達だった。
「傑くん、帰って来てるんだって」
今年も残すところあと二日。大掃除におせち作りにと休むまもなく働く母の隣で、さすがに何もせずテレビを眺め続けるわけにもいかないと気づいて「何か手伝うよ」と申し出たのが中学二年生の頃。それから毎年、お雑煮用の餅をこねるのが私の役目となった。こねると言っても、餅つき機がせっせと働くのをじっと見ながら、適宜しゃもじで突いてやるだけの気楽な作業だ。それでも母は「上手にお餅できたね」と大げさに褒めてくれるので、私は自分が役立つことを知って嬉しくなる。
娘のやる気を引き出したところで、母は次のお題を課す。一昨年は高野豆腐の水気を切る仕事で、去年は筑前煮に使う野菜たちを切る仕事だった。そして今年は、昆布に鮭の切り身を乗せて巻く仕事。鮭と一緒に自分も巻き込まれそうになるほど顔を近づけ、慎重にゆっくりと昆布を巻いている私に、母はそう言った。
「――え?」
「だから、傑くん。こっちに帰って来てるんだって。さっきスーパーで傑くんのお母さんに会ってね」
栗きんとんに使うさつまいもの裏ごしをしながら話していた母は、そこで「あっ」と何か思い出したように手を止めた。
「そうだ回覧板。夏油さんちに持って行かなきゃだった」
母は私の昆布巻きにちらと目をやったあと、遠慮がちに「お願いしてもいい?」と言う。私は、中学の卒業式の日に夏油くんと交わした言葉を思い返しながら、うんと頷き返した。
――本当に帰って来たのかな。
商店街は普段よりも賑わっていた。両手に買い物袋を下げて歩く人や、忘年会帰りなのか昼下がりからほろ酔いの上機嫌で歩く人。そんな人々の間を縫うように歩きながら、夏油くんのことを思った。
東京に行ってしまった夏油くんとは、中学の卒業式以来、一度も会っていないし、連絡も取り合っていなかった。そもそも夏油くんの連絡先を知らない。連絡する用件があるわけでもない。小学生の頃は、ほとんど毎日のように居残り給食に付き合ってくれていた夏油くんだったけれど、中学に上がって給食からお弁当に切り替わってからは、あまり接点がなくなってしまった。きっと思春期だったせいもある。男子と女子が一緒にいると、すぐに「あの二人は付き合っている」という噂を流されるから。
でも、以前より疎遠になってしまった原因は他にもある。私のあだ名だ。人よりも動作の遅い私は、陰で「ノロ」と呼ばれていた。自分のあだ名を知ったとき、別にショックは受けなかった。だって本当のことだから。でも、ノロってウイルスの名前みたいだから、それなら「のろま」の方がまだ良いのにな、とは思った。あと、そんなノロな私なんかと一緒にいると夏油くんまで妙なあだ名で呼ばれてしまうかもしれない。そう思ったから、夏油くんとは少しずつ距離を置いた。
それでも夏油くんは、人のいない隙を狙って私に話し掛けに来てくれた。のろまの私なんかを気に掛けてくれるなんて、つくづく親切な人だなと思った。
――盆も正月もないような学校だから、きっと年末年始は帰省できないと思う。
中学の卒業式が終わったあと、夏油くんは私にそう言った。東京にある高等専門学校に進学するという夏油くんに、その学校では何を勉強するのかと訊いてみた。すると、「きっと言っても理解できないと思う」と笑ってはぐらかされたっけ。
「こんにちは、です。年の瀬にすみません、回覧板を持って来ました」
インターホンを鳴らしてそう伝えれば、玄関ドアはすぐに開いた。中からエプロンを掛けた夏油くんのお母さんが出て来て、わざわざありがとう、と笑んだ。目を横にすうっと引いて静かに笑むその顔を見ながら、夏油くんの笑い方はお母さんにそっくりなんだなと改めて思った。
「あの、げと――傑くんが帰って来てるって……」
「うん、そうなの。あっ、もしかして何かお約束してた?」
「あ、いえ」
「そう? ごめんね。傑は今、お友達と出かけてて。夕方には帰って来るって言ってたんだけど……」
そう言いながら、夏油くんのお母さんは道路の向こうに息子の姿がないか確認するように首を伸ばした。
「そうだちゃん。よかったら夕飯食べて行かない? そのうちあの子も帰って来るでしょう」
「あっ、いえ……その、もう食べてしまったので」
夏油くんのお母さんは少し残念そうに「そう」と眉を下げた。
嘘だ。まだ夕飯は食べてない。私は食べるのが遅いから、人様のおうちで食事なんて、迷惑をかけてしまうだけだ。
「これ、もしよければみなさんで召し上がってください」
私はその場の空気を取り繕うように、商店街のお蕎麦屋さんで買った太巻きを差し出す。夏油くんはこれが好きだと言っていた。彼の好物はざる蕎麦だ。そんな彼がよく通っていたお蕎麦屋さんには、私も小さい頃からよく家族で食べに行っていた。いつだったか。あの蕎麦屋おいしいよね、と言う夏油くんに、太巻きも絶品なんだよと伝えたら、その翌日には「本当に絶品だった」と目を輝かせながら感想を教えてくれた。あの時の生き生きとした夏油くんの表情を、よく憶えてる。
夏油くんの家を後にし、そのまま自宅には帰らずにぶらぶらと近所を歩き回った。もしかしたら夏油くんがどこかにいるかもしれないと思ったから。
そうして当てもなく歩いていると、河川敷に出た。この街には大きな川が走っている。河川敷には運動場やゴルフ練習場などがあって、いわゆる市民の憩いの場として親しまれていた。そんな河原の土手を歩きながら、ふと思った。この川は東京まで続いているんだっけ、と。水面を橙色に染めていく夕陽に、また夏油くんを思う。
あれは、小学三年生の頃。習字教室の帰り道に、土手で遊ぶクラスメイトたちを見かけた。それは、クラスの中心にいる女の子たちだった。いつも教室の隅でお絵描きをしているような私と仲良くしてくれるはずもない、まぶしい女の子たち。気づかなかったふりをして素通りしよう。きっと向こうだって私なんかに気づくわけもないんだから。そう思い、うつむき加減で歩いていると、「さん」と呼び止められた。名前を知ってくれていただけではなく、「一緒にごっこ遊びをしよう」と誘ってもらって、私はとても嬉しくなった。
それは何かの漫画をなぞったごっこ遊びだった。家では漫画を読まない私は、なんの役をやりたいか訊かれ、正直に「知らないから分からない」と答えた。じゃあこれやって、と命じられたのは犬の役だった。
犬だからセリフもない。何か言われたらワンと答えるだけの気楽な役だった。けれど時間が経つにつれて、彼女たちも退屈になってきたのか、犬で遊び始めた。お手やおかわりを何度も繰り返しやらされ、この漫画の犬はよく遠吠えするんだよと言われて、アオーンと鳴くよう迫られて。犬役もなかなか大変なんだなと思ったけれど、みんなに「よくできました」と褒められるのが嬉しかったので、私は素直に犬に徹した。
最終的には「取っておいで」と靴を投げられた。取りに行く間に、女の子たちは走り去っていった。笑ってた。走りながらこちらを振り返って、あははと声を上げて笑ってた。もう帰るのかなと思ってみんなに付いて行こうとすると、「待て!」と言われた。ああ、まだごっこ遊びは続いてるんだな。そう思って、犬の私は土手に敷かれたレジャーシートの上でずっとステイをしてた。
陽が暮れていく。水面が橙色に染まっていく。それを、ひんやりとしたシートの上で体育座りしたままじっと見つめていた。そうしながら、お母さんのことを思った。なかなか帰ってこない私のことを、きっと心配してる。もう帰らなきゃ。でも、帰っていいのかな。「待て」って言われたから、待ってないと。だって、私が帰った後にみんなが戻ってきたら……せっかく仲間に入れてもらえたのに――。
「見つけた」
不意に落ちてきた影。見上げると、そこには夏油くんが立っていた。首には赤と黒のチェック柄のマフラーを巻いていたけれど、鼻はかすかに赤くなっている。その冷えた鼻先の様子や「見つけた」という言葉から、夏油くんが私のことを探し回っていたのだと悟った。
「一緒に帰ろう」
心細さは、いつも遅れてやって来る。私はのろまだから、自分の感情にさえ鈍感だ。夏油くんの顔を見てやっと分かった。ほんとは犬役なんて嫌だったし、取り残されて悲しかったし、何よりも、一人ぼっちは寂しかった。
ぽろぽろと涙を流す私に、夏油くんはそれ以上何も言わなかった。ただ隣に座って、自分のマフラーを私の首に巻いてくれて、寒さでかじかんでいた手をきゅっと握ってくれた。その静かな優しさとぬくもりに、私は声を上げて泣いてしまった。
そういえば。その次の日に学校へ行って、驚いたことがある。私を置き去りにして帰った女の子たちはなんだか顔色が悪くて、昼休みは外にも行かず教室の隅で身を寄せ合っていた。何かに怯えている様子だった。いつものように居残り給食をしていた私と、それに付き合ってくれていた夏油くん。夏油くんはおもむろに立ち上がると、彼女たちの方へと近づいて行って、確かこう言ったんだ。「ワン」。その途端に女の子たちは泣き叫ぶような声を上げて教室から転がり出て行ってしまったっけ。夏油くんはそれを見て笑ってた。あれは一体、なんだったんだろう――。
「寒くない?」
昔の記憶をたどるために逆回転していた脳が、途端に元に戻されたような、そんな感覚だった。声の方へ顔を向ければ、そこには、
「……あ――」
夏油くんが、いた。
黒のもこもことしたダウンジャケット。夏油くんはそのポケットに両手を入れて、突っ立つ私の頭のてっぺんから足先まで視線を何往復かさせると、
「少し背が伸びたかな」
そう言って微笑んだ。そうして私の方へとゆっくり近づいて来る。距離が縮まるほどに分かるのは、夏油くんの髪と背がずいぶんと伸びたということと、両耳にはピアスが開けられているということ。
「もう一度聞くけど、寒くはないかい?」
「え、うん……あっ」
「ん?」
「寒い、かもしれない」
やっぱりね。夏油くんがふっと漏らしたやわらかな吐息に、そんな言葉が含まれているように思えた。
長く外にいるつもりではなかったので、パーカーにマフラーを巻いただけの格好だった。夏油くんに言われて、ようやく肌寒さに気づくなんて。でも私は、昔からそうだった。夏油くんは私の感じていることに敏感だったし、私は夏油くんに言われて初めて、自分の感じているものの正体に気づくのだ。
「……あ、太巻き」
不意に呟いた私に、夏油くんは首を傾げてみせた。
「お蕎麦屋さんの太巻きをね、夏油くんのお母さんに渡してるから、よかったら食べて」
夏油くんはダウンのファスナーを下げながら目を細める。
「ありがとう。覚えててくれたんだね、私の好物」
「……忘れるわけ、ないよ」
あれ、と思った。だって一人称が変わったから。中学までの夏油くんは自分のことを「僕」と呼んでいたのに。髪も背も伸びて、耳にピアスを開けたその外見の変化よりも、呼称が変わったことの方が、夏油くんの中の何かが変貌したことを如実に表しているように思えた。それに夏油くんの「私」という呼び方は、なんだか自分のことを一歩引いて捉えているような、俯瞰しているような、そんな感じの響きがした。
「――わっ」
肩に重みを感じ、情けない声が漏れる。夏油くんが自分のダウンを脱ぎ、私に被せたのだった。
重たい。でも、あったかい。それになんだか、良い匂いがする。夏油くんの家のそれとはまた違う。これはきっと、夏油くん自身の匂い。私が知らない間に、東京の学校で大人になっていっている、夏油くんの――。
「太巻きにありつく前に空腹で倒れそう」と言う夏油くんを連れて、河川敷近くのファミレスに入ったのが三十分ほど前のこと。夏油くんはチキン南蛮定食を、私はハンバーグカレードリアを頼んだ。
料理が来るまでの間、夏油くんは私に「高校はどう?」と訊いた。「楽しいと思うよ」と言うと、「他人事だね」と笑われた。本当は、まだ高校生活に楽しさを見出せていない。授業に付いて行くのがやっとだし、気を許せる友達もできていない。「夏油くんはどうなの」と訊けば、夏油くんは少し間を置いたのち、「楽しいと思うよ」と私の言葉を真似た。そう言った夏油くんの口元は、かすかに緩んでいた。だから分かった。夏油くんは学校での日々を楽しめているんだな、と。
料理を運んで来た店員さんに「お熱いのでお気をつけください」と言われるまで、自分が猫舌であることを忘れていた。もともと食べるのが遅いくせに、冷ましながら食べなくちゃいけないものを頼むなんてとんだバカだ。夏油くんはきっと忙しいのに。そんな私の気持ちを察してか、夏油くんは「ゆっくり食べな」と言ってくれた。その言葉に甘えさせてもらった私は、ふうふうと息を吹きかけながら、舌を火傷しないよう慎重に食べ進めた。
「もう食べられない?」
チキン南蛮の最後の一切れ。それを大事そうに頬張る夏油くんをぼうっと見ていたら、不意に視線がかち合ってしまった。夏油くんは箸を置き、私の皿に目を落としてそう尋ねた。
図星だった。久しぶりに夏油くんと会えて緊張が解けないのか、いつも以上に満腹を感じるのが早くて、これ以上食べられそうになかった。
「食べてあげようか」
「え、でも……食べかけだし、悪いよ」
「何を今さら」
夏油くんはそう言った後で、堪えきれなかったのか噴き出すように笑った。
――本当に、今さらだ。小学生の頃、散々残り物を食べてもらっておいて。
夏油くんは黙りこくる私に構わず、ドリアのお皿を引き寄せる。そうして律儀にも「いただきます」と小さく頭を下げ、食べ始めた。
夏油くんの食べる所作は、なんだか丁寧でいつも見惚れてしまう。食べ方がきれいなのだ。米粒だって、骨付き肉や魚の身だって、ひとかけらも残さない。いつかお母さんが言っていた。「いただきます」とは、「あなたの命をわたしの命にさせていただきます」という意味なのだと。だから食材に感謝して食べなさいね、と。食べる夏油くんを見ていると、そんな言葉を思い出す。
――また、目が合った。
私が夏油くんを見つめすぎなのだと、慌てて視線を逸らす。そこで、夏油くんの手元のグラスが空いていることに気づいた。弾かれたように立ち上がり、ドリンクバーへと早歩きで向かうと、迷わずコーヒーのボタンを押す。カレーの後はコーヒーが合うと、前に夏油くんが言っていたのを覚えていたから。コーヒーが飲めるなんて大人だな、と思った記憶がある。
「お口直しにどうぞ」
コトン、と置かれたコーヒーカップを見て、夏油くんは少し目を丸くした。
「いつもそうだな」
「え?」
「私が食べ終わるとき、君はいつも飲み物を出してくれるんだ」
そうだっけ、と首を傾げる私に、夏油くんは「そうだったよ」と笑む。
「水筒からお茶を注いで、はいどうぞって。夏はよく冷えてて、冬はあたたかくてさ」
おいしかったなあ。夏油くんは深い息を吐くような声で呟くと、コーヒーを一口飲んだ。
「夏油くんって、いつまでこっちにいれるの?」
「元日の夜には向こうに戻るかな」
「……明後日?」
「そう」
「そっか、忙しいんだね」
――東京でアルバイトでもしてるのかな。それとも学校の友達と何か約束してるとか。
質問したいことはいくつもあった。でも、卒業式の日のように「言っても理解できないと思う」という言葉が返って来てしまうのでは、と思うと踏み込めなかった。
「……あ、あのっ」
「ん?」
夏油くんは片手に持ったコーヒーカップ越しに私を見る。
「夏油くんの電話番号……教えてもらってもいい?」
声の端が震えてしまった。夏油くんの反応を見るのが恐ろしくて顔を伏せていると、
「メールアドレスは?」
そんな問いに、私は頭を上げる。
「ううん、電話番号だけで」
「そう」
――連絡するハードルが高い方がいい。メールだと、不要な連絡を軽率に送ってしまいそうだから。
夏油くんは携帯画面をこちらに向けた。私は慌てて携帯を取り出し、そこに表示された番号を打ち込む。
こうして再会するまで、夏油くんはただ東京に行っているだけで、きっと学校を卒業したら地元に戻ってくるんだと漠然と思っていた。けれど今日、確信した。夏油くんがこの街で生活することは、もうない。だったら少しでも、夏油くんとのつながりが欲しいと思った。過去の人で終わらせたくはなかった。だって、初めてできた友達だったから。
「……あっ、そうだ。まだ言えてなかった」
何か伝え忘れていることがある気がしていた。それが何か、夏油くんの番号を登録した後で気づいた。
「おかえり、夏油くん」
夏油くんは少し面食らった表情を見せた。けれどすぐにその目をすうっと横に引いて、静かに笑むのだった。
「ただいま」
帰ってきた人にかける言葉。迎えた人にかける言葉。あと何回、夏油くんとこんなやりとりができるんだろう。夏油くんがコーヒーを飲む姿をぼうっと見ながら、そんなことを思った。
(2022.12.04)