夫、煉獄杏寿郎が厄介な血鬼術にかかってしまった。鎹烏からのその報せに、視界が墨でにじんでゆくように感じた。長く煉獄家に女中として仕えていた身。鬼による被害がどれほどむごたらしいものかということは理解している。そして妻となった今、いつかは夫の身に何か起こるかもしれないということも、覚悟していた。――つもりだった。情けないことに、屋敷の前でその帰りを待ち続ける間、手足が震えて仕方がなかった。歩くことも、起き上がることすらできない体になっていたら。もし頭をやられて記憶を失っていたら。そんなことが巡り、震えとなって表れてしまったのだ。
 道の向こうに見え始めた人影に、唇を結ぶ。隠の方だった。その腕には何か、包みのようなものを抱えている。――違う。包みではない。炎柱の羽織だ。
 血の気が引いたようにして口元を覆っていると、その羽織の下から子どもの手らしきものが見えた。よく目を凝らしているうちに、隠の方はもうすぐそこまで迫って来ていた。私も一歩、二歩と前へ進み出る。すると、羽織の下がもぞもぞと動いた。

「しんぱいをかけたな!」

 ひょっこりと顔を出したのは、ほってりとした頬、丸々とした目、燃えるような焔色の髪。それは確かに、杏寿郎さんの幼い頃と瓜二つの幼児で――

「……杏寿郎、さん?」
「うむ! ただいま!」


 鬼の撒き散らした煙を吸ってしまった。途端に体が縮んでいくのを感じた。鬼の頸を斬ってもなぜだか治らない。胡蝶に診てもらったのだが、もっと煙を吸っていれば体はこれ以上収縮してそのまま消えてしまっただろうと言っていた。しばらく陽光を浴びていれば、体内の毒も消えて治癒するだろうとのことだ。
 血鬼術によって三歳の幼子に姿を変えられてしまった杏寿郎さんは、縁側にちょこんと座って庭を見つめながら、自らの状況について滔々と説明した。家に帰ると、まず仏壇に手を合わせてから着替えを済ませ、最後に熱いお茶で一服するのが杏寿郎さんの習慣だった。いつものようにお茶を淹れて差し出せば、杏寿郎さんは湯呑みに口を付けた途端、「あつい!」と声を上げ、みるみるうちに涙目になっていった。舌を火傷したらしい。三歳の体に熱々のお茶はまずかった。なんて気が利かないんだろうと何度も謝る私に、杏寿郎さんは「おれがわるい」と言った。

「でも、治るんですもんね」

 ぬるめたお茶を置きながらそう訊けば、杏寿郎さんは「そのはずだ」と力を込めた。私は杏寿郎さんの隣に腰をおろし、その姿をしげしげと見つめる。杏寿郎さんは丸く大きな瞳でこちらを見上げてくる。

「よかった。体のどこかを失くしてしまったわけではなく、こうして言葉を交わせる状態で帰って来てくださって……」

 よかった。もう一度そう漏らすと、唇がふるふると震えはじめてしまった。それを隠すようにしてうつむけば、私の膝を、紅葉のような手がなだめるように撫ぜてくれた。はっと顔を上げると、そこでは杏寿郎さんが眉尻を下げながら笑んでいた。
 私は込み上げる衝動を抑えきれず、その小さな体に腕を伸ばす。脇の下に手を差し込んでヨイショと持ち上げれば、杏寿郎さんは「おおっ?」と素っ頓狂な声を漏らした。

「そのうち治るのだと分かればひと安心です。今は三歳児の杏寿郎さんを、たんと可愛がらせていただきます」

 膝の上に乗せるかたちで、杏寿郎さんをぎゅうっと抱きしめる。柔らかくて、温かい。無限に沈み込んでいきそうなこの感覚は病みつきになってしまいそうだ。

「杏寿郎さん、とっても抱き心地がいいです。それになんだか、お天道さまみたいな匂いがします」
「そ……き……」
「え?」

 そのくぐもった声に腕をゆるめると、杏寿郎さんは私の胸に埋まっていた顔を上げた。そうして、小枝のような指で、私の胸の膨らみを遠慮がちに指す。

「きみの、その、それで……いきが! とまりそうになった!」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、丸みを帯びた頬を赤らめている。そんな姿に、私の中でひっそりと息を潜めていた悪戯心が呼び覚まされる。

「ごめんなさい。抱き方が悪かったですね」

 杏寿郎さんの背中に手を回し、その後ろ頭を手で支えるようにしながら横抱きにする。まるで赤子をあやすように抱き包めば、杏寿郎さんはさらに顔を紅潮させるのだった。

「むっ、むねが! かおにふってくる!」

 先ほどは言い淀んでいた「胸」という言葉を発するほどには混乱しているらしい。普段は冷静な夫のめずらしい反応に、私は自制できないほどに頬がゆるんでいくのを感じた。やめてくれと言われないのを良いことに、杏寿郎さんを腕に抱き、ゆらゆらと左右に揺らす。動きを止めたのは「兄上?」という声だった。

「あっ、失礼しました!」

 千寿郎さんは、私と杏寿郎さんの姿に目を見開くと、くるりと背を向け、もと来た廊下を戻って行こうとする。杏寿郎さんが「せんじゅろう!」と声を上げるのと、私が杏寿郎さんの体を手放すのはほとんど同時だった。

「すまない! けいこのじかんだったな」
「ええ、はい。でも兄上はそのお体ですし、ご無理は……」
「もんだいはない!」

 小さな体が腕を組んで仁王立ちしている姿を、私は背後から見ていた。千寿郎さんは正面から見据えている。

「兄上の、そのお姿……」

 結んだ唇の隙間から声を漏らすようにしながら、千寿郎さんは一歩一歩こちらへ近づいて来る。そうして、「どうした?」と首を傾げる兄へと両腕を広げ、

「ほんっとうに! 愛らしいです!」

 と、覆い被さるようにして抱きしめたのだった。心の底から出たというようなその叫びに、私は思わず前のめりになって「そうですよね」と激しく頷く。

「そうちゃかすんじゃない。おれは、じぶんのふがいなさにがくぜんとしているんだ。あながあったらはいりたい」

 千寿郎さんの脇の下から這い出るようにしながら、杏寿郎さんはうめくように言った。千寿郎さんと私は顔を見合わせ、重めの瞬きを一つ落としながら頷き合うと、再び杏寿郎さんへと視線を戻す。

「でも愛らしいです」

 妻と弟がそう声を合わせるので、杏寿郎さんは一瞬面食らったような表情を見せたが、すぐにまなじりを下げた。

「なにをいってもムダだな!」

 ははは、と歯切れのいい笑い声に、私も千寿郎さんも体を揺らして笑うのだった。


 日課の稽古を終えた後、夕食の場で杏寿郎さんは肩をがっくりと落としていた。いつもなら平らげてしまう一升の飯が、まだあと半分以上残っている。日中あれほど陽光を浴びたのに、体は一寸たりとも大きくならない。そのことに気落ちしているのか、杏寿郎さんは「ごちそうさま」と弱った声で手を合わせると、ふらふらと居室へ戻って行ってしまった。
 それから一刻ほどが経ち、そろそろ声を掛けてもいい頃合いだろうかと思いつつ、襖の向こうから「杏寿郎さん」と呼び掛ける。しかし返事はない。

「杏寿郎さん、お風呂に――」

 そっと襖を開けてみると、行燈の消えた部屋には月明かりだけが差し込んでいた。その青白いひかりが、部屋の片隅で無造作に広がる炎柱の羽織を照らしていた。近づいてみると、羽織を掻き抱くようにして眠る杏寿郎さんの姿があった。呼吸するたびに膨らむ体や、羽織を握る短い指、時折むにゃむにゃと動く、ツンと上向いた唇。

「……いつか子どもができたら、こんな感じなのかなあ」

 好いて仕方のなかった人との子を授かるとは、どういう気持ちなのだろうか。きっと結ばれることなどないと諦めていた人と、こうして夫婦になれた。それだけで十分すぎるほどに満たされているのに、それ以上の幸福があってもいいものなのだろうか。話がうまく行きすぎてはいないだろうか。たまに恐ろしくなる。人は身に余るほどの幸福を享受すると、畏怖するものなのかもしれない。

「杏寿郎さん」

 自らの不甲斐なさに愕然としている。杏寿郎さんはそう言った。命に関わる怪我ではなかったことに安堵し、その見た目の愛らしさに気が弾み、少し舞い上がりすぎてしまった。夫が気落ちしているのに、なんて愚妻なんだろう。今頃になって反省の念が込み上げてきて、私は彼のまろやかな頬にそっと触れ、起こしてしまわぬよう囁く。

「おやすみなさい。目覚める頃には、きっとすべて元通りになっていますよ」

 そのうち、杏寿郎さんの健やかな寝息に誘われるようにして、意識が体の奥へ奥へと引っ込んでいった。


 聴き慣れた声がする。ずっと待ち侘びていた声だった。瞼を押し上げると、月明かりがふっと差し込む。その中でこちらを見おろす人の影に、吐き出す息が震えてしまった。杏寿郎さんだ。元の体に戻った杏寿郎さんが、口角をきゅっと上げて私を見つめていた。

「……杏――」
「子を成そう!」

 左の耳から入ったその言葉は、私の頭のすべての働きを奪うと、右の耳孔から飛び出していった。一つ間を置いたのち、夫は再び「子を」と力強く頷きながら、その赤い瞳をまっすぐに向けてくる。

「……もしかして、聞こえていたんですか?」
「うむ! うっかり聞いてしまった」

 いつか子どもができたら、という私の言葉。杏寿郎さんが寝たふりをしていたとは思えない。耳と頭は起きていたのだろうか。そんなことを考えながら身を起こすと、杏寿郎さんは私の手をぎゅっと握る。

「俺は君がまだ子どもは望んでいないのだとばかり」
「そんなこと……望まないわけ、ないです」

 気恥ずかしさに火を噴いてしまいそうだ。杏寿郎さんと夫婦となってから、まだ床を共にしたことはない。婚礼の夜は、二人して飲み慣れない酒に酔い潰れてしまい、そのまま機会を逃し続けてきたのだった。

「そうと決まれば善は急げだ!」

 杏寿郎さんの目はどこか輝いているように見えた。私の背に腕を回し、後ろ頭をその大きな手のひらで支えるようにしながら、横倒しにする。

「昼間は好きに弄んでくれたな」
「も、弄ぶなんてそんな……」
「どうだろう。君は愉快そうに笑っていたが」

 ふっと浮かべた杏寿郎さんの淡い笑みが、私の唇へと消えていく。久しぶりに口づけを交わしたような気がする。呼吸の仕方を忘れてしまい、だんだんと息苦しさを感じていると、杏寿郎さんはそれに気づいたように口を離し、息を吸う暇を与えてくれた。

「あ、あの、お風呂に……」
「いや、こちらが先だ」

 言い出したら聞かないところは、幼い頃から変わっていない。その頑固さに救われたことは幾度もあるが、今回ばかりは少し弱ってしまった。杏寿郎さんを汚いと思うことはない。気に掛かるのは、自分の体の方だ。初めてまぐわうというのに、清めていない身を晒すというのはなんとも……。

「杏寿郎さん?」

 どうしたら風呂に入らせてくれるだろうかと思案していると、不意に広がった静けさが気に掛かった。杏寿郎さんは「まずい」というような表情を浮かべたまま静止していたが、私が声を掛けるとサッと背を向け、何かを確認するように頭を下げた。そうしておもむろに立ち上がり、

「胡蝶のところへ行く」

 と、襖に向かってずんずんと突き進んで行くのだった。

「どうかなさったんですか?」

 慌てて私も身を起こせば、杏寿郎さんは襖に手を掛けた状態で、こちらを向くことなく言った。

「……まだ元に戻っていなかった」
「え?」
「股間だけが、まだ幼子のままだ」

 声の余韻が消えると、込み上げてくるものを呑むように、私は自分の口を覆い隠す。杏寿郎さんはすかさず振り返ると、「笑ったな?」と目を細めた。そこに浮かぶのは怒りの色ではない。恥の色だ。

「ごめんなさい。想像したら愛らしくて」
「笑い事ではない。こんな体では君を抱くことができないだろう」

 むう、と唸る杏寿郎さんへと近寄り、その腕にそっと頬を寄せる。

「胡蝶さんのところへ行って、そこを診ていただくんですか?」
「それもためらわれるな」

 杏寿郎さんは、「弱ってしまった」と深く息を吐いた。

「一晩様子を見ましょうよ。ほら、足の親指の爪だって、まだ普段よりも小さいでしょう? 昼間に浴びた陽光が、杏寿郎さんの体を少しずつ元に戻していってるんですよ」
「股間は最後か?」
「そうなのかもしれないですね。なんというか、こう……一番込み入っている部位なんでしょうね」

 神妙な面持ちで言う私に、杏寿郎さんは眉根を寄せた後、耐えかねたように噴き出した。「そうかもしれない」と笑う杏寿郎さんに、私の胸にも安堵がにじんだ。

「だが俺はどうにも気が焦ってしまうんだ」
「なぜですか?」
「君の気が変わらないうちに子を、と思って」
「……もう、杏寿郎さん。変わるわけがないでしょう」

 目の前に広がるのは、幸福さにおそれおののく私の臆病な心さえも呑み込んでしまうほどの、どこまでも慈愛に満ちた笑みだった。
 いつかはひとり、またふたり。そうやって大切な存在を増やしていける家族に、私たちはゆっくりと、着実に近づいている。もう、なにも怖くない。



- 完 -



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