窓から差し込む朝の光に目を細めながら洗面所へ向かい、歯ブラシを手に取った。 見知らぬ土地で店を立ち上げてからしばらく慌ただしい日が続いたが、近頃ようやく落ち着いてきた。しかし万事屋などという仕事はとても不安定な職なので、生活は決して楽とは言えなかった。それでも飢えそうになれば大家が見かねて食糧を恵んでくれるので、どうにか今日まで食いつなげてきた。「仕事は与えられるものではない。」そんなことを大家に言われ、そろそろ腰を上げて営業回りでもしてみようかと考えている。昨晩大家にそのことを告げると、「あんたは口だけだからねえ」と鼻で笑われてしまった。 そんな大家に「今に大勢の客と金連れて帰って来てやらァ」と大見得を切ってしまったので、こうして朝早くから起きて歯を磨いているのだ。しかし、営業回りと言っても何をどうすれば良いのか。「万事屋やってます。何か困り事などあれば何でも承りますので。」こんなものだろうか。だが、チラシも名刺も無いから信用されないかもしれない。 そんなことを考えながら部屋に戻って着替えていると、足の平からドンドンと突き上げるような振動が伝わってきた。思わず舌を打つ。ババアめ、これ以上ケツ叩かれなくともこっちはやる気満々だってんだよ。畳を激しく踏んでみせると、階下からの振動はぱたりと止んだ。 何だかんだ言いながらも大家のお登勢には感謝している。戦に負けて行くあてもなく彷徨い、飢え死にしそうだったところを救われただけではなく、住む場所まで与えてくれたのだ。あの時お登勢と出逢わなければどうなっていただろう。 銀時はブーツに足を通し、玄関扉を開けた。首を鳴らしながら戸締りを済ませると、鍵をくるくると回しながら振り返った。すると勢い余って指先から鍵がこぼれ落ち、柵を飛び越えて表通りに落下していった。やべ、と声を漏らして銀時は柵に掴まり、通りを見下ろした。通行人の頭に当たったかもしれない。しかし通りには人があまりおらず、朝日を受けて輝く鍵が小さく見えるだけだった。 安堵した時、向かいの定食屋の軒下からこちらを見上げる女の姿に気が付いた。銀時は目を細めた。女の居る方が暗いので、朝日を浴びる銀時からはその顔がよく見えない。銀時が視線を離そうとした時、女は一歩前へ踏み出し、軒先から出た。そうして女はそのまま銀色の鍵を拾い上げ、再び銀時の方を見上げた。その顔を見て、細められていた銀時の目は途端に大きく見開いた。 「…………?」 ソファに腰掛けて脚絆を外すに湯呑を差し出すと、よほど喉が渇いていたのか、彼女はそれを一気に飲み干した。 「どうして俺が江戸に居るって知ってたんだ?」 「風の噂で聞いたの。ねえ、もう一杯もらっても良い?あ、自分で淹れてくるから大丈夫」 そう言って台所へ向かうの背に、銀時は続ける。 「江戸には何しに来たんだ?」 「もちろん時ちゃんに会うためだよ。ねえ、すごく良い家だね。でもちゃんと家賃払えてるの?」 「京からここまで一人で来たのか?」 「そうだよ。あ、お台所も綺麗にしてあるね。ちゃんと自炊してるのー?」 「旦那は?」 ぱたりと返事が途絶えた。 銀時が不思議に思って台所を覗いてみると、は急須を傾けていた。 「?」 「死んだの」 急須を置き、湯呑を手に持ったは、銀時の脇を通って居間へ戻る。の言葉が理解出来ぬまま、銀時も彼女の小さな背を追った。 ソファに浅く腰かけ、湯呑を両の手のひらで包み込むようにして持ちながら、は言葉を続けた。 「うちのお店、天人とも取引してたから尊攘志士に目を付けられて。私が留守の間に、家も旦那も燃えちゃった」 「……子供は?」 「いないよ。だからもう京に居る必要はないし、故郷に戻ろうかと思って。でもその前に時ちゃんに会っておきたかったから」 「辛かっただろ」 「……え?」 「徳兵衛のこと。あいつは気ィこそ弱かったけど優しい奴だったし、そんな旦那を亡くしちまって」 そう言って俯く銀時に、は表情を消した。 銀時は仲間を失くす痛みには慣れてしまっていた。しかし身内を失くす痛みはまだ知らない。自分よりも先にそれを知ってしまったが今、どれほど辛いか。 「燃えて困るものなんて、あの家にはひとつも無いと思ってた」 抑揚のない声だった。銀時は一瞬目を細めた。しかしその目はすぐに見開いた。 「お前、まさか……」 「でも思い出したの。私、失くしちゃった。すごく大切だったもの。松陽先生の手習い本」 「……、お前」 「違うよ。代わってくれたの、鬼。私が鈍くさいからって」 銀時が声を漏らさずに唇をかすかに動かした。その動きは確かに、かつて同じ寺子屋で学んだ男の名を表わしていた。 頭を抱えた銀時に「ねえ、時ちゃん」と言ったは、湯呑をテーブルに置き、立ち上がった。 「私、時ちゃんに訊きたいことがあるの」 「待てよ、俺ァ今何がなんだか……」 「昔から、私にちゃんと分かるように教えてくれるのは松陽先生と時ちゃんだけだった」 遠い日、よく河原でそうしたように、は銀時の隣に腰掛けた。頭を抱えたままの銀時に手を伸ばすと、その手はすぐに掴まれた。 「殺したのか。徳兵衛を、高杉が」 銀時は乱れる前髪の向こうから鋭い視線でを見据えていた。 「違うの。晋は私を救ってくれたの。だから晋を責めないで」 「どういうことだよ。幼馴染み殺す奴を責めずにどうしろって言うんだよ。お前は昔っからあいつのやることは全部肯定するだろ!」 今まで見たことも無い銀時の形相と荒い声には身体を震わせた。その様子に気付いた銀時は我に返ったかのように「悪ィ」と俯いた。 「見て」 はそう言って、着物の裾を開いた。露わになった太ももには、小さな火傷や切り傷の痕が。それを見た銀時は目を見開いた。 「徳兵衛が私と夫婦になったのは、晋や時ちゃん、小太郎を見返すためだった。あの人が執着していたのは、少女の頃の私だったの。過去にとらわれてばかりいて、今を見ることが出来ない、かわいそうな人だった。……でも、それは私も同じ」 言葉を失くしたままでいる銀時に、裾を整えながらは言う。「ねえ、時ちゃん。」 「あの村里は、私達が育ったあの里は、時ちゃん達にとっての帰る場所って言える?」 の声は擦れていた。の足を呆然と見ていた銀時だったが、その声の様子に顔を上げ、の表情をうかがった。かつてのは、声を擦れさせたと思えばすぐに涙をこぼしていた。擦れ声は、頬を赤くして、しゃくり上げながら号泣する準備が出来ていることを告げる合図だったのだ。 しかし今、の目には涙のかけらも見られない。 「これまでも、これからも、あの村里は俺の故郷だ。でも帰る場所じゃねェ。戦が終わっても、帰ろうなんざ微塵も思わなかった。ヅラだって高杉だってそうだろうよ」 銀時がそう言うと、途端には打ちのめされたかのような顔になり、息を漏らした。 「どうして……?確かに辛いことはあった。先生はあの小山のふもとで亡くなった。でも、でも、良い思い出だってたくさんある」 「」 「それも全部忘れて、辛い記憶しかない土地になってしまったなら、先生だって悲しむよ」 「」 「そんなのきっと望んでない」 銀時はの背に手を伸ばし、撫でた。興奮していただったが、銀時に背をさすられる内に息が落ち着いていった。 は湯呑を手に取り、一口飲んだ。その横顔に「なあ」と銀時が口を開く。 「お前は今でも、蝶にも帰る場所があると思ってんのか」 まっすぐにこちらを見上げたに、銀時はわずかに頬を緩めた。 「思ってるよ。じゃなきゃ、羽を休められない。飛び続けられないから」 あてもなく飛び続けて、花から花へと移りかわってゆく蝶にも帰る場所があるのだと、は幼い頃からかたくなに主張していた。はじめは何を言ってんだと笑い飛ばすこともあったが、それでもは蝶を見る度に「お家へ帰るのね」と言っていたので、とうとう銀時まで蝶を見かければ考えてしまうのだった。あの蝶の里は、どこにあるのかと。 「お前だよ、」 は両手で湯呑を包んだまま、銀時を見つめていた。 「お前が居る場所が、俺のふるさとなんだ」 銀時には、がぐらりと揺れたかのように見えた。しかし同時に喉の奥が締まったので、から顔を背けて目頭に指を当てた。そこにじわりと生温かいものを感じて、視界が揺れたのはこのせいだと気付いた。しかしそれはすぐに引いた。 銀時が顔を戻すと、は湯呑を持ったまま唇をかたく結んで、変わらず銀時を見つめていた。 「俺だけじゃねェよ。ヅラだって高杉だってそうだろうよ。でも、俺達はもうガキの頃みたいにはなれねーんだ。それぞれ違う道を選んだ。それはもうどうにもならねェことだってことだけは分かってくれ。でも、お前や先生を通して俺達は繋がってる。この鎖ばっかりとは断ち切りたくても断ち切れねーよ。俺達にとっちゃ、お前と先生はでけェんだ」 そこまで言うと、銀時は立ち上がった。そうして隣の部屋へ入り、再び戻って来た時には片手に何かを携えていた。 の隣に座ると、銀時は「ほら」と差し出した。 「これ……」 「お前が持ってろ。ラーメンこぼして味噌くせーけど」 差し出されたのは、松陽の寺子屋で使っていた手習本だった。四隅は擦り切れ、紙はくたびれ、何度も何度もページを捲ったことが一目で分かるほど使い込まれていた。 「もう失くすなよ」 がおそるおそる手習本に触れると、銀時は強引に手を取らせた。 本を捲ると、余白にびっしりと落書きのされているページがあった。それはが幼い頃に書いた文字だった。松陽に字が綺麗だと褒められ、嬉しくなって銀時の手習本に「坂田銀時」の名前を書き連ねたのだ。「高杉晋助」や「桂小太郎」の文字もある。「これおれの手習本なんだから、書くならおれの名前だけにしろよ。」「たいして上手くねーな。」「ここ、もっとトメをしっかりした方が良いぞ。」そんな声が蘇って来て、は目を細めた。 しばらく手習本を眺めた後、は本を閉じた。そうして銀時を見上げ、言った。 「時ちゃん。私、嘘ついてた。私ね、今、お腹にこどもがいるの」 言った後では銀時から視線を逸らし、俯いた。 しかし、すぐには顔を上げた。銀時が「」と声を掛けたからだ。 「腹、触っても良いか?」 が頷くと、銀時は手を伸ばし、の腹に当てた。 まだ膨らみは無いが、確かにひとつの命を宿している。はそれまでもう一つの生命を感じることが出来なかった。しかし銀時の手の平が触れると、腹の内側がどくんと鳴った。は今ようやく、もう一人の存在を認めたのだ。 「ごめんなさい」 腹の中の命を消そうとしたこと、拒み続けたことに対して、は謝り続けた。 銀時はの腹を擦り続け、 「あんなにベソばっか掻いてたお前が、母親になるのか。俺達も、年取ったんだな」 と、穏やかに言った。はその手に自らの手を重ね、涙を流した。 「ったくよォ。お前は昔っからめそめそ泣いてばっかりで、時ちゃんは慰めんのが大変よ?」 銀時は、頬を赤くしてしゃくり上げ始めたを抱き寄せ、まるで赤子をあやすかのように背中を優しく叩いた。トン、トン、トン、という心地良い振動に合わせるようにして、トクン、トクン、という鼓動を感じた時、はようやく胸の奥底から呼吸が出来たように感じた。 が腕を回して強くしがみ付いてくると、銀時は笑い、そうして言った。 「ただいま」 春が来た。村里は、長い冬を終えて芽吹き始めた新たな生命にかがやいていた。実を付け始めた木の枝に止まる鳥の鳴き声、山から下りてくる水のせせらぐ音、腰を曲げて稲を植える百姓達の談笑。のどかな村の、のどかな春の風景。そんな春のあたたかな日のもと、蜜を求めて蝶は飛ぶ。 朝露にしっとりと濡れた村里を見渡せる小山の頂では、少し時期の早い桜がもう花開いていた。その小山に、小さな草花を避けるようにして地面に黙々と絵を描く少女がいた。 「あ、チョウチョ!」 しゃがみ込んでいた少女は、ひらひらと舞う蝶を見つけた途端に立ち上がり、元気良く飛び跳ねた。 「おかあさん!チョウチョ!」 少女は目を輝かせて振り返った。その視線の先には、墓石の前で手を合わせる女性が居た。少女がもう一度「おかあさん!」と呼ぶと、女性は腰を上げて娘の元へ向かう。少女は傍らにやって来た母の袖を掴み、甘ったるい風に乗るようにして飛ぶ蝶を指した。 「見て!」 「本当だ。どこに帰るんだろうね」 母が言うと、少女は「どこにかえるんだろうね」と真似た。 「さあ、私達もそろそろお家へ帰る?」 「ちょっとまってー。しょーよー先生にチョウチョおしえてあげるの!」 そう言って駆けた少女は、墓石の前にしゃがむと、目をつむって手を合わせた。 そんな娘の姿に女性が目を細めていると、不意に、蝶が女性の視界を横切っていった。 「」 声のした方と蝶の飛んでゆく方は同じだった。 桜木の向こうに立つその人の姿を認めると、は笑んだ。 「おかえりなさい」 ― 完 ― (2011.9.27) メッセージを送る |