嫁をもらって一度も体を求めない旦那は、おかしいのだろうか。そのことに内心ひどく安堵している妻は、それ以上におかしいのだろうか。子どもが生まれれば、ついに未来永劫この土地に縛り付けられてしまう思いがしていたので、無理強いしない夫がありがたかったのだ。



- 蝶の里 -
後篇 




 芯まで凍えるような冬が去り、京を囲む山々が桜色に彩られ始めた。
 が京の油問屋徳兵衛に嫁いで、もうじき三年が経とうとしていた。親の強引な勧めで結婚し、見知らぬ土地へやって来たが、同じ寺子屋で幼少期を共にした旦那の穏やかで面倒見の良い性格の助けがあって、はすぐに京に慣れる事が出来た。
 しかし京のなだらかな山並みは、たびたび春江に生まれ育った村を思い起こさせた。すると、どこかの地で戦っているであろう三人の姿が目に浮かび、胸が痛んだ。はその度近くの神社に駆け込み、どうか無事であるよう手を合わせるのだった。

 ある夜。布団から這い出たは、異様なほどに汗をかいていた。土間へ下り、春といってもまだ少しばかりの肌寒さを残す気候だったので、自分でも驚きながら汗を拭っていた。すると物音で起きてしまったのか、徳兵衛が土間へ顔を出した。

。どうかしたのかい」
「……悪い夢を、見たの」
「悪い夢?」

 は、水がめから掬った水を飲みながら頷く。月明かりのせいもあるが、その顔はたいへん青白かった。
 柄杓を置いたは乱れた襟を寄せ、目を細める徳兵衛に言った。

「ちょっと、出てくるね」
「出るってどこへ?夜も遅いから危ないよ」

 そんな徳兵衛の言葉はまるで耳に入らなかったかのように、は家を飛び出した。
 京の夜は、故郷の夜よりも明るかった。さすがにほとんどの家は寝静まっているが、向こうの方に見える遊郭の灯りや、風に乗ってかすかに聞こえる三味線の音。は夢中で神社の階段を駆け上りながらも、その音を耳にして、やっぱり京は都だと、頭の片隅で思った。故郷では、夜に三味の音なんて洒落たものは聞こえなかった。夜闇に轟くのは、せいぜい牛蛙の鳴き声ぐらいだった。
 しかし鳥居をくぐって本殿の前に立つと、三味線の音もそれに合わせて唄う女達の声も、途端に耳に入らなくなった。そうして急くようにして鈴を鳴らし、手を合わせた。

「どうか、晋が、小太郎が、時ちゃんが無事でありますように……」

 血に濡れた三人が倒れている夢を見たのだ。それも、松陽の墓の前で。ハナミズキの花びらが、三人の骸にぼたぼたと落ちてゆく――。
 夢で見た光景が目前に思い起こされ、は目をつむって首を振った。そして必死に手を合わせ続ける。
 三年だ。もう三年も彼らに会っていなかった。天誅の横行する京は決して平穏とは言えなくなったが、古くから何度も戦を経験してきている京の街や人々は、のように怯えきってはいなかった。華やかさしか見えなかった京が、実際は血を塗り重ねて作り上げられてきた街だと知ると、故郷へ帰りたい気持ちがいっそう強くなった。

「……どうか」

 三年だ。良くしてくれる徳兵衛には申し訳ないが、三年間ずっと、故郷へ帰りたくて仕方がないのを堪えている。やさしい夫の隣で、いつか、何かのきっかけが無いかといつも思っているのだ。しかし、理由がない。徳兵衛は非の打ちどころの無いほど、よく出来た亭主であった。




 桜も盛りを過ぎた頃だった。
 いつものように豆腐売りの声が通りに響き、は土鍋を持って表へ出た。すると、早朝にも関わらず通りがにぎわっていることに眉をひそめた。

「おはようございます」
「ああ、おはようさん」
「お豆腐一丁ください」
「へえ。おおきに」

 かついでいた桶を下ろす初老の豆腐売りには、いつもとなんら変わった様子は見られない。しかし辺りでは人々が何やら話し込んでいて、は桶から白い豆腐を掬いあげる男にたまらず尋ねた。
 
「あの、何かあったんですか」
 
 はじめは何のことか分からなかった様子の豆腐売りに、周囲の人々を指して再び訊くと、「ああ」と懐から一枚の瓦版を取り出した。それを受け取ると、の目は見開いた。

「攘夷戦争が終わったんや。これでこの国は完全に天人に乗っ取られるいうことやなあ。まあ、そんなん今さらやけど」

 つらつらとそう話した豆腐売りは、「おおきに」とへ土鍋を返そうとした。しかし、は瓦版に目を落としたまま指先一つ動かさない。そんな客にしびれを切らした豆腐売りは、「ここに置いとくで」と、すぐ脇の商家の床几に置き、再び桶をかついで去って行った。
 







「どこに行ってたんだ」

 夜も深くなった頃。家の戸を開くと、土間で煙管をくわえる徳兵衛が居た。灯りはともっておらず、格子窓から差し込む月のひかりで、徳兵衛の後ろ姿だけが闇の中に浮き上がっている。油問屋なので菜種油などはいくらでもある。なのにどうして灯りをつけないのかと不思議に思いながら、は手探りで奥に進み、徳兵衛の傍に置いてある油皿と油差しを手にした。

「朝に豆腐を買いに出たまま居なくなるなんて。ずいぶん捜し回ったんだよ」
「……ごめんなさい」

 今朝の瓦版を握りしめたまま、は今まで神社に居たのだった。徳兵衛が捜しに境内まで来たことも知っていた。しかしとても帰る気にはなれず、身を隠したのだった。
 徳兵衛は知っているのだろうか。攘夷戦争が終わったことを。かつて寺子屋で共に学んだ彼らの身を、案じているだろうか。しかし朝から今までずっと彼らの安否について思い詰めていたは、とても戦のことを口に出せず、黙って皿に油を注ぎ、灯芯に火を付けた。するとたちまち部屋が明るくなり、傍に佇む徳兵衛の顔が鮮明に見えた。はその顔を見て思わず目を細めた。

「あいつにさらわれたのかと思った」

 片手に携える煙管から煙がゆらめいている。その煙の向こうには、がそれまで見たことのない表情の徳兵衛が居る。その顔で呟いた言葉にどこか気味悪さを感じながら、は尋ねる。

「あいつって?」

 すると徳兵衛は、じとりとした目でを見据え、煙を吹き出した後に言った。
 
「高杉晋助」

 予想もしていなかった名前に、思わず「え?」と声が零れた。この家に嫁いで来てから、その名前を彼の口から聞くことは無かった。銀時や小太郎、松陽の名前もそうだ。今思えば不自然なほど、徳兵衛から寺子屋時代の話題を口にすることはなかったのだ。

「賀茂のほとりで見たんだ。包帯で片目を覆っていたけど、あれは確かに高杉だった」

 は声を漏らした。同時に指の力が抜けて、火の灯った油皿を落としそうになった。かろうじて持ち直したが、油が数滴地に落ちた。のその様子を見ながら、徳兵衛はまた煙を吐く。

「晋が……」

 は油皿を流しに置いて戸口に走った。しかしその腕を徳兵衛が掴み、
 
「どこに行くんだい」

 ひどく落ち着いた声で語尾を上げた。は振り返り、声を上ずらせながら言う。

「晋が生きてる!」

 の目からは涙が次から次へと溢れ出た。晋助が生きている。生きているのだ。

「私……怪我を、治してあげなくちゃ」

 手を振りほどこうと体を揺らしたが、さらに力を込めて握られたので、は「どうして」と徳兵衛を責めるような目で見上げた。徳兵衛は唇を震わせるを見下ろし、

「それでもう、戻って来ないつもりだろう」

 吸いかけの煙管を放り投げた。音を立てて地面に転がった煙管に唖然とするの腕を、徳兵衛は乱暴に引いた。そうして彼女が抵抗するのに構わずぐいぐいと引っ張って部屋に上がる。土間の流しに置いたままの火の灯りが、障子を透かして、かすかに部屋まで届いている。徳兵衛が畳の上に突き飛ばすと、は顔を歪めた。

「知ってるんだよ。君が心で僕を裏切っていたこと」

 やさしく囁くような声だったが、その目は狂気に満ちていた。一度も見たことのない徳兵衛のその姿には後ずさりしながら、「どうしたの」と震える声で何度も繰り返し訊く。しかし徳兵衛は何も答えず、が後ろに退くごとに足を進める。

「お前は妻として当たり障りのない接し方で俺と付き合って、俺は理解のある夫としてお前に接した。本当に、よくもまあ三年間も上辺だけの夫婦を演じきってきたわけだ。お前もよく耐えたな。俺もよく堪えたよ」

 くつくつと喉奥で笑いながら腰を曲げ、ついに壁に背を付けたに「なあ」と口角を上げる。

「三年間一緒に居ても、お前は俺のことなんて見ちゃいなかった。三年どころじゃないな。寺子屋に居た頃からそうだった。俺はな、ずっとお前が好きだったんだ。気付かなかっただろう?知らなかっただろう?俺の事なんて気にも留めていなかっただろう?お前はいつもあいつらと一緒に居たから。寺子屋には他にも子どもが大勢居たのに。なのにお前はまるであいつらしか存在しないかのように、いつもいつも朝から晩までべったりくっ付き回って。俺は少女の頃のお前のことをよく憶えてる。けどお前は、あの頃の俺のことなんて一つも憶えてないんだろう?」

 首を横に振り続ける。その額に徳兵衛が指を押し当てると、の後頭部は壁にぶつかった。

「僕ばんそうこう持ってるよ」

 徳兵衛がおどけたような声色で言った。
 途端に、河原で額に怪我をした時のことが鮮明に思い起こされた。あの時、怪我をしたに、子どもたちの中から一人の男の子が進み出て、絆創膏をくれたのだ。それが徳兵衛だった。

「おぼえてる、憶えてるよ……徳ちゃ、ん」
「嘘つけ。今思い出したんだろう。“徳ちゃん”なんて、今のお前が呼ぶな」

 ぐりぐりと指を押し付けられ、は声を漏らす。白粉が取れ、うっすらと残る傷痕が現れた。松陽は痕は残らないと言ったが、しぶとく残り続けてしまった。
 やめてと懇願するを無視し、徳兵衛は額に指を押し付けることを止めない。その動作は、まるで傷痕を掘ってこじ開けようとしているかのようだった。
 額のただ一点を見つめながら、徳兵衛は続ける。

「気に食わなかった。いつもあいつらに守られて、醜いものなんて何ひとつ知らないような顔してたお前が。なあ、俺が吃りだったことを憶えてるか。憶えてるはずがないよな。俺は吃音を隠すあまりに言葉を発することも滅多になくて、だから気弱な徳ちゃんだとか何とか呼ばれるようになったんだ。初めに俺の言葉をからかったのは高杉だった。寺子屋に入ったばかりの頃、それでも友達を作ろうと俺が最初に話しかけたのが、あいつだった。あいつは、学問より先に話し方を教わって来いと言った。残酷だろう。この吃音のおかげで、俺は人間の醜い姿を目の当たりにしてきた。高杉だって桂だって、坂田だって、醜いんだよ。けどお前はそれを知らずに、あいつらの全てが善で、美であるかのように錯覚していたんだ」

 痛みに目を瞑ったの頬を、つうっと涙が伝った。それを見た徳兵衛は満足そうに笑む。

「今では吃音も治った。俺を馬鹿にした奴らを見返してやりたくて、自力で治したんだ。見返してやりたかった。あいつらを。だからお前を嫁にもらうことになった時、気が狂うほど笑ったよ。あいつらの大切なが、俺のものになる。言いようのない優越感で、死にそうなどほどに笑った。純粋無垢なが、気弱で吃音の徳兵衛によって穢される。それを思う時のあいつらの表情を想像すると、笑いが止まらなかったんだよ」

 徳兵衛が指を離すと、は微かに目を開けた。間を置かずにの腕を引いて体を倒すと、徳兵衛はその上に覆い被さった。指の形に赤く染まるの眉間を、徳兵衛は舐める。

「でも俺は、今までずっと手を出さなかったよな。あいつらが無垢ではなくなったと思っているお前を、穢さずに無垢であり続けさせるということで俺は優越感を保っていたんだ。あいつらはお前を、もう少女の頃のお前じゃないと思ってる。けどお前は、まだ女に成ってない。ここはまだ少女の頃のままだ」
「や、めて……」
「それは俺しか知らない事実だし、俺の意志次第でどうにでもなる脆い真実でもある」

 裾を割って入った徳兵衛の手を払おうとは身を捩る。それでも解くことが出来ず、ついに徳兵衛の手が今まで誰にも触れられたことのない所へ行き着いたとき、

「離して!」

 は叫び、徳兵衛の顔をがむしゃらに叩いた。
 一瞬の隙が生まれ、身を返して徳兵衛の下から這い出ようとしたが、それは易々と阻まれた。うつ伏せのまま畳に押さえ付けられ、ぐぅ、と息が漏れる。

「逃げることしか考えていないお前を、逃げずに戦い続けてきたあいつらは、どう思うだろうな」
「逃げるなんて……」
「嫌だから離れたいんだろう。京からも、俺からも。それで、自分が一番かわいがられた頃の思い出にすがり付いて、故郷に逃げ帰りたいんだろう。あいつらの無事を祈り続けてたのだって、自分が傷つきたくないだけだ。お前はもしかして、今でもあいつらに求められてると思ってるのかい?松陽が死んでから、あいつらはまともにお前を見たか?」

 そこではぴたりと体を止めた。押さえ付けられる力が少し緩んでも、抵抗しようとはしなかった。

「お前にとって故郷は帰りたい場所であっても、あいつらにとって松陽が死んだあの里には辛い思い出しかないし、帰りたくない場所なんだよ。だから故郷を捨てて戦場に行ったんだ」

 耳にねじ込むようにそう囁くと、徳兵衛はの体を返し、仰向けにさせた。
 は静かに涙を流していた。徳兵衛は抗うことの無くなったの帯を解き、自らも着物を脱ぎながら笑い声を立てた。

「でも残念だよ。高杉の奴、戦で死んでくれると思ってたのに」

 されるがままだったの体が途端に強張り、次の瞬間、徳兵衛の頬を思い切り打った。「今のは痛いな」と言いながら、徳兵衛は怒りに息を荒げるの顎を乱暴に持ち上げる。そうして顔を近づけ、声を落とした。
 
「笑えよ。初めて俺の吃音を聞いた時みたいに。お前だけが――ちゃんだけが、うつくしく微笑んでくれたんだ」

 最後は擦れるような声だった。恐怖か怒りか悲しみか、の目尻からはとめどなく涙が零れ落ちる。徳兵衛は汗が滲むの額を丁寧に撫で、涙に濡れる髪をやさしく掻き上げた。彼はを見下ろしていたが、その目は彼女を通してどこか遠い何かを見ているようだった。



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