女師匠の寺子屋から吉田松陽の元へ移ったは、以前とは見違えるほど良く学んだ。松陽はよく子ども達を外へ連れ出した。季節ごとに咲く草花を見せたり、生き物と触れ合わせたりしながら、子ども達の村を想う心を育てていった。 が松陽の寺子屋で過ごす二度目の春が来た。そしてその春、世界は変わった。 中篇 先生 「時ちゃん大丈夫ー?まだ声出ないー?」 夕焼けが川の水面を赤く染めている。果てしなく続く川を左に見ながら、は隣の銀時を見上げて訊いた。銀時は喉を押さえながら「出ないことは無いけど」と掠れ声で答えるも、顔を顰めてどこか苦しそうだ。 今日は山を登った。山と言っても小山である。しかしその頂からは村がよく見渡せた。桜の色と菜の花の色に溢れたこの時期の村は、とても美しい。松陽の後に続いて黙々と山を登っていた子ども達は、その頂上から見た村の景色に感嘆の声を上げた。しかしその中でじっと口を閉ざしている少年がいた。銀時だ。が訳を尋ねると、代わりに松陽が答えた。「銀時は、声変わりをしている最中なんですよ。」 そして日も沈みかけた今、寺子屋へ戻るために子ども達はぞろぞろと土手を歩いていた。銀時が話そうとする度にが「ムリしちゃだめよ!」と止めるので、周りの子どもも気になって、銀時は体調が悪いのかと口々に尋ねた。 「時ちゃんはね、今、コエガワリしてるの。男の子はそうやってオトコになっていくんだってー!」 「ちゃん、それ誰に聞いたの?」 「松陽せんせー」 へえ、と頷いた少女は「男の子は大変なんだね」と少し哀れむような目で銀時を見た後、再び顔を前へ向けて歩き出した。 は振り返って、後ろを歩いていた晋助に訊く。 「晋もコエガワリするの?」 聞かれた晋助は少し罰が悪そうに口角を下げ、答える。 「俺はもうしてる」 「…嘘つけ……テメーまだキーキー声じゃねえか…」 途端に銀時が絞り出すような声でそう言うので、晋助はますます顔をしかめた。すると列の前の方を歩いていたはずの小太郎がどこからともなく現れ、鼻で笑いながら言った。 「お前達はまだ変声していなかったのか。俺はすでにオトコになったぞ」 「えっ、そうなの?分からなかったー!あんまり変わってないね?」 「少し低くなったと母上に言われた」 得意気に語る小太郎には「そうなんだ」と笑む。十二になる銀時たちと十才のとの間には体格差が生まれはじめていた。少年たちは背が伸び、肩もしっかりとしてきたし、声も変わり始めた。一方で少女の体は丸みを帯び始めている。 まだ声変わりをしていないと指摘された晋助は、ふて腐れた様子で言い放つ。 「ヅラも男だったのかよ」 「ヅラじゃない桂だ。何が言いたい?俺は歴とした男だぞ。証を見せてやろうか!」 途端に小太郎が自分の袴に手を掛けたので、 「やめとけ」 と銀時が掠れ声で言うと同時に、その手首を掴んだ。馬鹿にされたことが許せない様子の小太郎はしばらく眉根を寄せて、それでも袴を下ろして証を見せてやろうと手に力を込めていたようだったが、それを制す銀時の力の方が勝ったようで、不意に脱力した。そしてそのまま微笑を浮かべて晋助を見下ろす。三人の少年の中で一番背が低いのは晋助だった。 「さては高杉。貴様、自分だけまだ変声を迎えていないことに焦っているんだろう。先にオトコになった俺や銀時が羨ましくて仕方が無いんだろう!」 ぴくりと晋助の眉が動いたかと思うと、 「んだとテメー」 と唸るように言って、途端に小太郎に掴みかかった。すかさずそれに応戦して、小太郎も晋助の襟元を掴み上げる。 「おい!」 銀時が声を上げて二人の間に入ろうとしたとき、 「だめー!ケンカはだめ!」 がひどく大きな声で叫んで、小太郎と晋助の間に割って入った。 「せっかく楽しい遠足の日だったのに!二人がケンカするとみんな楽しくなくなっちゃう!フユカイだよ!」 今までは、小太郎と晋助が掴み合いの喧嘩をするのを傍で見ながら泣きじゃくっていただったので、その変わり様に少年たちは目を丸くした。 「それに」とは銀時を見やる。 「コエガワリしてる時は大声出しちゃだめなの。時ちゃんは大人しくしてなきゃだめなの。ね、松陽先生」 の言葉に、少年らはようやく松陽が自分たちの背後に立っていることに気付いたようだった。 夕焼けを背景に、腕を組み、涼やかな笑みを浮かべて立っている。そんな師匠の姿に、小太郎も晋助も少し気まずそうな表情で、互いの襟元から手を離した。 「疲れたでしょう。少し河原で休んで行きましょうか」 松陽は決して怒ることはなかった。たとえ小太郎と晋助が寺子屋で殴り合いの喧嘩を始めても、静かに見守っていた。止めるのはいつも銀時か近くに居る少年達で、松陽自らが仲裁することはなかった。争いが終わると、彼はただ一言、喧嘩とは何かを守るためのものだと言うだけだった。 子ども達は河原で思い思いのことをしていた。川へ足を浸けて水遊びをしたり、小石を投げたり、草花を眺めたり、鬼ごっこをしたり。 は草花を眺めていた。銀時はすぐ傍で腰を下ろしている。彼の視線の先には、川で水遊びをする子ども達に向けられていた。その中に小太郎や晋助も混じっている。喧嘩するほど仲が良いとは、まさにあの二人のためにある言葉だと言っても良いんじゃないか。そんなことを考えながら。 「チョウチョ!」 不意にが声を上げた。菜の花に止まっていた蝶はその声に驚いたのか、花から舞い上がった。ひらひらと飛んでいく。 「待って、待って」 宙を見ながら右に左に走るは、時折石につまずきながらも蝶を追う。銀時はそんなに「危ない」と声を掛けようとするが、思うように声が出ない。仕方なく立ち上がっての後を追う。 前を見ず、上だけを見て走るので、はとうとう川の中へ入ってしまった。そうして苔むした石に足を取られ、水中に転倒した。ざぶん、と激しい音が上がる。 「馬鹿!」 怒鳴ったのは晋助だった。水しぶきを上げながら駆け寄って、の腕を引いて立ち上がらせた。全身どっぷり濡れたは、悲しそうに顔を歪めていた。 「だってチョウチョが……」 「蝶が欲しけりゃ俺が採って来てやるから、ちゃんと前見て走れ馬鹿」 「……痛い」 は突然思い付いたかのように呟いた。小石で額を切ったのだ。血が水に混じり、顔から滑り落ちていく。 「痛いよお」 そうしてはついに泣き出した。その泣き声に子ども達が何事かと集まって来る。晋助はそれを蹴散らしながら、を川から上げるために手を引いて行く。 河原に居た銀時はに近寄ると、「大丈夫かよ」と声を掛けた。は泣きながら首を横に振る。 「ムリして声出しちゃだめ」 またそれかよ、と銀時は思わず笑ってしまった。 「!怪我したのか!」 袴をたくし上げた小太郎が駆けて来て、の顔を覗きこんだ。 「大したケガじゃねェよ。お前ら騒ぎすぎ」 言いながらも晋助は落ち着かないようだった。小太郎は自分の羽織りを濡れるの体に掛けた。 「大丈夫ですか」 しゃくり上げていたは、鼻をひくひく鳴らしながら声の方を向いた。 「松陽せんせー」 縋り付くような声を漏らしながら、はこちらに向かって来ていた松陽の元へ自ら駆けた。 「ケガしたの、おでこ……」 松陽は腰を曲げて、の前髪をかき上げた。そうして懐から懐紙を取り出し、額の傷から湧き出る血を拭う。 「は女の子ですから、顔の傷は気になりますよね。でも、このぐらいの傷なら痕は残らないでしょう。大丈夫」 大丈夫。その一言には泣き止んだ。「僕ばんそうこう持ってるよ」と、群がっていた子ども達の中から気弱そうな少年が出て来て、に一枚の絆創膏を渡した。「ありがとう」と受け取ったは、しばらくそれを見下ろして、ぼうっとしていた。 「何してんだ。早く貼れよ」 見兼ねた晋助がの袖を引きながら声を掛けた。 「あ、ごめん……傷がどこにあるのか、見えないから分からなくって……」 「貸せ」 晋助がひったくるようにして絆創膏を取ると、それをの額に貼り付けた。 「なんかちゃんマヌケだー」 子ども達の中からそんな声が上がり、は頬を膨らませた。 「うるさいなあ、痛いんだよー!」 「マヌケだー」 「誰が言ってるのー?怒るよー!」 は群れの中に入っていき、子ども達と笑い合った。眉間に雑に貼られた絆創膏は、確かにの顔を間抜けにさせた。水面に映った自分を見て、はけらけらと笑っていた。 「さて皆さん、そろそろ帰りましょうか」 松陽が言うと、口々に返事が上がった。空には夜の色が滲み始めている。カラスが一羽、その空に溶け込んでいった。 そうして集まった筆子達を見渡しながら、「君たちは」と松陽が静かに口を開いた。 「君たちは、逞しく生きなさい。たとえどんな時代が来ようとも」 いつもに増して、ひどく穏やかな口調だった。 「先生がしんみりしてるー」 「」 が愉快そうに言うと、すかさず小太郎が咎めた。は首を傾げて、辺りを見回す。キョトンとした様子の筆子達の中で、銀時と小太郎、晋助だけが真剣な眼差しで師を見上げていた。 「生きなさい。逞しく。きっと、きっとですよ」 不意にカラスが鳴き始めた。は空を見上げる。何羽ものカラスが村へ向かって飛んでゆく。 「晋、カラスがたくさんで飛んでるときは……」 晋助の横顔を見ながらは呟くように言った。嫌な気がしたのだ。晋助は答えなかった。今は先生の言葉を聞けとばかりに、睨むような視線をよこしただけだった。 「時ちゃん、カラスが……」 銀時を見上げて、ついには弱々しい声で言った。銀時は松陽を見上げたまま、の手を握った。 「大丈夫だから。みんな生きてる」 は銀時の言葉に頷き、松陽を仰ぎ見た。師はやさしく微笑んだ。 その夜、村の外れから煙が上がった。煙の伸びる先の空はそこだけが赤く染まり、無数のカラスが鳴き声を上げながら旋回している。桜の代わりに降るのは火の粉。春の山を背景に、吉田松陽の寺子屋は燃える。はその光景を家の庭から茫然と見ていた。村の至る所から悲痛な叫びが聴こえる。銀時の、小太郎の、晋助の師を呼ぶ声が、夜を裂いていた。 「松陽先生」 次へ |