ぱちぱちと上がった火の粉は、春のあまったるい夜風に舞い、瞬きする間に溶け消えていく。
 義父、槇寿郎は言った。古くからのしきたりなど気にするな、と。煉獄家のしきたりに従うのではなく、瑠火さんが息子たちにしてきたことを私もしたいだけ。そう訴えれば、義父は諦めにも似た笑みを含ませ、好きにしろと言った。教えを乞えば、面倒くさいとため息をつきながらも、火の焚き方を教えてくれた。
 篝火を見上げながら、すっかり丸くなった腹へと手を当てる。すると内側から、待ち構えていたとばかりに勢いの良い蹴りが返ってきた。どうどう、と落ち着かせるように撫でていると、懐かしい声が耳に蘇る。こうして篝火を囲んだあの日々の、断片的な記憶。臨月を迎えた瑠火さんと、杏寿郎と三人で燃え盛る炎を見上げた、春の夜のこと――。


 舞い上がった火の粉で母が火傷をするのではないかと、杏寿郎はしきりに気を配っていた。ぱちんと爆ぜるごとに「母上! 大丈夫ですか!」と声を上げ、体を盾にするようにして母へ覆い被さるので、「なんともありません。落ち着きなさい」とたしなめられていたっけ。

「杏寿郎が大きな声を出すたびに、お腹の子が驚いて動き回ります」

 瑠火さんは杏寿郎の手を取ると、自らの腹に当てる。

「どうですか?」
「母上! よく分かりませ――」

 あっ、と眉を上げた杏寿郎は、

「動きました!」

 そう目を輝かせると、

「ほら!」

と、私の手を取った。けれど私は、丸いお腹へ指先が触れる寸前で、腕を引いた。どうした、と杏寿郎が首を傾げる。

「……だって、いいの?」

 顔を上げると、瑠火さんの赤い瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。

「触ったら瑠火さんのお腹……ばちんって弾けちゃわない?」

 ぶっと噴き出すように笑ったのは、瑠火さんでも杏寿郎でもなかった。いつからそこにいたのか、着流し姿の槇寿郎おじさんが「怖がりめ」と笑っていた。愉快そうに喉奥をくつくつとさせながら近づいて来ると、

「瑠火の腹はそう簡単に弾けない。俺が見込んだ女だぞ。ほら」

と、自らの手を妻の腹に置く。

「な? 大丈夫だろう」

 目を合わせて微笑み合う両親を見上げたのち、杏寿郎もすっと手を伸ばし、

「ほら! 大丈夫だ!」

と、どこか誇らしげな顔を私へ向けるのだった。
 大きく骨張った手、まだ丸みを帯びた手。二つの手を交互に見ながら、それでも一歩踏み出せずにいると、やわらかな熱が腕に広がった。それは、瑠火さんの手のひらだった。

「あなたは怖がりではありませんよ。私とお腹の子を案じてくれたのでしょう」

 ね、と目を細めて笑むその表情に、慈愛に満ちた声に、視界が霞む。

「どうかその優しさを、この子にも感じさせてあげて」

 瑠火さんの手が離れていく。私はそれを追うように腕を伸ばし、そうして命の宿る体へと触れた。
 どうだ、と杏寿郎は声を弾ませる。

「……あったかい」

 精一杯に絞り出した言葉は、それだけだった。手のひらに広がる命のぬくもりに、体中が震えるような気持ちだったから。ただただ、ひたすらに、あたたかかった。


 ――私も命を宿して、あのときと同じ場所にいる。燃え盛る炎を囲んで、穏やかに笑い合ったあの春の夜と、同じ場所に。今度は私が教えてあげたい。感じさせてあげたい。あのぬくもりを教えてくれた人と、与えてくれた人に。
 そこで再び感じた胎動に目を落とし、ゆっくりと腹を撫ぜる。「杏寿郎はよくお腹を蹴る子でしたよ」という言葉を思い出し、ふっと笑ってしまう。
 ぱちんと爆ぜる音に顔を上げ、炎を見つめた。そうするうちに、彼が纏っていた羽織が、焔色の髪が、赤い瞳がそこに浮き上がってくるように思え、胸の真ん中がぐっと奥に引かれる感覚になる。いつものことだった。共に過ごした日々を思い出とするには、まだまだ月日が要る。
 それでも彼とのことを思い返すと、自然と笑みがこぼれる。例えば、この腹に宿るぬくもりの、はじまり――。


 互いに下戸であるということは、祝言の日に痛いほど知ったはずだった。それなのに、杏寿郎の住む屋敷へと引越した日の夜、互いに気持ちが高揚してか、祝い酒として貰っていた日本酒を空けてしまった。
 頭に響く音や歪む視界がかえって面白くなり、だめだ、もうだめだと二人して笑い転げながら寝所の襖を開けると、そこにはぴたりと横並びに敷かれた布団があった。千寿郎か、引越しの手伝いに来ていた実家の使用人かが、ご丁寧にも寝支度までして帰ったようだった。
 並べられた布団を前にすると、私も杏寿郎も途端に素面に戻ったように顔を見合わせ、しばらく沈黙した。

「と、とりあえずお風呂に……」
「では俺も」

 すかさず返ってきた言葉に、えっ、と声が漏れる。

「酔っているだろう。一人で入らせるわけにはいかない」
「でもそれは、きょうちゃんも同じじゃない。酔っ払い二人でお風呂に入るほうが危な――」
「だめだ。入るなら一緒に」

 そう強く言われると、私は視線を左右に泳がせるしかなかった。

「この家の風呂釜、小さいから……二人は無理だよ」

 尻すぼみになっていく私に、杏寿郎は「それもそうだな」と頷いた。胸を撫で下ろす気持ちで、お先にどうぞ、と言おうと口を開いたときだった。

「じゃあこのまま」

 肩を掴まれ、顔がぐっと近づいてくる。驚いて一歩後退りしながら、

「待って待って! ねえきょうちゃん、ものすごく酔っ払ってるでしょ?」
「酔っ払っていない」
「うそ。目も声も据わってるもん」
「据わっていない! ほらどうだ!」

 両瞼を指でぐっと押し上げ、声を張った。そんな杏寿郎の姿に、私は根負けするように笑った。けれど再び近づいてきた顔に、ハッと口をつぐむ。

「俺はこのままで構わないが、君はどうだ」

 確かにこの人の酔いはもう醒めているのかもしれない。そう思うほど、覗き込んでくる赤い瞳には虚さなど一つもなく、むしろいつにも増して熱が篭っていた。
 杏寿郎の頬を両手で挟むようにして制すると、彼の唇からは「むう」と声が漏れる。

「私……何も分からないけど、大丈夫? こういうことって、その……初めてだから……」
「初めてなのは勿論知っている。俺もそうだ」
「それは当然でしょう。だって、きょうちゃんに経験があったら私……」

 頬を挟む手を解くと、杏寿郎は俯き加減の私を覗き込み、

「私?」

と、言葉の続きを促す。悪戯っぽい笑みを浮かべる彼の胸を小突き、ひと思いに言った。

「嫉妬で気がおかしくなっちゃう」

 口にしてしまった恥ずかしさに顔を覆っていると、ふっと引き寄せられる。杏寿郎の太い腕が背に回り、強く抱きしめられると、すべてが止まったように思えた。ああ、そうだ。私は、肌に溶けてくるようなこの熱が、すごく好きなんだ。

「抱くぞ。いいな」

 いつもより少しだけ口調が荒いのは、お酒のせいか、それとも……。そう思いつつ、こくりと頷く。すると杏寿郎は力が抜けたように笑い、頭を撫でてくれた。そうしてその手を頬へと移し、ゆっくりと唇を重ねるのだった。


 ――あんなにもやさしい熱があることを、私は知らなかった。
 篝火を目に映しながら、思いは炎の向こうへと馳せていく。そのとき、腹に当てた手のひらが、ぽんっと蹴られた。

「ごめんね、よそ見しちゃって」

 お腹に向かってそう話しかけると、蹴りはおさまった。もしかするとこの子は、私に似て嫉妬深いのかもしれない。そんなことを思うと、笑みが漏れた。するとお腹も、私の笑い声に合わせてぽこぽこと動くのだった。
 あの日々の幸福が、ぬくもりとなって今ここに在る。ああ、そうだ。私は決して一人ではない。これまでも、これからも。

「だから大丈夫だよ、きょうちゃん」

 爆ぜた炎が生んだ火の粉は、春の甘ったるい風に舞い上がり、星の煌めく夜空へとゆるやかに溶けていった。



- 完 -



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