- 五月十日の心音(あけぼのに咲く-番外編-) - 「きょうちゃんのさ」 朝日が昇るころに帰宅したばかりの杏寿郎が、床の間の刀掛けに日輪刀を置き、ふうっと一息ついた時だった。 そう言われて振り向くと、先ほど玄関口でおかえりなさいと満面の笑みで出迎えたが、杏寿郎の着替えを準備しながら真剣な顔をしていた。 「きょうちゃんのその羽織って、どうなってるの?」 「どうなってるとは?」 「槇寿郎おじさんが着てた頃から謎だったんだよね」 そう首を傾げるは、杏寿郎へと近寄ると、じっと羽織を見つめる。 炎柱となった杏寿郎に邸宅が与えられてから、は毎日のようにここへ通っていた。母親には「まだ嫁いだわけでもないのに」と言われていたが、柱になって日が浅い杏寿郎を気遣って、不便なことも多いだろうからせめて暮らしのことは手伝いたいと、母の小言を突っぱねていたのだった。 杏寿郎が柱として初めての任務に出る際には、槇寿郎から受け継いだ羽織をまとう姿を見て、は涙を浮かべていた。 「ちょっと手挙げてみて」 そう言って杏寿郎を見上げたの瞳には、好奇心がきらりと輝いていた。 「こうか?」 「両手で、もっと高く。ばんざーいって」 言われるがままに両手を高く挙げた杏寿郎。途端に、は目を見開く。 「ほら落ちない! どうして? 袖も通してないのに、なんで落ちないの?」 なんで、どうして、と羽織を見つめながら杏寿郎の周りをぐるりと一周する。そんなの姿に、杏寿郎の口からは思わず笑いがこぼれる。 「そんなに気になるのか?」 「うん、ずっと気になってたの」 「仕方ない。ならば見せてやろう!」 「えっ、本当?」 「うむ! だが特別だぞ!」 わあっ、と声を漏らすに微笑み、杏寿郎はその場に胡座をかく。 そうして右肘を上げ、脇の下に空間をつくると、を見上げて言う。 「、ここへおいで」 大きく頷いたは、その場にぺたんと座り、 「お邪魔します」 と、這うようにしながら杏寿郎の羽織の中へと入っていった。 「あっ、ちょっときょうちゃん」 「これはくすぐったいな! 妙な気持ちだ!」 「逃げちゃだめ。少しじっとしてて」 むう、と唸る杏寿郎に構わず、ごそごそと羽織の内側で動く。背後へと回り込み、右肩のあたりに顔を寄せると、「ああっ」と声を上げた。 「なるほど紐で――」 の言葉はそこで途切れてしまう。 杏寿郎が両手を後ろに回し、の体を自らの背中にぐっと押し付けたのだった。 「捕まえてしまった!」 愉快そうに声を上げる杏寿郎。羽織の中に閉じ込められたは、呼吸ができるように顔の向きを変える。そうして、「もう」と言いつつ、右耳を背中に当てた。 「はすぐ油断をするからな!」 左耳でその笑い声を、そして右耳で杏寿郎の心音を聴いていた。 とくん、とくんと鳴る鼓動に、思わず声を漏らす。 「なんか安心する」 「そうか! それは良かった!」 その音とこのぬくもりが、途端に眠気を連れて来る。寝ちゃだめだと、閉じかけた目を開く。それを何度か繰り返していると、不意に光が差し込んだ。 杏寿郎はを羽織から出すと、にこっと笑む。 「どうだ。仕組みが分かったか?」 「うん、ありがと。これって癖になっちゃうね」 「これ?」 その言葉の通り、杏寿郎の羽織の内側は、のお気に入りとなった。 出立する前、帰宅時など、決まって杏寿郎の羽織の中へと潜る。そしてその背中に耳を当てて心音を聴く。そのたび、杏寿郎はくすぐったさに目を閉じる。 この世界の中だけで生きていける。杏寿郎の羽織の内側にいると、そんな気がするのだった。 「来るか?」 いつものように、帰宅した杏寿郎が日輪刀を置くのを待ち構えていたに、杏寿郎が諦めにも似た笑みで声を掛ける。 は後ろ手を組んでいるようで、どこかそわそわとしている様子だった。 「はい!」 座った杏寿郎に駆け寄る。杏寿郎はそんな姿に、「やっぱりは犬のようだな」と笑った。 潜り込んですぐ、が「あれー?」と、どこかわざとらしい声を上げる。 「こんなところに……」 そう言いながら、杏寿郎の右脇の下からひょっこり顔を出すと、 「こんなものが」 と、小さな箱を見せた。 中には、淡黄色をした楕円の練り菓子のようなものが入っており、杏寿郎は首を傾げた。はその反応をじっと伺っている。 「なんだ? 芋のような匂いがするが」 「これはね、スイートポテトっていうの」 「すいーとぽてとか!」 「きょうちゃん知ってた?」 「見たことも聞いたこともないな!」 「さつまいものお菓子だよ。お友達の家が洋菓子店をやってて、そこで教わって来たの」 さつまいもと聞いて目を輝かせた杏寿郎は、の話にうんうんと頷きながらも、その視線はもうスイートポテトに釘づけだった。 「これ、全部きょうちゃんにあげる」 「いいのか!」 「もちろん。だってきょうちゃんのために作ったんだもん」 「ん? 俺が何かしただろうか」 はて、とお菓子から目を離して宙を見やる杏寿郎。すかさずが言う。 「今日はきょうちゃんのお誕生日でしょ」 「ああ、そうだったか!」 もう、と息を吐いただったが、その目は笑んでいた。 そうして羽織の内側から抜け出たは、小箱から一つ摘み上げて、杏寿郎の口に近づける。ぱかりと口を開けた杏寿郎に「鯉みたい」とくすくす笑いながら、そっとスイートポテトを入れる。 「――っしょい」 「ん?」 つぶやいた杏寿郎を見上げると、 「わっしょい!」 そんな大声が返ってきて、はびくりと肩を上げた。 「とんでもないうまさだ! なんだこれは!」 「良かった。まだ向こうにもたくさんあるから」 「たくさん! 夢のようだ!」 「あ、でも一箱は残しててね。せんちゃんにもあげるから」 「千寿郎が来るのか?」 「ううん、私たちが行こうかなと。一緒にお祝いしようって、せんちゃんがごちそう作って待ってるんだって。大丈夫?」 「もちろんだとも! 千寿郎が待っているのに行かないわけがない。這ってでも行こう!」 うまい、うまいと言いながらスイートポテトを頬張る。 そんな杏寿郎を、は慈愛に満ちた表情で見守る。 「駒澤村のお家に着いたら、いの一番で瑠火さんに手を合わせないと」 「いつもそうしているだろう?」 「今日は特にだよ。きょうちゃんを産んでくれてありがとうございます、って」 「なるほど! そうだな。母上のおかげで俺はここにいる」 「あと、槇寿郎おじさんにもお礼を伝えないと」 「父上には何と?」 「えっと、きょうちゃんに命を授けてくれてありがとう……かな?」 「うるさいと言われるだろうな」 「かもね。まあ何を言ってもそう言われるんだし、気にしない」 「は父上に対して怯まないな」 「だって、やさしさを憶えてるから。きょうちゃんもそうでしょ」 そうだなと微かに笑った杏寿郎は、またスイートポテトを摘み、ぱくりと一口で食べてしまう。もういくつも食べているのに、口に入れるたび、「うまい!」とまるで初めて食べたかのような反応を見せるのだった。 はそんな杏寿郎の膝にそっと手を乗せ、「きょうちゃん」と呼び掛ける。杏寿郎は咀嚼していたスイートポテトをごくりと飲み込み、「どうした?」と返す。 「生まれてきてくれて、ありがとう」 杏寿郎は瞬きを忘れたようにを見つめる。 そうして少し間を置いたのち、膝に置かれたの手に、自らの手を重ねる。 「いつもそばにいてくれること、感謝している。ありがとう」 そう言った杏寿郎は、力がふわりと抜けたような、そんな柔らかい顔で笑った。 は唇を結び、ゆっくりと視線を下げ、ついにうつむいた。杏寿郎が覗き込むと、は頬を染めていて、杏寿郎と目が合うとふいっと顔を背けてしまった。 「どうした」 「……よかった」 「?」 「よかったなあって。きょうちゃんがまた一つ、歳を重ねられて」 の唇がふるふると震えはじめている。そのことに気づいた杏寿郎は、ふっと笑った。 「実家へ行くまでにまだ時間はあるか?」 「うん、お昼過ぎからって言ってあるから」 「そうか。じゃあ」 杏寿郎はの腕をやさしく引き寄せ、羽織に包み込むようにして抱きしめた。 「きょうちゃん……?」 「しばらくこうさせてくれないか」 耳のすぐ近くで聞こえるその声に、は自分の胸が高鳴るのを感じた。 そうして、杏寿郎の背中にそっと腕を回す。 「――仕方ないなあ。特別だよ」 穏やかな声でそう言うと、杏寿郎の首元へと顔を埋める。 杏寿郎は、の柔らかな手のひらが、とん、とんと背を叩きはじめたのを感じた。それはまるで赤子を寝かしつける母のような、そんな仕草。 その心地よさと、ふと湧き上がった懐かしさに、杏寿郎は瞼を閉じる。 「眠くなってきてしまった」 「私も。あのね私、きょうちゃんの体温が好き。気持ち良くてさ、触れてるといつも眠たくなってくるの」 「俺も同じだ。は俺を寝かしつける天才だな」 互いに心地よい気だるさを孕んだ声でそう言い、最後に笑い合った。 眠りに落ちる寸前、は杏寿郎の胸に耳を当て、とくん、とくんという強く確かな心音に合わせ、ゆったりした口調で言うのだった。 「生きてるね、きょうちゃん。今日もここで、こうやって」 (2021.05.10) メッセージを送る |