- 第七話 今日を共に -


 杏寿郎はに、たとえ自分が任務で家を空けている時であっても、できるだけ煉獄家にいるよう求めるようになった。
 訳こそ話さなかったが、縁談の一件であの男が報復に来るかもしれないと思っているのだろうと、は推測していた。今まではが煉獄家へ行こうとすると、嫁入り前の娘が男だらけの家に入り浸って、と小言を言っていた母も、あの一件以降何も言わなくなった。

 が実家にいる日は、任務明けの朝方、杏寿郎が家まで迎えに来る。二階にあるの部屋の窓を、杏寿郎の鴉が叩きに来るのだ。朝が弱かっただが、近頃は鴉が知らせに来る前に目を覚まし、身支度を済ませておけるようになった。ただでさえ任務で疲れているはずの杏寿郎を、外で待たせておくのが忍びなかったからだ。
 そうしてゆっくり歩きながら行きつけの店で朝餉を食べ、の女学校前で一旦別れる。そして講義が終わる頃には、杏寿郎か千寿郎が学校前で待っていて、一緒に煉獄家へ帰る。夜は泊まることもあれば、任務前の杏寿郎に家まで送ってもらうこともある。そんな日々が続いていた。
 校門の前で送り迎えしてもらう時、は周りの生徒からの好奇の視線に耐えきれずに、「ちょっと過保護じゃない?」と言ったこともあるが、杏寿郎は「まだ足りないぐらいだ!」とぴしゃりと返した。ありがたいけど体はしっかり休めているのだろうかと案じていると、それを察して「心配無用! 風邪もひいていないし日々絶好調だ!」と朗々とした口調で言うのだった。


 はその日、前の晩から煉獄家へ泊まっていた。昼過ぎに急な用事とやらで杏寿郎が慌ただしく家を出た後、千寿郎と糠床の手入れをしたり、畳に寝転んで一緒に女子向け雑誌を見ながら、ああでもないこうでもないと語り合ったりして過ごしていた。
 ふと、「きょうちゃんどこ行ったのか分かる?」とが訊くと、千寿郎は眉を下げて、

「柱合――偉い人たちが集まる会議です。本当なら父上が参加しないといけないんですけど……その代わりに」

 は、そっかとつぶやく。
 槇寿郎は闇の中にいる。そこから連れ出そうと、もう何度も、誰もが試みたが無理だった。ほんのわずかでも良い。いつか光が差すのを、祈ることしかできなかった。

 が雑誌に載っている小説を朗読しているうちに、千寿郎はうとうととし始め、そのまま眠ってしまった。それに気づき、は目を細めながら、起こさぬよう頭を撫でる。

「桜を見に行こう、!」

 不意にそう声を掛けられ、の体はびくりと跳ねた。振り返ると、いつの間に帰宅したのか、杏寿郎がそこに立っていた。

「ねえ、きょうちゃん……気配消して近づくのだめだってば。そのうち本当に心臓止まるから私」
「それは困るな!」

 はははっと笑う杏寿郎。そんな兄の大声にも慣れているのだろう、千寿郎は少しも目を覚ます気配がない。

「せんちゃん起こそっか?」
「気持ち良さそうに眠っている。きっといい夢でも見ているのだな。起こすのは可哀想だ」

 杏寿郎は千寿郎に自分の羽織を被せ、その頭をひと撫でする。そうしてに「行こうか」と微笑んだ。


 小高い丘を登り、林を抜けると、そこには満開のしだれ桜があった。淡い桃色が連なり、時折、風に乗せて花びらを散らしてくる。
 がその美しさに息を呑んでいると、杏寿郎は誇らしげに言う。

「見事な桜だろう。要が教えてくれたんだ」
「要ちゃんが?」
「空を飛んでいると、色々なものが見えるらしい。羨ましいことだ」
「ほんとだね」

 は桜の木に近づき、柔らかな枝先に顔を寄せて「桜で埋もれ死ぬ」とおどけて見せた。すると杏寿郎も「どれ」と言ってのすぐ隣に立ち、真似てみる。

「これでは到底死ねないな! は大げさだ!」

 そう言って笑うので、は冗談が通じなかったんだなと思いつつも、杏寿郎につられて笑った。
 笑いがおさまったころ、は切り出す。

「……私さ」
「なんだ」
「きょうちゃんの家にあんまり来なかった時期あるじゃない?」
「勉強が忙しかったんだろう」

 首を微かに傾げる杏寿郎。は俯き気味になり、「違うの」と言う。

「蜜璃ちゃんに嫉妬してたの。二人で稽古してる姿を見てると、心がもやもやして、自分が醜くて仕方なくて。前までは、きょうちゃんの隣にいたのは私だったのになあって」

 杏寿郎と過ごしていると、どう言い表したらいいのか分からないような感情に出会うことが多かった。あの感情が嫉妬なのだと知ったのもわりと最近のことだ。
 
「でもさ、しょうもないって思ったんだよ。こんなつまらない嫉妬心を勝手に抱いちゃって、蜜璃ちゃんに申し訳ないやって。自分の醜さから逃げたいがために、一方的にきょうちゃんと距離を置くのも違うなって。せんちゃんにも、寂しい思いをさせてしまってたみたいだし」

 そこでは顔を上げ、そのまま桜を見上げる。

「何より、縁談のことがあって改めて気づいた。きょうちゃんと過ごす今を大事にしたいって」

 風が吹き、桜の枝先が揺れての頬をくすぐる。

「昔、瑠火さんに言われたの。いつか岐路に立つことがあったら、自由に、心がおもむく方へ進んでほしいって。瑠火さんね、これからも杏寿郎をよろしく、とは言わなかった。きっと、自分の言葉で私を縛ることになったらいけないって思ったんだよ」

 杏寿郎は、薄桃色の花々がの頬を撫でる様を目に映していた。
 は風にそよぎながら頬に触れてくる枝をそっと指でつかむ。
 
「でも私、岐路がどこなのか分からなくて。だって心がおもむく先には、いつだってきょうちゃんがいたから」

 そうしてまっすぐに杏寿郎を見て、は言う。

「これから先もきっと、迷うことなんてない」

 杏寿郎はそんなから顔をそらし、少し間を置いたのちに口を開いた。

「俺は明日をも知れぬ身だ。いつ死んでもおかしくない」
「……生きてる以上、明日どうなるかなんて誰も分からないよ。私だって今日の帰り道、馬車に轢かれて死んじゃうかもしれないし」
「そんなことを言うな」

 杏寿郎が思わずの方を向くと、はその手を握った。

「だからこそ、考えてみてほしい。今日を誰と過ごしたいと思う?」
 
 杏寿郎の片手を、両の手のひらでぎゅうっと強く握りしめながら、は言葉を紡ぐ。

「私は、きょうちゃんと過ごしたい」

 それは揺るぎない瞳だった。しかしよく見ると、頬はもちろん、耳まで赤く染まっている。手も微かに震えていた。
 杏寿郎は観念したように笑い、言った。

「不思議だな。昔からそうだ。と話していると、自分の悩みなんて些末なことのように思えてくる」
「どういうこと?」
「君といると心が楽になるということだ」

 そうしての頬を両手で包み込むと、笑んだ。
 それは幼い頃、またねと手を振り合ったあの河原で見た、まぶしい、まぶしい笑顔。
 は懐かしさと恋しさに鼻の奥がツンとするのを感じた。
 そこに、杏寿郎の鴉、要が鳴き声を上げながら飛んで来る。そうして杏寿郎の肩に乗ると、要はの方に身を乗り出した。

「このしだれ桜、要ちゃんが見つけたんだってね。教えてくれてありがとう」

 そう言いながらが指を差し出すと、要はそれを軽くついばんだ。その様子を見ながら、杏寿郎は言う。

「実は今夜、大きな任務がある。それが無事終われば、俺は父上の後を継いで、炎柱になる」

 は束の間、瞬きを忘れたように杏寿郎を見つめたままだった。
 カァ、という要の声でまぶたを閉じ、「そっか」と息を吐くようにして言うと、再び杏寿郎を見上げた。

「ねえ。鬼殺隊士はみんな、遺書を残してるって言ってたよね」
「ああ、そうだ」
「私宛てにはいらないからね。だって私の中には、これまできょうちゃんがくれた言葉が生きてるから。だから、終わりを作りたくないの」
「……
「その分、一緒にいる時にたくさん言葉を掛けてほしい。それでももし、何か言い遺したことがあるなら――這ってでも帰ってきて」

 そこまで言うと、は胸に手を当てて、力なく笑う。

「ごめん、今こんなこと言って……間が悪いよね。きょうちゃんなら絶対大丈夫だって信じてるんだけど」

 杏寿郎はそんなの肩を引き寄せる。それと同時に要は杏寿郎の元から飛び立ち、桜の木の枝にとまると、花びらが舞う中で身を寄せ合う二人を見おろす。
 
には今夜、煉獄家で待っていてほしい。言いたいことが山ほどある。だから、必ず帰る」

 は杏寿郎の肩に顔を埋め、何度も何度もうなずいた。
 しかし不意に杏寿郎の肩から離れ、手で顔を隠しながら、

「ごめん鼻水つけちゃった」

と消え入りそうな声で言うので、杏寿郎は堪らず噴き出した後、盛大に笑うのだった。



「兄上!」

 翌朝、空があけぼの色に染まる頃。
 家の前で、遠い目をしながら掃き掃除をしていた千寿郎は、道の向こうから姿を現した杏寿郎と蜜璃の姿に、箒を放って駆け出す。
 そうして、包帯姿で松葉杖を突く杏寿郎に抱きつく。

「眠れなくて、朝までずっと……さんも」

 しゃくり上げながら言う千寿郎の頭を撫で、杏寿郎は家の門へ目をやる。そこには、薄花色の浴衣を着たが佇んでいた。
 朝顔。杏寿郎はそうつぶやき、口元を緩めた。
 そうして千寿郎と蜜璃から離れ、朝の光を浴びながらまぶしそうにこちらを見ているのもとへと、松葉杖を突きながら歩いていく。もそれに気づき、駆け寄る。
 そばまで来ると、互いに足を止めて目を合わせる。
 杏寿郎は胸ポケットから丸めんこを取り出し、の方へ向けた。

「すまん、の御守りが血で汚れてしまった」

 白い犬に、ところどころ赤い染みがにじむ。
 右足は引きずり、負傷した左腕を首から包帯で吊り支え、頭部には幾重にも包帯が巻かれている。そんな満身創痍の杏寿郎が、めんこを汚してすまないと、申し訳なさそうに詫びているのだ。は「そんなこと今は気にしなくていいから」と返すだけで精一杯だった。
 杏寿郎には、の目が輝いているように見えた。朝日を受けているせいか、それとも、うっすらと浮かびはじめた涙のせいか。

「あの日、守ると言ってくれたな」

 河原で交わした、あの日の約束。
 杏寿郎にはあの時、に言えずに呑み込んだ言葉がある。代わりに、「守る」という一言にすべての想いを込めた。

には、いつも心を守ってもらっている気がする」

 の目からはついに涙がこぼれ出した。頬を伝い落ちた涙が、薄花色の浴衣を濡らしてゆく。
 そうしては一歩踏み出し、杏寿郎に思いきり抱きつく。するとその勢いで松葉杖がぐらつき、杏寿郎はを片腕で抱きとめたまま、背中から倒れ込んだ。
 杏寿郎の体から離れ、ごめん、と焦りながら助け起こそうとする。しかし杏寿郎は上体だけ起き上がらせると、地面に座ったまま、の腕を引いてその胸に閉じ込める。

「明日のことは分からない。それでも俺は、君と今日を共に過ごしたいと願っている。なあ、。これからもそばにいてくれないだろうか」

 杏寿郎の顔を見上げたは、鼻の頭こそ赤く染まってはいるものの、その目にはもう、涙は浮かんでいなかった。

「何を今さら。産まれた時からずっとそうだったじゃない。もういやだ解放してくれって思うほど、これからもずっとくっ付いてるよ」

 そうして杏寿郎の頬を両手でやさしく包み、

「おかえりなさい」

 こぼれんばかりの笑顔で言うに、杏寿郎も目を細めて笑う。

「ただいま」