- 第五話 縁談 - 「に縁談が?」 杏寿郎の刀を受け取りながら、千寿郎は生来の垂れ眉をさらに下げて、 「兄上、ご存じなかったのですか……?」 と訊くも、杏寿郎は畳の一点を瞬きもせず見つめたまま立ち尽くしていた。 ここ数カ月ほどのは、勉強が忙しいからと言って煉獄家に来ることも少なくなっていた。 「さん、今までも縁談を断ってきたみたいなんですけど、今回ばかりはどうにもできなかったって」 「それで、その縁談は受けたのか?」 「とりあえずは会うだけ会って、なんとか向こうから断ってもらえるようにうまくやる、と」 「そうか」 「てっきり兄上もご存じかと……」 「いや。縁談の話は一切聞いたこともない」 千寿郎は気まずそうに視線を下げる。 兄弟の間にはしばし沈黙が流れたが、それを破ったのは、どたどたという足音だった。 「あれっ? 師範、お戻りだったんですね! おかえりなさーい!」 底抜けに明るい声でそう言うのは、初秋ごろから杏寿郎の弟子として煉獄家へ通っている鬼殺隊士、甘露寺蜜璃だった。 「このジャムパン、私の入隊祝いにって、桜餅と一緒に今朝ちゃんが持って来てくれたんですー! 京橋にある有名なお店の! そこは餡パンが名物なんですけどね、ジャムパンも大人気で。さすが大店の娘さんは違いますね、選ぶものが良い! しかもこれ、杏のジャムなんですよ! 師範のお名前にも"杏"って入ってますよね? もしかして共喰いとかになっちゃいます?……って、そんなわけないかぁ! とにかく、とっても美味しいんですよ〜!」 止めどなく喋り続け、「師範もおひとつどうぞ」とジャムパンを差し出す蜜璃に、千寿郎は内心ひやひやしていた。 「は今朝来ていたのか?」 「えっ? あ、はい」 「俺に何か言付けは?」 「えーっと、私は特に聞いてませんけど……」 蜜璃はそう言いながら、千寿郎に横目で「私なんかマズいこと言っちゃった?」というような目線を送っていた。千寿郎は、取り急ぎそのジャムパンを引っ込めてくれるようにと瞬きを送ったのだが、杏寿郎の手が伸び、蜜璃からパンを受け取った。 「うむ! 確かにこれは共喰いだな!」 一口かじってそう言った杏寿郎に、蜜璃が「ぶっ」と噴き出す。そうして二人は談笑しながら、稽古のために道場へと連れ立って行った。 千寿郎はそんな二人の背中を見送りながら、もしかするとが前ほどこの家に来なくなった理由は、そこにあるのかもしれないと思った。 そして居間に一人残った千寿郎は、蜜璃が置いて行ったジャムパンを一つ手に取る。「せんちゃん」というの朗らかな声が耳に蘇るようだった。 千寿郎は幼い頃ずっと、は実の姉だと思っていた。そうではないと知ってからも、千寿郎にとっては姉だった。「瑠火さんの味噌汁」と言って作り方を教えてくれたのもだ。随分苦労してこの味を再現することができたのだと話していたが、母の味を知らない千寿郎にとって、それはの味だった。 「それにしても兄上、どうなさるおつもりなんだろう……」 そうひとりごち、パンを一口頬張る。甘酸っぱい。 色男は、そっけなくされると燃えるらしい。 父の顔を立てるために縁談相手と会うだけ会ったが、は目を合わせようともしなければ、相手の話に興味を示さず、終始無愛想な態度を取った。すべては向こうから断ってもらうための、なりの策だった。 極め付けは、二人で料亭の庭を歩いている時、「私なんかじゃ物足りないと思いますよ。つまらない女ですから。だってあなた、随分と遊んでいらっしゃるんでしょ?」と言い放った。縁談の前に相手を知ろうと情報収集した際、どうやらとんだ好き者で女を取っ替え引っ替えして遊んでいるらしい、と聞いたのだ。 帰ってから態度の悪さを母にこっぴどく叱られたが、これで縁談は流れたと内心ほっとしていた。 しかし後日、のもとには「ぜひに」という熱心な便りが届いたのだった。 それから相手は、毎日のようにの家を訪れた。しかしは二階の自室に閉じこもったきり、かたくなに会おうとしない。が自室の窓からよく庭を眺めていることを誰かから聞きつけたのだろう、その男はの視線に入る場所に立ち、話し掛けてくる。無視をしても窓を閉めても、何か言葉を返すまで諦めようとしない。 ぜんざいがとびきり美味しい店があるから行こうと言われれば、西洋菓子が好きだから遠慮しますと突き返す。すると翌日には、シュークリームが有名な店があるからと言いに来る。断ればその後、シュークリームをどっさりと持って「買って来たから一緒に食べよう」と連れ出そうとする。具合が悪いから、と言うと諦めてくれた。本当に頭痛がしたのだ。 ある日、男は銀座のカフェーに行こうと誘った。毎日付きまとわれるせいか、は近ごろめっきり煉獄家へ行くこともできなくなっていた。杏寿郎にはこんな状態であることを知られたくなかったし、何より男に杏寿郎の存在を知られたくなかった。煉獄家の場所も絶対に知られたくない。自分でもその理由は分からない。けれど、立ち入られたくないと、本能的にそう思ったのだ。 「行ったら、もう付きまとうのはやめてくれますか?」 その言葉に、男は頷いた。 貿易商の家に生まれた次男坊で、小さい頃から跡取りである兄に引け目を感じてきた。その反動で女性に逃げていた。けどあなたに出会って改心した。運命だ。きっと立派に屋を継ぐ婿になる。 と、男がそう語る様子を、は頬杖を突きながら話半分に聞いていた。早くこれを終わらせて、杏寿郎や千寿郎に会いに行きたい。それだけしか考えていなかった。 蜜璃が杏寿郎の弟子になってから、はそれまで感じたことのない感覚に襲われていた。それが何なのか、この男はどうしたら諦めてくれるのか、最近は夜になるたびそんなことで頭がいっぱいになり、なかなか寝付けなかった。 すみませんが頭が痛くなってきたので帰ります、とコーヒーを一杯飲んだだけで店を出たと、慌ててその後を追う男。 ――きょうちゃん、怪我とかしてないかな。大丈夫かな。今頃どうしてるだろう。 そう思っていた時、人波の中に灼熱色が見えた。それは、がずっとずっと会いたいと思っていた人。 「きょうちゃん」 黒の隊服姿の杏寿郎は、の声に振り返り、目を丸くした。 「ちゃん!?」 声を上げたのは、杏寿郎の隣にいた蜜璃だった。 は蜜璃が駆け寄って来ても、久しぶりに見た杏寿郎の姿から視線を離すことができず、その場に突っ立つばかりだった。 ちゃーん、と人懐こい声で抱きついてくる蜜璃に、ようやくも我に返ったようにして杏寿郎から目を離した。それまで杏寿郎もを見つめ続けていたが、その視線はの後ろに移る。 「蜜璃ちゃん、元気そうで良かった」 「元気もりもりだよー! ちゃんとこんなところで会えるなんてビックリ!」 「私も驚いちゃったよ。今日はどうしたの?」 「あのね! こないだちゃんがくれたジャムパンがおいしくって、また食べたいねって師範と千寿郎くんとも話してて! ちょっと日本橋に用があったから、その帰り道に寄ろうって、今お店に向かってたところなのー!」 ――ああ、あのジャムパン。杏のジャムを使ってるって聞いて、きょうちゃんを「共喰いだよ」ってからかったら楽しいかなと思って買って行ったやつだ。 はそんなことを思い返しながら、楽しそうに話す蜜璃の横で、再び杏寿郎に目をやった。片手に風呂敷を持っている。なんだろう、と思った時、つんつんと腕を突かれる。 「ちゃん、あちらの殿方は?」 蜜璃が声をひそめてそう聞いた。そうだった、とは眉根を寄せ、どう言ったらいいのかと考えあぐねていると、 「さん、この方々は?」 と男が聞いてくる。板挟みにされるような思いでまごついていると、杏寿郎が近づいて来るのが見えた。 「、大丈夫か」 そんな杏寿郎の声に、は胸が高鳴るのを感じた。胸を押さえ、なんだこの感覚、と不思議に思うと同時に視界が霞み始める。 「顔色が――」 杏寿郎の言葉が終わらぬうちに、の頭はくらりと揺れ、体がよろめいた。蜜璃が「ちゃん!」と声を上げる。は意識が遠のく中で、懐かしいぬくもりを感じていた。 それは見慣れた天井だった。 は体を起こし、部屋を見渡す。自宅に戻っていた。銀座で杏寿郎と蜜璃に鉢合わせて、杏寿郎の声を久しぶりに聞いて。そこから先の記憶がない。は自分の腕をさすり、小さい頃、杏寿郎の家で石灯籠に頭をぶつけて気絶した時のことを思い返していた。意識を失う中で感じたあの時と同じぬくもりが、腕に残っている気がする。 そこで扉が開き、入って来た人の姿を見て体が固まる。 「そんなに嫌そうな顔をしなくても」 「……もう付きまとわないって、約束したじゃないですか」 「ひどいなあ、銀座で倒れたさんをここまで連れ帰ったのは僕ですよ。あ、医者はただの寝不足だろうって。何か思いつめるようなことでもありましたか?」 涼しげにそう言う男に、は眉根を寄せ、あんたのせいだよと心の中で毒づいた。 男はの部屋を歩き回り、机の上に置いてあるものに目を留めた。「これは?」と言う男に目をやり、その手が掴もうとしているものに気付いて「やめて!」と布団から飛び出す。 そうして男が触れようとしていたものを手に取り、 「絶対に触らないで」 と、鋭く睨み上げる。 が胸元に押し当てたそれは、武士が描かれた、杏寿郎の丸めんこだった。 男は息を上げるを見て、薄ら笑う。 「銀座で会ったあの男性、さんの幼なじみなんですねえ」 「……だったらなんですか」 「倒れそうになったさんを、そばにいた僕やあの珍妙な髪色の女性よりも早く抱き止めて。あの動きは素人じゃなかった。何をしてる人なんですか?」 「あなたに教える義理なんて――」 「人間離れしてるなあと思ったんですけど、そのあとで僕がさんの婚約者だって言ったら、動揺してたなあ。ああ、この人も普通に人間なんだなって安心しましたよ」 はそう言って笑う男を見上げ、 「あの人を馬鹿にするのは許さない」 と、声を震わせる。 「それに、私の婚約者? ねえもうほんと、何なのあんた……勝手なことばっか言わないでよ!」 「でも、屋さんはそのつもりで考えてるって父から聞いてますよ」 はぐっと唇を噛む。 確かにの両親は、男の家からの「ぜひに」という便りを見て喜んでいた。は油問屋の一人娘。繁盛している大店なので、両親としては婿養子をもらい、後を継いでほしいと考えていた。それに貿易商の男の家と結ばれれば、父の仕事も有利に進む。無理強いこそしなかったが、この話を受け入れてほしいという父の思いは、も痛いほど感じ取っていた。 だからこそは、なんとか相手から辞退してくれるようにと策を練っていたのだ。 固く結んでいた唇を解き、はふふっと笑った。男はいぶかしげにその様子を見る。 「私はあなたと一緒になりたくありません」 「……へえ、どうして? さんやこの家にとって、これ以上いい縁談なんて他にないのに」 「それはあなたにとって、でしょ」 目を細める男に、「理由は二つあります」と言う。 「一つは、あなたが生粋の好色漢だってこと。改心したなんて言ってたけど、うちの使用人が、昨日と一昨日と、それぞれ別の女性と連れ立って待合茶屋に入って行くあなたを見たんですって。そんな人と一緒になったって、泣き暮らすことになるのが目に見えてる」 男の血相が変わっていく様子に構わず、は男に背を向けて続ける。 「そしてもう一つは、あなたの目的が見え見えなこと。次男の引け目かなんか知らないけど、この縁談はお兄さんやご両親を見返すための手段でしょ。私はそのための駒でしかないんでしょ?」 そこまで言い終わった時、男はを押し倒した。その拍子に丸めんこが手を離れ、畳の上に落ちる。 手首を強く布団に押さえ込まれて身動きが取れないは、奥歯を噛み締めてこめかみに筋を立たせている男の顔を、ただ見上げるしかなかった。 「だから聡い女は嫌いなんだ。黙って言うこと聞いてればそれでいいのに」 は視線をそらし、落ちてしまっためんこを見やる。そして先ほど、男がめんこを見てあざ笑ったのを思い返した。 にとってそれは、ただのめんこではない。杏寿郎の御守りだ。 「どうせ生娘のくせに散々知ったような口叩きやがって。気丈なふりしてるみたいだけど、内心ぶるぶる震えてるんだろ?」 男の手に頬を撫でられ、全身が粟立つ。 「なあ、さん」 はぐっと手のひらを握りしめ、男を睨み上げる。 「力で黙らせられるような女に見えるの?」 「弱いからなあ、女は。今だってこうされて、成す術もないじゃないか」 「……ねえ、本当にここがどこだか分かってやってるの? だとしたら、愚かすぎじゃないですか?」 そう言うと、はすうっと息を吸い、胸を膨らませる。そうして、ひと思いにこう叫んだ。 「おかーさーん! 助けて! おかあさーん!」 男はぎょっとし、とっさにの口をふさごうとするが、はなおも叫び続ける。慌ただしい足音が近づいて来るのを感じ、男はの体から離れようとする。が、が男の手首を掴み返し、「離さない」と不敵に笑む。男はの思惑を察し、「やめろ」ともがく。 駆け込んできたの母は、布団の上で男に組み敷かれ、涙を浮かべて「お母さん……」と弱々しく助けを乞う娘の姿に目を大きく見開く。 そうして、「違うんです」とたじろぐ男を突き飛ばして娘をかき抱き、の母は大声を上げて使用人たちを呼んだ。 母の腕に抱かれるは、手を伸ばして丸めんこを拾い上げ、頬へと擦り寄せる。そして使用人たちに取り押さえられる男を見て、「さよなら」とつぶやくのだった。 後日、先方からは今回の一件について深いお詫びが入り、縁談も流れた。の両親も、酷い目に遭わされた娘を不憫に思い、それからは縁談を持って来なくなった。無理に婿をもらわなくても、従兄弟を養子にして跡取りにしてもいいという話も上がっていて、の気持ちはすこぶる明るくなった。 ――早く会いたいな。 は自室の窓から、桜に彩られはじめた庭を目に映しながら、心おどらせていた。 |