- 第二話 兄として - 空の端がうっすらと白んできた。じきに夜が明ける。 もう長い時間、杏寿郎は外廊下に座っていた。わずかに険しい表情で唇をぎゅっと結んだまま、空を見上げている。そして時折、廊下の先にある部屋に目をやっては、胸を押さえて息を吐く。 父が任務に出てすぐ、母が産気づいたのだ。痛みをこらえるかのようにうずくまる母の姿に、杏寿郎はただ立ち尽くすしかなかった。 いつ産まれてもおかしくないから、もしその時になったら隣町の産婆を呼んでくるようにと言われていたのに。なのに、体が動かない。見たことのない母の姿に、手が震える。 そんな杏寿郎の肩を激しく揺さぶったのが、だった。槇寿郎がいない間に何かあったら心配だからと言い張り、近ごろはより頻繁に煉獄家へ足を運んでいたのだ。「しっかりして! 瑠火さん苦しんでるでしょ!」とばしばし叩かれ、杏寿郎の震えは止まった。そうして拳を握りしめると、に「頼む」と言い残し、矢のように駆けて行ったのだった。 は杏寿郎の隣で眠っていた。杏寿郎が産婆を連れ帰るまで、一人で瑠火の側に付き添っていたのだ。ひとりっ子で、お産に立ち会った経験もなければ当然知識もない、六つの少女だ。それでも瑠火や母に聞いていたできる限りのお産準備をして、杏寿郎の帰りを待った。そうして杏寿郎が産婆を連れて戻って来たあと、しばらくは緊張した様子で杏寿郎と共にお産が終わるのを待っていたが、いつしか疲れ果てたように眠ってしまったのだった。 兄になるとは、どういう心でいることが正解なのだろうか。母のお腹に子が宿ったと聞いた時、たいていの大人たちは「杏寿郎君はお兄さんになるんだね」と言った。次第にそれは、「兄になるなら」「兄になるんだから」という言葉に変わっていった。 兄とはどうあるべきなのか、何をしてあげるべきなのか。日々そんなことを考えていた時、が不意に言った。 ――きょうちゃんって、瑠火さんのお腹見る時、なんか苦しそうだね。 産声が上がった。朝と夜の狭間の空に、命にあふれた声が響き渡る。 その声に、眠るがもぞもぞと動いた。杏寿郎はしばらく空を見つめたままだったが、やがて立ち上がり、廊下の先へと進んでいく。 そうして灯りが漏れる部屋の前に立ち、襖に手を掛けようとしたが、ためらうようにして引っ込めた。 「杏寿郎、こちらへおいで」 母上、と杏寿郎はつぶやいた。襖の向こうから聞こえてきたのは、驚くほどにやわらかな母の声だった。 息をすうっと吸い、深く吐く。そうして襖を開けると、杏寿郎は目を細めた。 なぜだかそこは、障子から差し込む朝日の光がすべて集められているかのように、眩しかったのだ。 「あなたの弟ですよ」 ゆらゆらと揺れる母の腕の中で、その赤子もまた眩しそうにしている。 ずっと暗い胎内にいたせいか、この世の明るさにまだ目が慣れないようだ。 「千寿郎。この子の名前は、千寿郎」 「……千寿郎」 立ち尽くす杏寿郎に、瑠火は手招きをした。吸い寄せられるように、杏寿郎は母の隣に座る。唇を固く結んで弟を見つめるその姿に、瑠火は「いいですか、杏寿郎」と口を開く。 「どうするべきか、どうあるべきかを難しく考える必要はありません」 その言葉に、杏寿郎はハッとした顔で母を見上げた。 瑠火は知っていた。責任感の強い息子が、その小さな胸に人知れず溜めていた思いを。そしてその重みで、身動きが取れなくなっていることを。 「きっとこの子と過ごすうちに、どうしたいか、どうありたいかが自ずと見えてくるはずです」 そうして瑠火が杏寿郎の頭を撫でた時、千寿郎が泣き声を上げた。杏寿郎はその小さな手に、おそるおそる指で触れてみる。するとその手は、差し伸べられた指をぎゅうっと強く握り締めたのだった。 驚く杏寿郎に、瑠火はほほ笑みかける。 「瑠火さーん!」 襖が勢いよく開き、が慌ただしく入って来た。 「槇寿郎おじさん帰ってき……」 しかし瑠火の腕に抱かれる小さな存在に気づくと、その言葉は途切れた。 すぐ後に駆け込んできた槇寿郎は、噛み締めるように「産まれたか」と言うと、瑠火のそばへ寄った。 「瑠火さん、槇寿郎おじさん、おめでとう」 は立ったまま手のひらを握りしめ、「無事に産まれてよかった」とぼろぼろ泣く。 そんなに、瑠火が手招きをする。もまた、吸い寄せられるようにして歩を進め、杏寿郎の隣にぺたんと座った。 「千寿郎です」 瑠火の言葉に「千寿郎……」と繰り返す。おそるおそる身を乗りだし、瑠火の腕の中で眠る千寿郎を覗き込む。そのすこやかな寝顔を見ると、は顔をほころばせた。 「せんちゃん、おめでとう。だよ。いっぱいいっぱい遊ぼうね」 そうして、千寿郎が杏寿郎の指を握りしめていることに気づくと、杏寿郎の方を向いて、 「きょうちゃん、お兄ちゃんなったんだね。おめでとう」 と、にっこりと笑いかけた。 ――そうだ、兄になったんだ。 その途端に、杏寿郎は心がふっと軽くなるのを感じた。積もり積もったものが溶けていく中で、一つだけ残った思い。埋もれてしまっていたんだ。母との言葉が、その思いを見つけ出させてくれた。 すべきことではない、してあげたいことは…… 「守るよ」 千寿郎の寝顔にそう囁いたとき、部屋に差し込む朝の光がいっそう強くなった気がした。千寿郎はまだ、握った指を離さない。 杏寿郎は母に頬を拭われるまで、自分が涙を流していることに気づかなかった。 「ありがとう、杏寿郎」 母の顔がしっかりと見えないのは、朝日のせいか、それとも涙のせいか。それでも杏寿郎はその視界の中で、瑠火のあたたかな笑みを見た。 父が、母が、弟が、がいるこの世界が、ずっとずっと永遠に続けばいい。この幸福を守るためなら、なんだってする。 朝日がまばゆく差し込む中で、杏寿郎はそう誓った。 |