毎週金曜日の夜はカレー屋めぐりをすると決めている。カレーを出す店なら、ホテルでも蕎麦屋でも町中華でもどこにでも行く。金曜は、いくら会社の人に飲みに誘われても丁重に断るし、取引先との会食があったとしても何かと理由をつけて辞退するか早抜けをして、カレーを食べに行く。ろくに有給も使わずに働き続けているのだから、金曜の夜ぐらいは大目に見てほしい。平日の労働で溜まりに溜まった疲れをデトックスして、週末を迎えたいのだ。

「……いいお店だった」

 浮かれた学生集団や居酒屋のキャッチ、酔いどれサラリーマンなどで混雑する繁華街の片隅で、私は一人、スマホを見ながらにんまりと笑む。
 おいしいカレーを出すスナックがあると聞き、金曜夜のカオス渦巻く新宿へと足を運んだ。もちろんスナックは初めてなので、こんな女が一人で入ってもいいのだろうかと尻込みしていた。そこへたまたまスナックの常連らしきおじさんが来て、カレー目当てであることを察して中へと案内してくれ、気さくなママが陽気に迎えてくれた。ママの地元の味噌を隠し味に入れているそうで、コク深く、どこか懐かしさを感じる味だった。母親の作ったカレーを思い出す、と涙する客もいるそうだ。
 スマホで撮ったカレーの写真を見ながら、ふと思う。母親の作ったカレーってどんな味なんだろう、と。小学校に上がる前に事故死した母の記憶は曖昧で、名前すら思い出せない。ずっと父方の祖母に育てられてきた。祖母は渋い和食しか作らなかったので、カレーなんてハイカラなものは食卓に上がらなかった。小学生の頃、家庭科の授業で作ったカレーライスがおいしくて、こんなにおいしいものがあるのかと感動して、祖母にねだったことがある。けれど祖母には「あんな味の濃いもの、舌が壊れるからおよしなさい」と言われた。その反動なのか、こうして自由と自立を手にした今、私は祖母いわく「舌が壊れるもの」を狂ったように食べている。死んだ祖母が見たら卒倒するだろう。

「いってぇ!」

 突然、肩に何かがぶつかった。その拍子にスマホを落としてしまい、拾わなきゃ、と思ったところに男性の野太い声が響いた。視線をやると、肩をさする男と、その隣で薄ら笑みを浮かべる男が私を見おろしていた。

「オネーサン、ながら歩きしてたっしょ? 肩ぶつけたんだけど? これぜってぇアザになってんだけど?」

 確かにスマホを見ていた。けれど、見ながら歩いてはいない。立ち止まって、スマホを見ていた。それも周りに配慮して、建物の壁に沿って立っていた。

「治療費と連絡先。ひとまず二万でいいわ、足りなかったら連絡するからさあ」

 肩を怪我したと訴える男は、手のひらを私の眼前に突き出し、ほら早くと急かしてくる。その隣では連れの男が、何が面白いのか下品な笑い声を上げている。
 これは、ゆすりだ。自分に非がないことは分かっている。でもこんな、誰もが見てみぬふりをして通り過ぎていく夜の街で、男二人を相手に争うなんてできっこない。スマホだって道に転がったままだ。警察を呼ぼうにも、スマホを拾い上げることすらできないほど、恐怖に立ちすくんでしまっている。悔しい。こういう事態に巻き込まれたとき、私は戦える人間だと思い込んでいたのに、本当はこんなに弱虫だったなんて。誰か、誰か、助け――。

「おい兄ちゃん。俺の連れになんか用か?」

 不意に、首回りに重みを感じた。それと同時に、頭の上で聞こえた低い声。顔を左に向けてみると、黒いTシャツに覆われた分厚い胸板が見えた。今度は顔を右に向ける。半袖から覗くのは、筋骨隆々という言葉を体現したような立派な腕。その腕が、私の肩の上で狭苦しそうに鎮座していた。

「お前、こいつらになんか迷惑かけたのかよ」

 左側からずいっと視界に入ってきた顔に、目を見開く。その男性は、私をゆすっていた男二人組よりも格段に品のある顔立ちだった。けれど切長の目は鈍く光っていて、口元には刃物で切られたような傷跡があり、醸し出す雰囲気には静かな狂気を感じた。
 私が何も言えずにいると、男性の眼光は男二人組に向けられる。

「仕方ねえな。俺がお前の代わりに詫び入れといてやるから、少し待ってろ」

 男性はそう言って、口元に薄ら笑みを浮かべた。男二人も私と同様に、この男性の異様さを感じ取ったのだろう。もういいです、とか、こっちが悪かったので、なんて口々に言いながら逃げようとしている。男性は私の肩に回していた腕を離して、男らの首根っこを掴んで路地裏へと消えていった。
 そうして一分も経たぬうちに戻ってくると、道に落ちていた私のスマホを拾い上げる。

「あ、ありがとう……ございます」

 差し出されたスマホを、震える手で受け取る。さっきの男たちはどうなったのだろう。そしてこの人は、誰。

「ねえちゃん、良い匂いするな」

 ぐっと近づいたかと思えばそんなことを言われて、金縛りにあったように体が動かなくなる。ゆすりから助けてもらったのはいいが、今度はまた別の、得体の知れぬ何かに襲われている気がした。一難去ってまた一難、という言葉が脳裏に浮かぶ。

「あーこれ、カレーか?」
「……あ、えっ、と」

 焼肉に行った後は、肉を焼いた匂いが髪や服につく。とんかつ屋さんに行った後も、揚げ油の匂いがこびりつく。でもカレーは、そこまで匂うものなのか?
 そんなことを思いつつ、男性を恐る恐る見上げる。

「いいなカレー。食いたくなってきた」
「……はあ」

 男性は太い首を左右に倒す。そのたびに、ポキ、パキ、と関節が鳴る音がする。
 瞬きを繰り返す私に、男性はうっすらと笑んだ。

「食いてえな。なぁ?」

 その声は、イェス以外の答えは認めないという圧を孕んでいた。
 これは、助けた礼をしろということなのか。

「あ、あの、これで……」

 財布からありったけの紙幣を引っこ抜いて差し出せば、男性は「あ?」と眉をひそめた。まずい。足りなかったのだろうか。

「ごめんなさい、今は手持ちがこれしかなくて」
「いらねぇよ金なんて」
「……え? あっ、じゃあこのお金でカレーを」
「小娘から巻き上げた金で食うメシなんざうまくねえ。……ああ、そうだ。少し待ってろ」

 そう言って、男性は再び路地裏へと入って行く。そして戻ってきたときには、片手に一万円札を数枚握っていた。

「行くぞ」

 言葉を失う私の手を取り、ぐんぐんと進んでいく。ふと振り返ってみると、顔を腫らした男が路地裏から出てくるところだった。先ほどの男二人組だ。足腰がうまく立たないのか、建物の壁に背をもたれ、ゼェゼェと呼吸している。その様子から全てを察した。私の手を引くこの男性が、あの二人を殴り倒し、お金を巻き上げたのだと。とんでもない人に、どこかへ連れて行かれている。どうしよう、怖い。誰か、誰か、助けて――。

「とりあえず今日はここで済ませるか」

 恐怖で周りが見えていなかった私は、その言葉で我に返ったように辺りを見た。目の前にはチェーンの牛丼屋。男性は私の手を掴んだまま店に入り、手慣れた様子で食券機に紙幣を差し込むと、迷うことなくボタンを押す。

「ねえちゃんは? なんか食うか」
「えっ、え? いえ私は……」
「酒は」
「い、いいです」

 男性はボタンを複数押した後、釣り銭を取ってカウンター席に座った。突っ立つ私を一瞥し、自分の隣のイスをとんとんと叩く。指示通りに隣席へ腰を下ろした私の目の前に、店員さんがオレンジジュースを置いた。えっ、と声を漏らせば、男性はウーロン茶を一口飲んだ後で、

「それなら飲めるだろ」

と、片方の口角を上げた。
 氷がたっぷり入ったオレンジジュースを見て、やっと自分の喉の渇きに気づいた。

「……いただきます」

 この短時間のうちに起きた展開に付いて行けず、私は黙ってただオレンジジュースを飲み続けた。
 お待たせしました、と男性の手元にカレーライスが置かれる。牛肉のトッピングがこれでもかと盛られている。男性はスプーンを取ると、どこか気だるそうに口を開ける。まるで、食べるという作業のようだった。

「おいしいですか?」

 勝手に言葉が突いて出た。すると男性は私を横目で見て、

「どう思う?」

と、たずね返してきた。心臓がギュッと絞られる。授業中に突然名指しで当てられたときのような感覚だった。

「えっと……あんまり、何も考えてなさそうで」
「ご名答。ただ食ってるだけで、うまいとかどうとかは考えちゃいねえよ」
「え、それは……」

 口ごもっていると、男性は言葉を促すように、私をじいっと見つめてくる。

「もったいない……です」

 消え入るように言った私に、男性は少しの間を置いたのちに、プッと笑った。
 あ、この人も笑うんだな。そんなことを思って目を丸めていると、男性は再びスプーンでカレーを掬い上げながら言う。

「なら、俺が思わずうまいって言うような食いもん作ってくれよ」

 えっ、と声が漏れてしまう。「作る」って?
 理解に困っている私に構わず、男性はカレーを食べ進めながら聞く。

「ねえちゃん、名前は」
「……です。あの、あなたは?」

 男性は咀嚼しながら視線を斜め上に向ける。そうして、言った。

「甚爾」


◇◇◇


 疲れを癒す方法は人それぞれ異なるだろう。人とお酒を楽しんだり、サウナで汗を流したり、カラオケで熱唱したり。私の場合は、カレーを食べることだ。毎週金曜の夜にカレー屋めぐりをすることが、私にとってのデトックスだった。
 それが今や、一人だけの楽しみではなくなった。新宿での一件以来、私は毎週金曜の夜、甚爾さんとカレーを食べている。
 初対面の状況が状況だったので、粗暴な人という印象が多分にあった。しかしカウンター席しかない小さなお店に行ったとき、隣に座る甚爾さんが狭苦しそうに肩を縮めながら食べていたのを見て、意外だなと思った。気に入らないことがあると周りをなぎ倒してでも自分の好ましい状況をつくる人なのかも、なんて思い込んでいたので、環境に合わせられる人なんだなと思って驚いたのだ。それに、狭かった、なんて文句も言わなかった。お店を出た後に言ったのは、「お前が見つけてくる店はどこもうまいな」とだけ。
 甚爾さんのことは、まだよく知らない。だから一概に「良い人」だとは言えない。でも、「見かけによらず付き合いやすい人」ではあると思う。

「うわぁ、すごい雨」

 台風直撃。仕事は自宅待機からの全休となり、私は降って湧いた休みに心躍らせながら甚爾さんにメールをした。「今日は早くに合流できそうです」と。返信を待ちながら、窓を開けてみる。途端に、地面を打つ水の音が流れ込んできた。雨で白む外を眺めていると、携帯が鳴った。甚爾さんからだ。もしもし、と弾む声で出た私に対して、「お前なあ」と落ち着いた声が返ってくる。

『こんな雨じゃどの店もやってねえよ』
「えっ、そんなバカな」
『バカはお前だ』

 電話の向こうからは、呆れたようなため息が。
 そっか。会社も休みになったぐらいだし、電車も止まってるらしいから、飲食店だって営業休止しててもおかしくない。お店を開けても人が来ないんじゃ仕方ないだろうし。

「じゃあ、どうしよう夕飯……金曜なのに……」
『適当にカップ麺でも食っとけ』
「ええっ、家にカップ麺ないです。冷蔵庫も空っぽだし……ああ、どうしよう、金曜なのにカレーが食べれないなんて……生活リズム崩れて体調壊します」
『ヤワだな。じゃあ自分で作りゃいいだろ』
「カレーをですか?」
『ああ』
「いえ私、カレーは作れないんです」
『……は?』
「カレーっていろんな味があるから、どんな味を基準に作ったら良いか分からなくて。みんな、お母さんが作ってくれたカレーの味を参考にするんでしょうか」
『俺は知らねーな、そんな味』
「私も知らないです」

 少しの沈黙ののち、甚爾さんは少し気だるそうに言った。

『一旦切るぞ。メールでお前んちの住所送っとけ』
「え? 住所って――」

 ぶつ、と切られた電話に、訳が分からずそのまま携帯を握り締めていた。そのうち、住所送っとけという甚爾さんの声が耳に蘇り、言われるがままに住所を送った。
 それから一時間も経たぬうちにインターホンが鳴り、なんだなんだと開けてみると、レジ袋を提げた甚爾さんが立っていた。傘は見当たらない。全身びしょ濡れだ。

「甚爾さんって、傘とか使わないんですか?」
「開口一番がそれか」

 ハッと息を吐くように笑った甚爾さんは、上がるぞ、と私の脇をすり抜けて中へと入る。慌ててその後を追い、バスタオルを渡した。

「え、っと、甚爾さん?」
「さすがに米ぐらいはあんだろ」

 キッチンの戸棚を開けて鍋やら包丁やらを取り出す甚爾さんに唖然としていると、甚爾さんは不意にこちらを振り返って、口角をゆるりと引き上げた。

「俺がなってやるよ、味の基準とやらに」

 その後「待ってろ」と言われた私は、ベッド前の小さな座卓から甚爾さんの背中を見つめていた。ワンルームの部屋に備え付けられた狭いキッチンで、甚爾さんはその大きな背を丸めながら動いていた。新宿の繁華街で柄の悪い男二人を秒で倒した人が、体を小さくして料理をしている。

「……本物の甚爾さんですよね?」
「バカか」

 同一人物とは思えなくて、くだらないことを言ってしまった。
 背中で笑った甚爾さんの隣で、電子レンジが鳴る。パックご飯だ。家ではお米炊かないんです、炊飯器もないんです、と言った私に蔑むような目を寄越した甚爾さんはきっと、私よりもまともな食生活をしているのかもしれない。偏見で申し訳ないけれど、酒で空腹を満たしてるような顔をしているのに、案外、三食きっちり食べる人なのかもしれない。いや待て。甚爾さんがお酒を飲んでいる姿を見たことがない。いつもお茶だ。嫌いなのかな、お酒。つくづく、私はこの人についてまだ知らないことが多いな。
 そんなことを考えていると、恋しいあの香りが鼻をくすぐった。あ、カレー。そう気づいたときには、目の前にお皿が置かれていた。

「ほら、食え」

 粒立った米をとろりと覆うカレールー。ほくほくと白い湯気が立つお皿に顔を近づけながら、わあ、と声を漏らしてしまう。今日はもうカレーが食べられないのかと思っていた。まさか、甚爾さんが作ってくれるなんて。
 いただきます、と手を合わせて、一口頬張る。途端に、体中の細胞が目覚めたように感じた。

「んんんっ!」
「濃くねぇか」
「んっ、んんん、ん!」

 おいしい。おいしいよ甚爾さん。でも言葉を発するとカレーの風味が体から逃げ出していきそうで、私は口を閉じたまま首を横に振り、親指をグッと立てた。
 おいしさに唸りながら食べ続けている私の前に、甚爾さんがカレールーの箱を二つ置いた。

「ルーはこの二つ。混ぜて使ってる。具は豚と玉ねぎで十分だ」

 その昔、家庭科の実習で作ったカレーにはじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉が入っていたけれど、今食べている甚爾さん作のカレーは見た目がこざっぱりしていた。なるほど、具材が二つだけだからか。でも味はスタミナ系。バターで炒められた玉ねぎの甘さがルーに溶け込んでいて、そこにニンニクを纏った豚バラがしっかりと存在している。

「これが甚爾さんの味?」
「まあな」

 スプーン片手にまじまじと皿を見つめる私に、甚爾さんは「なんか文句あるか」と圧を込めて言った。

「文句なんてとんでもないです」
「そうかよ。じゃあ黙って食い続けてろ」
「ただ……私、家でカレーを食べるのって初めてで。すごく、あったかいですね。あったかい味がします」

 おいしい、おいしい。そう繰り返しながら食べ続ける私に、甚爾さんは特に何も言うことはなかった。けれど、心なしかいつもより柔和な顔をしていたような気がする。

「なんでカレーなんだよ」

 食べ終わったお皿を洗っていると、ソファに寝そべってテレビを見ていた甚爾さんが何気なく聞いた。

「私、祖母に育てられたんですけど、家ではもっぱら和食だったんですよね。あ、和食といっても明治以前の日本の食卓みたいなもので、ハイカラな料理は出てこなくって。家庭科の授業で作ったカレーがものすっごくおいしく感じて、家でも食べたいって祖母にねだったら『あんなのは味が濃いから舌が壊れるぞ』ってあえなく却下されて」

 洗った皿を拭きながら振り返ると、甚爾さんはテレビではなく私を見つめていた。

「そういうのありません? 抑圧されてると、その反動で今まで我慢してたことを狂ったようにやっちゃう、っていうの。私の場合はそれがカレーなんです」

 向けられる視線が、どうしてか胸の鼓動を速める。緊張しているのだと気づき、自分で自分を誤魔化すようにハハッ、と笑った。すると甚爾さんは、なんで笑うんだ、というように眉を顰めた。
 おもむろに身を起こした甚爾さんは、キッチンに立っていた私に手招きをする。私は、そういう躾を受けた犬のように、素直に彼の元へ向かう。すとん、と隣に腰掛ければ、甚爾さんは私の肩に腕を回した。

「抑圧の反動か」

 甚爾さんの重みが、じわじわと肩にのしかかる。

「……ありますか? 甚爾さんにも、そういう反動」

 甚爾さんは曖昧に笑うだけで答えなかった。私も場を取り繕うために聞いただけなので、別にどうしても返事が欲しいわけではなかった。だからそれ以上詮索はせず、ただ肩に感じる重みやぬくもりに息を潜めていた。
 ふ、と顔が持ち上がる。甚爾さんの指が私の顎に触れていた。テレビの音が遠くなっていく。甚爾さんの顔が近づいてくる。唇が重なる。割って入ってきた舌が、金縛りにあったかのように静止した私の舌に絡みつく。深く沈み込んでくるような、濃い甘さ。こんなの今まで知りようもなかったほどに、とても濃いキスだった。
 唇が離れた、と思ったら、また重なる。そのうち甚爾さんの重みは肩だけにとどまらず、全身に広がった。

「舌、壊れた?」

 唇を離した甚爾さんは、ソファに倒れる私を見おろし、うっすらと笑んだ。
 言葉が出てこない私に、甚爾さんは黒いTシャツを脱ぎながら言う。

「婆さんにはこういうことも禁止されてたのか?」

 男性の裸体なんて見慣れていない。というのは強がりで、正直、初めてだった。でも分かる。この人の体は、一般的な男性のそれとは違う。厚みはもちろんだが、刃物か何かでできた傷跡が無数にあった。

「怖いか」

 囁くような声だった。それ以上触れようとしてこない甚爾さんを見上げ、私は首を横に振った。

「震えてんぞ」
「は、はじめて、なので……」
「初めてって。これから何が始まると思ってんだ?」
「えっ」

 目を丸める私に、甚爾さんはククッと喉を鳴らして笑った。

「冗談。察しの通りだ。初めてにしては勘がいいな」

 そう言って、もう一度キスをした。
 物の味を感じるのが舌の役割だと思っていた。けれど今、私の舌は味よりも快楽を感じていた。気持ちいい。これは、まるで革命だ。甚爾さんとのキスによって、舌に新たな機能を生まれたようだった。


◇◇◇


 嵐の夜に体を重ねてから、甚爾さんは音信不通になった。毎週金曜日のカレー屋めぐりも、私は以前のように一人で行くようになった。
 鳴らない携帯を座卓に置いて、じいっと見つめる。やっぱり鳴らない。「ヤリ逃げ」という言葉が脳裏に浮かぶ。他の男性との性体験がない私がこんなことを言うのもあれだけれど、甚爾さんは手慣れていた。強引な瞬間なんてなかった。最初から最後まで、やさしかった。けれど翌朝目覚めたときにはもぬけの殻で。甚爾さんがこの部屋に来たのは夢だったのでは、と思うほどに、彼自身の痕跡はなかった。でも、キッチンに残されたカレールーの箱で、やっぱりあれは現実だったのだと思えた。

 ぐつぐつと煮える鍋を見おろし、息を吐く。近ごろの私は、毎週金曜のカレー屋めぐりをやめた。その代わり、家でカレーを作るようになった。作るのはもちろん、甚爾さんが教えてくれたカレー。甚爾さんの味。
 くたくたに煮えたせいか忽然と姿を消してしまった玉ねぎに、甚爾さんを思う。玉ねぎみたいな人だったなあ、なんて妙なことを思った自分に笑った、そのときだった。

 ドン、ドン。

 戸を叩く音に、びくりを肩を上げる。こんな真夜中にカレーを煮込んでしまったので、近所の人がクレームを言いに来たのかもしれない。

「カレーくせぇな」

 戸の向こうから聞こえてきた声に、私は持っていたお玉を放り出して玄関へ走った。

「と……じさ――」

 甚爾さん。いつもの黒いTシャツに、稽古着のようなダボッとした白いズボンを履いていた。白地。だから目立ったのだ、赤い血が。

「心配すんな。俺のじゃねーよ」

 甚爾さんは、呆然とする私の横を通って部屋へ上がる。そうして、火がかかったままの鍋を覗き込み「またこれ食ってんのか」と笑った。私は「焦げるぞ」と火を止めた甚爾さんの方に一歩、二歩と近づき、最後は飛びついた。その勢いで、甚爾さんの体は少し揺れた。

「泣くなよ。女に泣かれんのは趣味じゃねえ」
「わ、わた、し、っや、や…やり逃げだと、思って」

 涙と鼻水でべしょべしょに顔を濡らす私を見て、甚爾さんは片眉だけを器用に下げた。

「悪ィな。仕事だったんだよ」
「仕事って……と、甚爾さんはっ、遠洋漁業の人なんですか?」
「は? なんでそうなる」

 しゃくり上げながら「長い間連絡取れない仕事のイメージがそれで……この血も魚のかなって」と言う私に、甚爾さんはついに吹き出した。

「お前がそう思うならそうだ」

 その言い方に、甚爾さんの本当の仕事はきっと全然違うんだろうなと思った。この血も魚のものじゃない。でも今は、そんな目に見えない事実を暴こうとしなくったっていい。甚爾さんがまた会いに来てくれたという事実だけを、噛み締めていたい。

「ねえちゃん、良い匂いするな」

 ぐっと近づいたかと思えばそんなことを言われて、金縛りにあったように体が動かなくなる。

「……あ、カレー食べます?」
「いいや。それよりこっち」

 キッチンの方を向いた私の体は、後ろから包まれる。分厚い胸、太い腕。首筋をスンスンと嗅がれ、くすぐったさに身をひねってしまう。

「食いてえな。なぁ?」

 すっかり濃い味に慣らされた私の舌は、どうやら自分で思っていた以上に貪欲だった。より濃い刺激を求めて、自ら口から抜け出していく。差し出された舌に、甚爾さんは目を細め、片方の口角を器用に上げて笑んだ。そのちょっと悪い笑みが好きだと思った。
 これで本当に舌が壊れてしまっても、もう構わない。ごめんね、おばあちゃん。でも心配しないで。抑圧の反動で得たあれこれの始末を自分でつけられるほどには、私も大人になったはずだから。



あるいは革命




(2024.08.16)

甚爾:
新宿のスナックで用心棒のような仕事をしていた。女一人で店に来た夢主がおいしそうにカレーを頬張る姿を見て、今まで接したことないタイプだなと興味本位で後を付けたところ、夢主がチンピラに絡まれていて、めんどくせぇけど見てみぬフリはできねーな、と仲裁に入った。
カレーを一緒に食べるだけで他には何も求めてこない夢主との時間が、だんだんと心地よく感じるようになった。いつも目当てのカレー屋で現地集合、現地解散の夢主に、口直しに甘い物でも食いに行くかと誘ったところ「シャツについたカレー染みを早く洗い落としたいので」と断られたことがある。そのときに「落とす」と決めた。

夢主:
カレーが恋人だったのに、いつの間にかフィジカルギフテッドの恋人ができていた。

*yuukoさんからのリクエスト
「奥さん亡くしてから適当に遊んできた甚爾。軽く遊んでいたつもりが、夢主に本気になってしまう話」
ありがとうございました!




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