彼女は、夕暮れ時の教室で机に突っ伏していた。その机には彫刻刀で掘られた落書きが。そこには、相合傘の下に、彼女の名前。その隣には「傑」。近づいてみると、眠る彼女の目尻から、つうっと涙が伝い落ちていた。――ああ、これは夢なのだろう。親友が去ったあの日の記憶。それが、夢となって現れたんだろう。なんて、タチの悪い――。

「あ、やーっと起きた」

 ぱちりと瞼を開いた五条悟に、運転席から声が投げられる。声の主とルームミラー越しに目が合うと、寝起きの悪い五条は普段より少し低い声で聞く。

「どのぐらい寝てた?」
「十五分ぐらいかなあ」

 高専の駐車場に着いても眠り続けていた五条を、補助監督のは無理に起こすことなく、運転席で庶務を済ませつつ目覚めを待っていた。
 あの日の夢を見たんだ。なんて言えるわけもなく、五条は「昔さぁ」といつもの飄々とした調子で言う。するとも膝に広げていた手帳から顔を上げて、ルームミラー越しに五条を見た。

「傑の部屋で勝手に焼肉やって怒られたよね」
「あー、あったあった。サムギョプサルね。五条が食べてみたいって言ったんだよ」
「そうだっけ」
「そう。食堂を勝手に使うと寮母さんに叱られるから無理だし、自分の部屋は臭くなるから嫌だって言って、たまたま任務で出かけてたあの人の部屋に勝手に上がり込んで……」
「あいつブチ切れてたよねえ」
「すごかったね。特級呪霊出そうとしてたもん。その後三日ぐらい匂いが落ちなくて、部屋が豚臭いからって、その間ずっと私の部屋にいてさ」

 の言葉が、車内の空気にゆっくりと溶けるように消えた。束の間、沈黙に包まれる。

「する? サムギョプサル。の家で」

 いたずらっぽく言った五条に、は肩を揺らして笑う。

「やだよ。五条んちならいいけど」
「いいよ。来る? 大歓迎」

 そこでぴたりと動きを止めたは、横目でルームミラーを見る。しかし五条と目が合うと、すっと視線を逸らした。

「やっぱやめとく」
「なに警戒してんの」
「……するよ、そりゃあ」

 五条は後部座席から背を離し、運転席の方へと身を乗り出す。
 
「そろそろ観念しなよ。僕がしつこいの知ってるでしょ」
「……だって、五条のそれは同情でしょう? 好意じゃなくて」
「残念。僕はそんなに親切じゃないよ」

 左耳に吐息がかかりそうなほどに近づけられた五条の顔を、は「どうだか」と言いながら、手のひらでそっと後ろへ押し返した。

「ストレートに言わなきゃ信じられない?」

 五条の言葉に、は力なく笑う。そうして再び手帳に視線を落とした。

「いいよ言わなくても。分かってるから」
「分かってるけど受け入れないのは、傑を忘れたくないからだよね。傑って、そんなに良かった?」

 ふっと顔を上げたは、ルームミラーではなく、五条の方を振り返って直に視線を重ねる。
 
「あの人の良さは、五条が一番よく知ってるでしょう?」

 何すっとぼけたこと言ってんの、とでも言いたげな顔だった。五条はその表情にプッと噴き出し笑いをする。

「アッチの良さを聞いたつもりなんだけど」
「うわっ、サイテー」

 は心底嫌そうに五条を一瞥すると、後部座席に向けていた顔を元に戻す。しかしその目は手帳ではなく、フロントガラスの向こう側を見つめていた。瞳に映るのは高専の学舎。多くの呪術師や補助監督がここで学生時代を過ごした。四年制だが、最後の一年はほとんど記憶にない。五条にとっての学生時代とは、夏油傑がいた三年間を指す。たったの三年。一瞬で過ぎ去った日々。思い出すと、深く抉られるような感覚に襲われると同時に、もしかすると全部夢だったのかもしれないと思うほどに、胸の中で嘘みたいに煌めいている。

「思い出させないでよ。五条といると、いつもあの人の話になるから……だから、忘れられないんじゃん」

 彼女はいつから、かつての恋人のことを名前ではなく「あの人」と呼ぶようになっただろう。
 五条が口を開くよりも先に、が動いた。運転席から外へ出ると、車体の後ろをぐるりと回って左後部座席のドアを開けた。

「早く降りて。定例ミーティングでしょう? 伊地知くん待ってるよ」

 足を組んでを見上げていた五条だが、「ほら」と催促されると、焦らすようにゆっくりとアイマスクを着け直してから車外へ出る。そのまま歩き始めたかと思えば、ふと立ち止まっての方を振り返った。

「十七時に僕らの教室で」

 五条はそれだけを告げると、訝しげに首を傾げるに手を振り、その場を後にするのだった。


◇◇◇


 ――近くにいたはずなのに、なんにも気づけなかった。
 夏油傑が高専を去ったあの日、はそう言ったっきり、その後しばらく言葉を発さなくなった。五条が次に彼女の声を聞いたのは、確か、伏黒恵を紹介した時だ。「初めまして」と言ってやわらかく微笑む彼女に、五条はサングラスの奥で目を細めた。人見知りする恵だが、彼女には懐くのが早かった。五条はあの時の恵にひそかに感謝している。
 あの日から、いくつもの別れと出会いを繰り返して、今がある。

「その遅刻癖どうにかならない?」

 夕日の差す教室。ここは五条たちが学生時代に使っていた、校舎三階の西側にある教室だった。
 窓辺の机に突っ伏すは、ドアを開けて入ってきた五条の顔を見ずに言った。時刻は十八時。約束の十七時からすでに一時間が経過していた。

「こんなの、初対面の女の子だったらキレ散らかして帰ってるよ」
「そ? ならよかった。今日の相手が苔むすぐらい長い付き合いの女の子で」
「……素直に言いなよ。待たせてごめんね、ありがとうって」
「めんごめんごーせんきゅー」

 机に突っ伏す彼女の腕の隙間から、チッと舌を打つ音が漏れた。
 五条は窓辺のにゆっくりと近づいていく。するとその気配に気づいたのか、彼女はおもむろに顔を上げ、机上の一箇所を指して言う。

「これさ、消せない? 教育上よろしくないでしょ、呪詛師と補助監督の名前がこんなんになってたら」
「ここは普段使われてないからね、問題ないよ」

 彫刻刀で掘られた、相合傘の絵。その下には、夏油傑と彼女の名前。一年生の夏、彼女が夏油に惚れていて、夏油も彼女を好いていると知った五条が、夏油の机に掘ったのだ。やめてよねと怒りながら頬を赤らめる彼女の隣で、夏油はどこか申し訳なさそうに笑っていた。彼は察していたのだ。五条もまた、彼女に想いを寄せていたということに。
 五条は、親友と好きな相手の相合傘を掘ることで、自分の行き場のない気持ちが昇華されると思っていた。けれどそれは消えなくて、しつこいほどにくすぶり続けている。

「あのさ」

 五条は机の上に腰掛け、を見おろす。しかし彼女はいまだに彫刻刀の落書きを見ていた。

「傑のこと忘れろなんて言わない。言えない。その上で言うけど、僕は好きだよ、お前のこと」

 風のせいか。窓や戸がカタカタと軋んだ。
 彼女は顔を上げ、五条を見た。瞳は少しも震えていない。まっすぐに五条を見つめていた。
 五条は、何か言おうとしている彼女の唇に指を押し当てて、言葉の出口を塞ぐ。

「ありがとう、なんて言うなよ? それ今一番聞きたくない台詞だから」
「……そんなこと言うつもりないよ」
「じゃあなんて?」

 五条の指が離れると、彼女は自分の手を唇に当てる。そうして、下唇を指でゆるゆると摘む。その姿に、五条は目を見開いた。

「しつこいんだよ、ばーか。……って」

 下唇を指で摘むのは、彼女が照れた時に見せる仕草だった。昔、彼女が夏油傑の隣にいた時によく見た姿だ。
 五条は堪えきれずに笑った。ぷはっ、と息を漏らして、声をも漏らして。

「威勢のいいこと言う割には満更でもなさそうじゃん」

 彼女は少しむくれたように五条を睨んだが、彼の言葉を否定はしなかった。

「する? サムギョプサル。うちで」
「……硝子とか七海とか伊地知くんとかもいるなら」
「はあ? 初デートで外野呼ぶバカがどこにいんだよ」
「うっわあ、口の悪さぶり返してるよ? ていうか外野呼びしないで。ていうか……え、はっ? 初デートって――」

 しどろもどろになる彼女に、五条はまた笑う。音もなく、静かに。目をすうっと引いて、やわらかく。
 そして彼女の腕を掴んで立ち上がらせ、落書きの刻まれた机から離れる。その途端に、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。きっともう、この教室には戻らない。そう決めたのだろう。
 二人が去った教室の窓は、風のせいか、カタカタと鳴いていた。



刻み去る煌めきに





(2024.05.23)

*詩さんからのリクエスト
「大人五条、高専同期。高専時代夏油が好きだった夢主のことを好きな五条。大人になっても夏油を忘れられない夢主を何とかして振り向かせたい。そんな五条の真っ直ぐな気持ちに少しずつ揺れる夢主の話」
ありがとうございました!




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