前世での私は、彼と対等に話せる立場じゃなかった。一平隊士の私は、隊を率いる彼をいつも端の方から眺めるだけ。そんな風柱さまと、今世では幼馴染だなんて。
この糸の行く先
ベッドに入るまではカーテンを閉め切らないと決めている。母からは、不用心だから夜はちゃんと閉めなさいと何度も注意されたけれど、頑なに開け放ったままにしている。それは私が単にだらしないからというわけではなく、隣の家の様子を見ていたいから、だ。
「……あ、帰ってきた」
私の部屋とほとんど同じ高さにある隣家の窓。カーテンで覆われたその窓が、パッと明るくなった。私はソファを離れ、窓辺に駆け寄る。そっと窓を開ければ、向こうの家の窓もガラッと開いた。
現れたのは、幼馴染の実弥くんだった。そう、前世で私が陰ながら憧れていた、風柱の不死川実弥さん。生まれながらに前世の記憶がある私は、この家に引っ越してきた時、お隣さんが不死川一家だと知って卒倒しかけた。
同い年で、小中も同じだったので自然と仲良くなり(というか、畏れ多くも仲良くさせていただき)今に至る。実弥くん(と呼ぶのも畏れ多いのだがそれ以外に呼び方がないので)には前世の記憶がないようで(というかあったところで平隊士だった私のことなんて覚えていないだろうけど)何にもとらわれることなく、今世での人生をただひたむきに生きている。そんな彼の姿を間近で見ることができるなんて、私は前世でどんな徳を積んだんだろう。
「お前、まァた監視してんのか」
仕事帰りなのだろう、彼はシャツのボタンを外しながら、やれやれと呆れ顔でこちらを見ている。
「ひどい。監視って、そんな言い方」
「これでも言葉選んでんだわァ」
「まるで私がストーカーみたいじゃん」
「あーあ、言わねェでやったのに自分で言いやがった」
くつくつと笑う実弥くんに、私は口先を少し尖らせる。
私と実弥くんは、小さい頃からこうやって、部屋の窓を開けてお喋りをすることがよくあった。お互いに思いっきり上半身を乗り出せば、指先が触れ合うほどの距離だ。
「おら」
構えろ、と合図されて、私は両手を前に突き出す。すると実弥くんは、ひょいっと何かをこちらに投げた。半円を描きながら手のひらに落ちたのは、透明の小袋。中には、花の形をしたビスケットが二枚入っていた。
「貰ったからやる」
「え、貰ったって?」
「帰りに駅で。知らねェ婆さんから」
「あーなるほど。また人助けしたんだ」
「そんな大したこたァしてねーよ」
前世での不死川実弥という人は、他人とは関わりを持ちたくないから近寄るな、というオーラを放っていた。でも、困っている人を見かけると放っておけずに自ら近づいていく。それは人間相手だけでなく、動物にも同じく。風柱が寺に住み着く野良犬に握り飯をあげているというのは、鬼殺隊では有名な話だった。
今世での彼は、生まれ育った環境が前世とは異なるためか、他者を拒むオーラを放つことこそないが、それ以外は前世とほとんど同じだった。助けが必要な人には迷うことなく手を差し伸べる。見返りなんて求めないし、自分は善行をしたのだと自慢するようなこともない。つくづく、人間ができているなと尊敬する。
「仕事はどう? 忙しい?」
「ぼちぼち。もうすぐ年度変わるしなァ。そっちは?」
「んー、ぼちぼち。もうじき接待ラッシュだから、そしたら結構忙しくなりそうかな」
実弥くんは高校の数学教師で、私は普通の会社員。新年度になると取引先の担当者が人事異動で代わることが多く、それに伴って、新担当者との関係構築のための接待が増える。
どんなに良い店に行っても、仕事だと何を食べてもおいしく感じない。物体としてただ飲み込むだけ。早く帰りたいと思いながら笑顔を貼り付けつつお酌をする日々がもうすぐ始まるのだと思うと、気が重かった。
「体壊すんじゃねェぞ。もう家の前でぶっ倒れたお前介抱すんのは御免だからなァ」
「……その節はお手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
「酒は飲ませても飲みすぎんな。グラスは空けるな。飲んだ酒の量と少なくも同程度の水飲めェ」
「承知しました」
実弥くんは少し目を細め、疑わしげな眼差しを向けてくる。
「お前、たまに俺に対してかしこまった言葉使うよなァ」
「えっ、そのようなことは――」
「ほらまた」
何年幼馴染やってんだと自分でも思うが、油断すると敬語になってしまうのは、魂に刻まれた記憶のせいなのか。特に、今のように指令っぽく言われると、つい反射で。
「まァいいけどよォ」
悪い気はしねえしなァ。そう言って、実弥くんは「そろそろ寝る」と欠伸をした。
カラカラと締まりゆく窓を見つめていると、実弥くんはその手をふと止め、
「腹出して寝るなよ?」
と、にやりと笑った。
彼に存在を認識され、対等に話をして、冗談なんか言い合ったりして。あの頃は、隅の方から盗み見ることしかできなかったのに。なんて贅沢な今。
「……あー」
明かりの消えた窓を見送り、ベッドにダイブして唸る。
胸の中ではち切れんばかりに膨らんだ思い。口に出せばいよいよ止められなくなる予感がして、ずっと言えずにいた思い。
枕に埋めていた顔を横に向け、手に握ったビスケットの袋を見つめながら、
「――すき、だぁ……」
ついに溢してしまったのは、魂に深く根付いた、前世からの淡い思い。
◇◇◇
おかしい。いつもならこの時間、部屋の明かりが点いているはずなのに。
実弥は隣家の二階窓を横目に見ながらシャツを脱ぎ、部屋着に袖を通す。いつもであれば実弥が帰宅するのを待ち構えていたかのように開く窓が、今夜は閉ざされたままで、明かりもなければ人の気配もない。
家の前で倒れてるんじゃないか。そう思い、窓から身を乗り出して隣家の玄関先を確認する。しかし、それらしい人影はない。
彼女がこの街に越してきたのは、小学校に上がる前のこと。両親に連れられて挨拶に来た彼女は、実弥の顔を見るなり丸い目をますます丸くして、悲鳴にも似た声を上げた。そして、確かこう口にした。「カゼバシラ」と。なんのことだか分からない。しかし母親の体の後ろに隠れてこちらを盗み見るようにしている姿には、なぜだか懐かしさを覚えた。
外から聞こえてきた笑い声に、実弥は目を開ける。いつの間にか眠りこけていたようだった。ベッドから身を起こし、窓の外を見る。玄関先には、彼女の姿があった。しかしそれだけではない。誰かと立ち話をしているのか、体を小さく揺らしながら笑っている。暗くてはっきりとは見えないが、背格好からしてあれは男だ。随分とガタイの良い男。
男、と視認した途端に体の内側がざわめき立った。会社の人間なのか。そういえば接待で忙しくなると言っていた。会食の帰りなのか。それにしてもこんな夜中に家の前まで付いて来るか普通。
さよなら、という声で、実弥は慌てて体を引っ込め、窓を閉めた。それからほどなくして、彼女の部屋が明るくなった。いつものように、窓をカラカラと開ける音。その後で、
「実弥くーん」
と、いつもより脱力した声。
「まだ起きてるー?」
その問いに答えるように窓から顔を覗かせてみれば、彼女は嬉しそうに笑った。ほろ酔いなのか、頬は赤く、目元は声と同様に力が入っていない。
「……随分と遅ェな」
「あー今日は久しぶりに同期たちと飲んできて。盛り上がっちゃってさ、明日も仕事なのにー」
やっちゃったよねえ、と言いながらペットボトルの水を飲む。
「バァカが。一人で帰って来れねェほど飲むんじゃねえ」
「え? 帰って来たよ、一人で」
「はァ?」
嘘ついてやがるのか。実弥は鋭い視線を向けるが、彼女はきょとんとした表情を浮かべたまま首を傾げている。
家の前で男と話してただろ、なんて言えない。監視していたのかと思われるのも癪だからだ。
実弥が押し黙っていると、彼女は察したのか「ああ」と納得したような声を発した。
「見てたの?」
「……別に。うるせェ声がするから、何事かと思って」
「駅前でばったり会っちゃって、帰る道が同じだからついでにって、家の前まで送ってもらったの」
「会社の男に?」
「え? ううん」
「じゃあ誰だよアイツ」
「誰って……」
彼女は眉根を寄せ、少し困惑したように言う。
「宇髄さんだよ。分からなかった?」
は、と間の抜けた声が漏れる。宇髄。彼は実弥の同僚で、彼女の大学の先輩でもある。
なんだそれ。途端に胸の中で立ち込めていたモヤのようなものが晴れた気がして、実弥はふうっと息を吐いた。そんな実弥に「ねえ」と彼女が声を掛ける。
「小さい頃、よく糸電話で話したよね」
「あ? あー、そんなこともあったなァ」
糸電話。あれは小学生の頃だったか。彼女は「コソコソ話をしたいから」と言って、紙コップで作った糸電話を窓から投げてよこした。それ以降、「内緒話をしたい」という時には決まってあの糸電話を出してきて、実弥に投げ渡すのだ。赤い糸で繋がれたそれを通して話すのが、実弥も嫌いではなかった。
「あの時使ってたやつ、まだあるの」
彼女は紙コップを二つ取り出すと、「構えて」と言った。その合図で、実弥は窓の外に腕を伸ばす。彼女が窓から投げたその紙コップは、赤い糸をしゅるしゅると伸ばしながら宙を舞う。
その時、ひときわ強い風が吹いた。紙コップは風に煽られ、実弥の手に届く前に庭木に引っ掛かってしまった。彼女は「ああっ」と嘆声を漏らし、木の枝に絡まった糸を外そうと窓から身を乗り出す。
「ッ、おい! 酔っ払いがンなことしてんじゃ――」
声が途切れる。彼女の体が、窓枠を飛び越えて落下していく。葉が擦れ、木枝が折れる音の後で、体が地面に叩きつけられる鈍い音――。途端に実弥は駆け出した。階段を転がるように下り、玄関扉を押し開き、庭へと回る。その間、呼吸を忘れていた。
「おい! なァおい!」
仰向けに倒れた彼女は、ぴくりとも動かない。頭を強く打っているはずだ。無理に抱き起こすのは良くない。実弥は携帯を取り出す。しかし気が動転しているのか、指先が震えてうまく動かせない。早く。早く助けを呼ばないと。
「……う、うぅ」
彼女がかすかに漏らした呻き声。実弥はその手を取り名前を呼ぶ。そうしながら、やっとの思いで携帯のキーを押し、救急車を手配する。その間、彼女は目を開けず、ぐったりとしたままだった。
「おい」
「――し、ら」
「ッ、しっかりしろォ!」
「か……ぜ、ばしら」
ツゥ、と額から垂れ落ちた血。実弥は彼女の額に手を当てる。
かぜばしら。かぜ、ばしら。カゼ――柱。風、柱……?
「――そういうことか」
まるで大波に飲まれるような感覚。頭のてっぺんから足先まで。この体の隅から隅を走っていく、あの頃の記憶。もう二度と味わいたくないほどの絶望、その中でもわずかに在った幸福。得たものより失くしたものの方が圧倒的に多い。失ったものの中に、彼女もいた。
そうだ。思い出した。コイツはあの時――俺の腕の中で、死んだんだ。
「お前はよォ、いっつも俺のことコソコソ見てたよなァ。ずっとああやって物陰に隠れてりゃァ良かったのに、なんであの時俺を庇った? あんな雑魚鬼……そもそも、お前がわざわざ身を呈して守るほどのヤツじゃねェだろ俺は」
よかった、ご無事ですね、風柱。額から血を流しながら、そんなことを言って力なく笑った。そうして、すうっと息を吸ったと思えば、それっきり呼吸を止めてしまった。
「なァ、おい。……もう、先に逝くなよ」
絞り出した声は、かすかに震えていた。
実弥は彼女の手を強く握り締めたまま、首を垂れる。そこでふと、傍らに落ちた紙コップに気づく。そこには「さねみ」と幼い文字が書かれている。もう一つのコップには、彼女の名前が。
小さい頃、互いの部屋の窓からこの紙コップを繋いで、くだらない話ばかりをして笑い合った。その中でいつか、彼女はこんなことを言っていた。
――あのねぇ、さねみくんはね、昔とっても強かったんだぁ。それでわたしをね、たすけてくれたの。だから、今度はわたしが、さねみくんにゴオンガエシをしようと思うの。
「……何が、ご恩返しだ」
そんなの求めちゃいない。それに、助けたってなんだ。助けられなかっただろ。だからお前は死んだんだろう。
「バカ野郎」
ぽつりと吐いた、その時――。握り締めた彼女の手が、ぴくりと動いたのだ。
実弥は目を見開き、彼女の名前を呼ぶ。瞼をゆっくりと押し上げた彼女は、ぱちぱちと瞬きを打った。
「あっ、ごめん寝てた」
「……は?」
「うわぁ、私あの窓から落っこちたんだよね? いやあ、石頭で良かったあ。……えっ?」
彼女は寝ぼけ眼で実弥の顔を覗き込むと、途端にギョッと目を見開いた。
「な、泣いてるの?」
「泣いてねえ!」
実弥は腕で乱雑に顔を拭いながら、なんなんだよお前は、と苛立ちと安堵の入り混じった声を上げる。
「こんな糸電話ごときで死にかかってんじゃねェよ」
「糸電話……あっ、そうだ」
地面に転がる紙コップを手に取ると、彼女は片方を実弥に差し出す。
「私ね、今酔っ払ってるし頭も打っててもう訳分かんないから、この勢いで言っちゃおうと思います」
耳につけて、と合図をされ、こんな近距離で糸電話なんかする必要あるかと思いつつ、実弥は渋々と紙コップを耳に当てる。
「あのね、実弥くん」
弛む赤い糸の先には、口元に当てた紙コップを両手で包み、目の縁を薄紅に染める彼女の顔。よく見れば、その指先はかすかに震えていた。
「……好きです」
風に揺らされながら届いたのは、少しくぐもった声。
ぽろぽろと涙を流し始めた彼女に、実弥は「どっか痛むのか」と尋ねる。自分でも見当違いのことを言っているとは分かっていた。案の定、彼女は首を横に振り、そうして答える。
「いいのかなって。私なんかが、好きだなんて、そんなこと言って」
実弥はハッと短く笑った。何を今さら、と思ったのだ。
コイツはまたあの頃みたいに、物陰に隠れながらこっちを見続けるつもりなのか。もう無理だろ、諦めろよ。今世では、窓越しに夜な夜な語り合う仲になっちまったんだから。それに本心を知った今、もう以前のようには戻れないだろう。
「言われたくねェよ。お前からしか、そんなこと」
知ったのは彼女の本心だけではない。胸の内側で育っていた感情の名を知った実弥は、遠くの方で聴こえる救急車のサイレンの音に、ふっと笑う。
そうして、いまだに紙コップを持つ彼女の背に、そっと腕を回す。泣き止ませるつもりで抱き寄せたのだが、彼女はいっそう激しく泣き始めた。うああん、と声を上げて泣く姿が、まるで幼子のようだった。
実弥はまた、見当違いだと分かりつつも「どっか痛むのか」と聞く。すると彼女は首を横に振り、答えた。
「たまらなくって、嬉しくって……ね、ねえ、これって夢じゃないよね? ねえ」
縋るように抱きついてきた彼女に、実弥は穏やかな声音で返す。
「夢なんかじゃねェよ」
「ほんと?」
「お前に嘘なんざ吐かねえ。ったくよォ、いいからもう喚くな。頭に障るだろォが」
彼女は泣きながらも「はい」と歯切れ良く答える。そうして、笑った。実弥の腕の中で、心底嬉しそうに。
すうっと息を吸って、ゆっくり深く吐く。そんな呼吸を続ける彼女に、実弥もまた、安堵と喜びを抱き合わせた笑みを返すのだった。
(2024.05.16)
*如月さんからのリクエスト
「キメ学軸。前世で一般隊士だったが、現在は隣の幼なじみ。前世の記憶がある夢主が、記憶のない実弥に前世同様に片思いとなる。実弥は次第に前世の記憶を取り戻すと同時に、夢主への想いに気づくお話」
ありがとうございました!
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