父の転勤で春からこの地域に越してきた私は、中学の入学式の朝、極度の緊張からお腹を壊してしまった。公立中学に通う生徒なんて、大半が近隣の小学校からの持ち上がりだ。気心知れた者同士がキャッキャする様子、あの子誰だという好奇の目で見られる様子、すでに完成されたムードの中で自分だけが浮いている様子が容易に想像できたから、腸が捩れたのだ。
シクシクと痛むお腹を抱えたまま入学式に参加し、教室に入ってからも早く帰りたい気持ちを押し殺しながら、なるべく目立たないように俯いて座っていた。すると、不意に声を掛けられたのだ。
「おい、動くな」
いきなりそう言われて動かない方がおかしい。私はビクッと肩を上げて、声の方を向いた。後ろの席に座っていた男子が、私の腰の辺りを見つめたまま、
「だから動くなって」
と苛立ちを滲ませた。
首を後ろに捻ったまま、私は言われるがままに静止した。すると彼はスマホをスワイプするかのように、指先をひゅいっと横に振った。途端に、それまでしぶとく痛んでいたお腹が、嘘のように軽くなった。
「……魔法?」
その言葉がおかしかったのか、それとも目を丸める私の顔が変だったのか、彼は口元を少し緩めた。
「蜘蛛の糸」
「え?」
「くっ付いてた。だから払った」
彼は言葉少なにそう言った。蜘蛛の糸。そんなのがくっ付くような道は通ってないはずなんだけどな。不思議に思いつつも、腹痛が治れば心も晴れやかになった。上向いた気持ちのままに名乗り、
「名前、なんていうの?」
と尋ねれば、彼はぽそりと答えた。
「伏黒」
それが、伏黒くんとの出会いだった。
きみは魔法
伏黒くんとは三年間同じクラスだった。クラス替えのたびに教室で顔を合わせてはお互いに「あ」と目を見開く。二年の時は「一緒なんだね」で、三年の時には「また一緒だね」なんて言葉を交わしたっけ。
三年の時には、こんなことがあった。その日は朝から雨が降り続け、放課後には土砂降りになった。雨足が弱まってから帰ろうと校舎内で時間を潰す生徒が多いなか、習い事がありどうしてもすぐに帰らないといけなかった私は、傘を握り締めて外へ出た。
グラウンド脇の坂道を下って校門へと早足で向かっていた時、視界の隅に黒い影が映った。ふと目を向けてみる。伏黒くんだった。彼はグラウンドの片隅で、傘も差さずに佇んでいた。
伏黒くんだと気付いた途端、私は足が汚れるのも構わず彼に駆け寄っていた。そうして、私よりも少し背の高い伏黒くんを傘の下に入れる。すると、それまで虚ろだった伏黒くんの目がぱちりと瞬きを打った。
「どうしちゃったの?」
息を切らしながら尋ねると、彼は自分の手を見おろしながら答えた。
「こんだけ雨が強けりゃ、洗い流されるかなって」
「……何が?」
俯き加減だった伏黒くんは、目だけを私に向けて言った。
「穢れが」
ケガレ。そう言った伏黒くんは、再び目を伏せる。長いまつ毛の先で、雨粒が微かな光を放っていた。
「伏黒くんは穢れてなんかない」
伏黒くんは私の言葉に、ふっと自嘲的に笑った。そうして、一歩後ろに下がって傘から出ようとした。私は咄嗟に手を伸ばし、伏黒くんの腕を掴む。
「嘘じゃないよ」
彼は眉根を寄せて、まるで信じられないものを見るような目で私を見た。それに構わず、私は伏黒くんを傘の下に無理やり入れて、自分でも驚くほど頑なな口調で言った。
「傘がないなら一緒に帰ろ。これ以上濡れたら死んじゃう」
今の伏黒くんは、それこそ頭の先からつま先まで濡れて、髪も服も体に張り付いている。このまま放っておくなんて、できっこなかった。
雨水を滴らせながら、伏黒くんはハッと息を吐く。
「大袈裟。そんなことで死ぬかよ」
そう言って、笑ってた。
伏黒くんは、中学を卒業したら東京に引っ越すと言っていた。進学先は都内の高校で、学校名を聞いてもはぐらかされた。
卒業式の日、私は伏黒くんにさよならを伝えて、卒業証書の入った筒をバトンのようにくるくる回しながら帰っていた。しかしガードレールに蜘蛛の巣が張っているのを見て、はたと気づく。伏黒くんに連絡先を聞きそびれてしまった、と。慌てて学校に戻ったけれど、伏黒くんの姿はもうどこにもなかった。
高校に上がって、最初の夏が終わる頃。日直の仕事があるため、その日は朝早くに家を出た。
視界が白く霞むほどの土砂降りの中、靴をべしゃべしゃに濡らしながら校門をくぐる。駐車場に見慣れない黒塗りの車が停まっていた。運転席では眼鏡のスーツ男性がパソコンを広げながら電話をしていた。なんだろう、誰だろう。そんなことを思いながら、校舎の方へと歩き続ける。校舎までの道中にあるプールには目を向けないことにしている。夏休み中に生徒がプールで溺れる事故が相次ぎ、悪い霊でも棲みついているのではないかと噂になっているからだ。西側校舎四階も見ないふりをしている。窓に人型の影が浮かび上がると言われているから。
ただまっすぐに昇降口を目指していると、雨音に紛れてアオンという犬の鳴き声が聞こえた気がして、ふと立ち止まる。グラウンドの方からだった。白い雨の中、目を凝らしてグラウンドを見てみると、その片隅で人影が揺れていた。あれは、あの後ろ姿は間違いない。きっともう会うことはないと諦めていた――。
「伏黒くん!」
雨水が跳ね返ってくるのも構わず駆け寄り、その勢いのままに名前を呼ぶ。すると、透明の傘を差した伏黒くんは、ゆっくりとこちらを振り向いた。黒っぽい制服に、渦巻きのようなボタン。たった数カ月前に別れたばかりなのに、身長はあの時よりもずっと伸びたような気がする。
「あの、ここ私の学校で……」
「知ってる。だから俺が来た」
俺が来た、って? 転校してきた、というわけではなさそうだし。もしかすると部活の他校試合で来たのかな。
「もう大丈夫だから」
伏黒くんの言葉の意味を理解できずにいると、彼はそう言って片手をポケットに突っ込み、透明傘越しに雨空を見上げた。その一連の言動に、これ以上深く突っ込んでくれるな、という雰囲気を感じ取り、私は別の話題を振った。
「ねえ、犬見なかった? 鳴き声が聞こえた気がして」
迷い犬だったら保護してあげないと。こんな土砂降りだし。そう伝えると、伏黒くんは目を見開いた。しかしすぐに顔を逸らして「気のせいだろ」と言った。そう言われれば、確かにそんな気もしてきた。大雨の中を犬が元気に吠えながら走り回るなんて、そんなのないか。
伏黒くんは少し落ち着かない様子で、傘をくるりと回した。
「ちゃんと傘、差してるんだね」
中三の時、伏黒くんは土砂降りの日に傘も差さずグラウンドに突っ立っていた。穢れを洗い流せるかと思って、と。彼もその時のことを思い出したのか、決まりが悪そうに唇を結ぶ。するとその頬に、一筋の光が流れるように走った。伏黒くんも驚いたのか、頬に手を当てて、指に付いた水滴を訝しげに見た。
「あっ、穴が」
伏黒くんの差している傘をよく見ると、てっぺん近くに穴が開いていて、そこから雨水がぽたぽたと滴り落ちていた。迷わず自分の傘を差し出せば、伏黒くんは「いい」と首を横に振った。
「もう帰るから」
「でも濡れちゃうよ」
「いや、大丈夫だ。すぐそこに迎えの車が来てる」
「じゃあそこまで一緒に行くよ」
そう言って、私は伏黒くんを半ば無理やり自分の傘の中に押し込める。
「……これ以上濡れたら死んじゃう、って?」
「そうそう」
伏黒くんは「大袈裟なヤツ」と言いながら、私の手から傘を取る。
「背伸びすんの疲れるだろ」
背の高い伏黒くんの頭上まで傘を掲げるためにつま先立ちしていたことなんて、容易にバレてしまった。伏黒くんは自分の左肩を濡らしながら、私に傘を差してくれた。ああ、もっと大きな傘を持ってくればよかった。
「ねえ伏黒くん。連絡先、聞いてもいいかな」
卒業式の時、聞きそびれちゃって。もう会えないって諦めてたんだけど、会えたから。だから。
「……だめ?」
沈黙に耐えきれず、恐る恐る伏黒くんの反応をうかがう。彼は口元に手を当てていた。その指の隙間から「いや」と言葉が漏れてきた。
「聞くの遅すぎるだろ」
伏黒くんは、そう言ってポケットからスマホを取り出す。そうして、伏黒くんが画面ロックを解除するためにスワイプした時だった。
「……魔法?」
「は?」
「だって、伏黒くんが指ひゅいってした途端に雨が……」
あんなに大降りだった雨が、ぴたりと止んだのだ。咄嗟に、中学の入学式の日、伏黒くんが私に向かって指を振った途端に腹痛が治った時のことを思い出した。
「伏黒くん、また魔法使った?」
そう言い終えた瞬間に再び雨がざあざあと降り始めたので、私は傘から顔を出して空を見上げた。さっきのは、ちょうど雨雲の切れ間だったようだ。魔法、だなんて恥ずかしい。雨に顔面を打たれながら悶えていると、伏黒くんが「何やってんだ」と呆れたように私の顔と空の間に傘を割り込ませた。
「ほら連絡先。お前のも」
そうでした、と慌ててカバンに手を突っ込んでスマホを探す私に、伏黒くんは堪えきれなくなったのか、プハッと息を漏らして笑った。それはきっとこの先、何年経っても、何があったとしても忘れられないような、澄んだ笑顔だった。
その後、伏黒くんとは連絡を取り合ったり遊びに行ったりすることが増えた。
そして、こんなことを言われた。「あの頃、色々と気落ちしたり気に病んだりしていたあれこれを、お前が一瞬でも忘れさせてくれた。だから、お前こそ魔法使いだろ」と。伏黒くんの口から魔法使いというワードが出るなんて予想外すぎて、私は涙が出るほど笑った。そんな私に、伏黒くんは「笑うな」と声を怒らせながらも、最後には一緒になって笑ってた。
――今日は十二月二十四日、クリスマスイブ。空から降るのは白い雨じゃなくて、白い雪。
ねえ、伏黒くん。きみは今、どうしてる?
(2024.04.14)
キーワード:何年経っても、土砂降り、嘘じゃない
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