「今年の一年は地味なヤツばっかだな」
一年の教室にズカズカと踏み込んできて、私たちをまるで動物園の動物を見るような目で観察したのち、五条先輩はそう言った。
「特にお前とお前」
不意に指をビシッと向けられて驚いたのか、伊地知くんは「ひっ」と震える声を漏らした。私はそんな伊地知くんの隣で、向けられた指に目を細める。
「お前ら地味すぎるから、今日からあだ名はジミオとジミコな」
教室がしんと静まりかえる。五条先輩は私を見ながら「気に入った?」と片方の口角をゆるっと上げた。
「いえ全く。というか、失礼だと思います」
まさか地味な私が言い返すとは思わなかったのだろう。五条先輩のサングラスの向こうの瞳が丸まったのを感じた。
「いきなりやって来てそんなひどいあだ名つけるなんて、あなた何様なんですか」
そう言うと、先輩はポケットに手を突っ込んで私の方へと近づいてくる。
「はあ? ジミンコのくせに突っかかってくんなよな」
「ミジンコみたいに言わないでください」
「何遍でも言ってやるよ。ジーミンコ、ジーミンコ」
「五条先輩がものすごい呪術師だとしても、そういう言動はクズのやることだと思います」
屈しない私に腹が立ったのか、五条先輩はサングラスを押し上げて「んだと?」と声を低めた。伊地知くんが近寄って来て、「あの、あの……」とアワアワしている。五条先輩が「ジミオは引っ込んでろ」と言えば、伊地知くんは眉を垂らしながら私を見た。
「悟」
その声に、教室中の視線が廊下の方へと向けられる。
「一年の教室で何をイキリ倒してるんだい」
夏油先輩だ。そう言いながらこちらへ近づいてくると、対峙する五条先輩と私に視線を向ける。
「このド地味女がナマ言うから躾けてやろうかと」
「どうせ悟が余計なことを言ったんだろう。それに、地味? どこが?」
夏油先輩にまじまじと見つめられて、私はなんだか居心地が悪くて視線を右に左に泳がせた。
「かわいい子じゃないか」
フッと微笑を浮かべながらそう言われたら、もう視線を泳がせることも瞬きすることも忘れて、ただ心臓をばくばくと鳴らせるしかなかった。
「はあ? 傑、オマエ目ぇ大丈夫かよ」
でも、真正面から地味だと言ってくる五条先輩より、女子にさらっと「かわいい」を言える夏油先輩の方が、なんだかちょっと、怖かった。
その日以来、私は五条先輩にしつこく絡まれるようになった。出張で不在がちだけれど、高専に帰って来たら必ず目の前に現れる。教室にいても、学食にいても、校庭にいても、寮の部屋にいても。所構わず「おいジミコ」と何かしら憎まれ口を叩いてくるのだった。
今日のつづきで会いましょう
「先輩は呪術師としては特級ですけど、人間としては超低級ですね」
ある時、自販機前で絡まれた際にそう言ったら、五条先輩は一瞬ムッとした表情を見せた。あ、言いすぎたか。そう思って発言を撤回しようとした途端、五条先輩は声を出して笑い始めた。
「お前ってほんと面白ぇな」
てっきり怒るかと思ったのに。この人、もしかすると出張続きで疲弊して感情のコントロールができなくなったのかもしれない。涙目になりながら笑う五条先輩に、私はちょっとだけ同情した。
「週末なんか予定あんの?」
「え? どうしてですか」
「別にー? 聞いてみただけ」
なんだそれ。そう思いつつ、頭の中で週末の予定を思い返す。
「あ、伊地知くんと泊まりがけの遠征任務です」
新入生はみな、実地訓練も兼ねた遠征に駆り出されるのが習わしらしく、私も例に漏れず伊地知くんとペアを組み、今週末は東北の方へと任務に出ることになっていた。
「おーいいじゃん。ジミコとジミオの七日間〜」
「某デパートのセール期間みたいな文言やめてください。七日も行かないし」
そう言いながら自販機に小銭を入れて炭酸飲料のボタンを押せば、五条先輩が腰を屈めてペットボトルを取り出し、そのまま飲み始めてしまった。
「ちょっと! それ私が買ったソーダ――」
「お土産」
「……は?」
「忘れたらデコピンな。もしくは間違って赫出しちゃうかも」
にやりと笑んだ五条先輩は、ほい、と半分ほど飲んだソーダを突き返してくる。
「赫って……死んでしまうので絶対に間違わないでください」
「なら絶対買ってこいよ、お土産」
受け取れとしつこく押し付けられるので渋々ソーダを手に取る。自分の買った飲み物を横取りされた上にお土産までねだられているにも関わらず、
「……おいしそうなお菓子があれば」
と渋々ながら了承する私は、我ながら器が大きいと思う。五条先輩はニシシと歯を見せて悪ガキっぽく笑った。いや本当に悪ガキなんだけれどもこの人は。その無邪気な笑顔に、不本意ながら顔が熱くなるのを感じて、私は五条先輩に半分持って行かれたソーダを煽り飲んだ。
「おっ、間接チュー」
そう言われてこの行為がその間接チューとやらに該当するのだと気づき、ブハァッとソーダを吐き出してしまう。五条先輩は「きったね」と言いつつ、
「ジミコのくせにやること大胆〜」
と、また屈託なく笑った。本当に、この人といると調子が狂うからいけない。
◇◇◇
東北での遠征任務を終えた私は、東京駅から高専までの車中では泥のように眠っていて、補助監督の「着きましたよ」の声掛けにもなかなか目覚めなかったらしい。
眠た目を擦りつつ寮の部屋へと向かっていると、休憩スペースのベンチに腰掛ける夏油先輩を見かけた。ちょうど良かった、と思った。先輩にお土産を買っていたのだ。
「夏油先輩」
そう声を掛ければ、先輩は俯き加減だった顔を持ち上げた。
「ああ、おかえり。帰ってきたんだね。遠征はどうだった?」
「万事うまくいきました。あ、でも任務中に伊地知くんが過呼吸になって、それには焦りましたけど……」
それは大変だったね、と夏油先輩は控えめに笑う。その目元にはうっすらと影が落ちていた。
片手に持っていた紙袋を「これ……」と差し出せば、先輩は首を傾げながら受け取り、中を覗き込む。
「……鉄瓶?」
「はい、南部鉄器の。これでお湯を沸かして飲むと、水に鉄分が入って体にいいらしいです」
先輩は私を見上げ、目を細める。
「私が貧血気味に見えた?」
「えっ、いえ、あ、そういうんじゃ……お水もまろやかになっておいしいらしくて、夏油先輩よくお茶淹れてたので、いいかなって」
慌ててそう返せば、先輩は、
「ありがとう。よく見てくれてるね」
と、表情をゆるめた。
図星だった。近ごろの夏油先輩は、顔色が悪かった。食事もまともに摂れないほど忙しいのか、日ごとに痩せていっているようにも思える。伊地知くんとお土産を選んでいるとき、どうやら彼も私と同じことを感じていたらしく、「夏油先輩には体に良さそうなものを差し入れたい」と言っていた。夏油先輩は、後輩である私たちにいつも親切に接してくれる。特級術師なのに、決して上から物を言うことなく、同じ目線の高さまで下りてきてくれる。そんな夏油先輩に、少しでも元気になってもらいたい。だから伊地知くんと相談して、この南部鉄器をお土産に買って行こうと決めたのだ。
「そっちは悟に?」
不意にそう尋ねられて、私は肩をびくんと上げる。
「あっ、……はい」
夏油先輩の言う通り、もう片方の手に提げていた紙袋には、五条先輩へのお土産が入っている。何を買って行っても文句を言われそうだったので、あまり思考を凝らすと骨折り損になりそうだと思い、とりあえず甘そうなお菓子をいくつか適当に買った。適当に、とは言いつつ、一応五条先輩が好みそうなものを選んだつもりだ。
「お土産を買ってこないとデコピン、もしくは赫を出すぞと脅されまして……」
「赫はマズいだろう」
「あの人、放つ寸前ぐらいまでは本当にやりそうなので」
夏油先輩は、ハハッと笑い声を漏らしつつ「確かに」と軽く頷いた。
「今度一緒に飲まない? お茶」
南部鉄器の入った紙袋を指しながら、夏油先輩は微笑む。
「はい、ぜひ」
◇◇◇
確かにあの日「今度一緒にお茶を飲まない?」と言われたけれど、てっきり社交辞令かと思ってた。
夏油先輩に呼ばれて部屋に上がる瞬間、なぜか五条先輩のことが頭に浮かび、どこか後ろめたい気持ちになった。
鉄瓶を傾ける夏油先輩の長い指を見ながら、少し後悔した。地味な私でも分かる。夜、思春期の男女が密室で二人きりになると、どんなことが起こり得るのか。でもそれは可能性の話であって、盛りの付いた男女の話であって。夏油先輩のような紳士的な先輩が、私のような色気のない後輩を相手に欲情するわけがない。
「どうぞ」と勧められるままにお茶を飲む。夏油先輩も湯呑みに口を付けた。「鉄分が体に染み渡っていく感じがするね」なんて冗談を言って。
あ、良かった。本当にお茶を飲むだけだ。それで、取り留めのない話をして、「また明日」と別れるんだ。
――そう思った瞬間、目の前に影が落ちた。頬をくすぐる黒髪。顎に添えられた長い指。夏油先輩の唇が、重なる。
「……っ!」
一瞬、脳が麻痺したようだった。けれどすぐに動きを取り戻し、先輩の体を押し返そうと胸を叩いた。ぴくりともしない。唇同士が溶け合う。先輩の舌がどんどんと口内へ侵食していく。
「ッ、」
先輩の舌先を、噛んでしまった。だって、そうするしかなかった。体を押しても無意味だったから。
とはいえ噛む力が強すぎたのか、夏油先輩は声を漏らして体を離した。けれどすぐにいつもの涼やかな表情に戻ると、何かを味わうように口を動かす。
「鉄の味」
べっ、と覗かせた舌先には歯形が付き、そこからじんわりと赤い血が滲み出ていた。
「ご、ごめんなさ――」
「いいけど、次また噛まれたら舌先が千切れるから、今度は大人しくしててくれる?」
今度は、って。困惑する私を宥めるように淡く笑んだ夏油先輩は、再び体を寄せてくる。その片手が私の耳に触れ、顔を傾けながら切れ長の目を伏せていく。また、唇が触れ合う。――その時。
「傑ー俺の桃鉄こっちの部屋に――」
突如として開かれたドアの向こうに、今一番会いたくなかったあの人が目を丸くして突っ立っていた。
五条先輩は何も言わなかった。言えなかった、という表現の方が近いのかもしれない。顔をふいと背けて、ドアを開け放したまま立ち去った。
「追いかけてあげて」
消えてしまった五条先輩の残像を見ていると、夏油先輩の静かな声が鼓膜を揺らした。顔はドアの方へ向けたまま、視線だけ横に逸らして見れば、夏油先輩は伏し目がちに笑んでいた。どこか自嘲的な笑みだった。
「夏油先輩は、どうして私に……」
キス、したんですか。
そうはっきりと聞くことは躊躇われて、口ごもってしまう。夏油先輩のことだから、言葉の先は察しがついたのだと思う。弁明する気配も、何か甘い言葉を紡ぐ気配もなく、先輩はただ静かに言った。
「追いかけてあげて。悟は、傷つくことに慣れていないんだ」
含みのある言い方だと思った。でもその先は詮索してはいけない気がして、私は言われた通り従順に立ち上がり、部屋を出るため夏油先輩に背を向けた。
「あと、悟に伝えてくれるかい」
振り向くと、先輩は私を見ていた。いや、違う。私を通して何か別のものを見ている。そんな、おぼろげな目をしていた。
「謝らないよ、って」
その一言で、あのキスには、私に向けられた特別な意味はないんだと察した。夏油先輩はきっと、五条先輩が部屋を訪れることを知ってた。そのタイミングで、私にキスをした。
夏油先輩は言った。悟は傷つくことに慣れてない、と。それはつまり、夏油先輩と私がキスをしたから五条先輩が傷ついた、ということになる。
「――先輩は、あえて五条先輩が傷つくようなことをしたんですか?」
それまでおぼろげだった夏油先輩の目が、今度ははっきりと私に向けられた。
「慣れておいてもらわないといけないからね」
「……傷つくことに?」
先輩は鉄瓶に手を伸ばす。湯呑みにお茶を注ぎ入れ、ふう、と息を吹きかける。立ち昇っていた湯気は、その吐息に掻き消された。
そうして夏油先輩は、ゆったりとした口調で言った。
「裏切られて、傷つくことに」
◇◇◇
五条先輩は校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下にいた。
屋外にあるそこは、雨が降ると地面のコンクリートが水浸しになる。伊地知くんはそこで二度ほど転んだことがある。大雨の日の体育館移動では、みんながヒィヒィ言って駆け足で廊下を渡るなか、無下限というバリアがある五条先輩は悠然と歩いて「あーずぶ濡れ。あーかわいそ」と私たちを憐れむのがお決まりだった。
「傑は?」
今夜は小雨だった。じわりと濡れた廊下を歩いて近づけば、五条先輩はこちらを振り向くことなくそう聞いた。
「私だけです」
「バカかよ。それは気配で分かってる。……傑、なんか言ってた?」
謝らないよ。夏油先輩はそう伝えてくれと言っていた。追いかけてあげてと言われて従順に部屋を出た私だけれど、伝言の内容には従えなかった。
「"一時の気の迷いだったんだ、ごめんね"って」
それがこの場にふさわしい言葉だったのかは分からない。でも、謝らないという言葉よりも、五条先輩にとってはダメージが少ないかと思った。
五条先輩はようやくこちらを振り返った。押し上げられたサングラスからは、訝しげに細められた瞳が現れる。
「なに。じゃあお前は、一時の気の迷いでキスされたわけ?」
「……そうですね」
「お前って、傑のことそういう目で見てんの?」
頭を横に振る私に、五条先輩はハンッと鼻で笑った。
「じゃあジミコは被害者じゃん。セクハラで訴えれば? そしたら傑、退学処分になったりして〜」
茶化すように言いつつも、声には苛立ちの色が滲んでいたし、その目も笑ってはいなかった。
「害を被ったとは思ってません。ファーストキスを奪われたっていうんなら別ですけど」
「……は? したことあったのかよ」
「はい。中学の頃、当時付き合っていた人と」
淀みなく答えた私に、五条先輩は鳩が豆鉄砲を食らったように唖然としていた。
そんな先輩を見ながら、思った。私と夏油先輩がキスをすると、五条先輩が傷つく。それはつまり――?
「五条先輩は私のこと、どういう目で見てるんですか?」
五条先輩は、もともと大きな目をさらに見開いた。それ以上開くと瞼の端が切れてしまいそう。
先輩はサングラスをかけ直し、私の質問をはぐらかすように舌打ちする。
「ていうかキスしたことあるとか、ジミコのくせに色気づいてんじゃねーよムカつく」
「ムカつくってなんですか。あ、もしかして羨ましいとか?」
「あ?」
「五条先輩ってキスしたことなかったりします?」
先輩の口の端がぴくりと痙攣したのを、私は見逃さなかった。
「……馬鹿にしやがって」
「あ、あるんですか? ファーストキスっていつだったんですか?」
五条先輩は唸る。いつも冷やかしてくる仕返しに、とばかりに追及していると、先輩はポケットに両手を突っ込んだ状態でツカツカと近寄ってきた。
「ねえ先輩ってば。初めてのキスは――」
それは、一瞬のことだった。
先輩が腰を屈めたかと思えば、口元でチュッ、と控えめなリップ音が響いた。
ゆっくりと顔を離した五条先輩は、サングラスから上目を覗かせて私を見つめた。
「今」
真っ直ぐに向けられた青い瞳。いつもは茶化すようなことばかりしてくる五条先輩が、戯言の一つも吐かず、ただひたすらに視線を向けてくる。
「……驚きました」
「何が」
「五条先輩は、そういう目で私を見てたんですね」
「……だったら何? セクハラで訴えるってか?」
「いえ。五条先輩が今よりもっと大物になったときに、ネタとして冥さんあたりに売ります。五条悟は色気もクソもない地味な後輩にファーストキスを捧げた過去がある、って」
「そんなショッボいネタにあの守銭奴の冥さんが金出すわけねーだろバァカ。ていうか二度とファーストキスでイジんな赫出すぞ」
息継ぎもほどほどに早口で言い上げたあたりに、五条先輩の動揺が伺える。
「……笑うなって」
堪え切れずに笑ってしまった私に、五条先輩は決まりが悪そうに首を掻く。
それでも笑い続ける私に、先輩は「黙れ」とばかりにまたキスをした。触れ合うだけのぎこちないキス。先輩の背に腕を回せば、先輩も強く私を抱き寄せた。ドクン、ドクン、と鼓動が聴こえる。これが五条先輩の心臓の音なんだ。
「……もしかして緊張してます?」
「してない」
「でも先輩の心臓、うるさいです」
「無駄口ばっか叩くお前の方がうるさい」
いつも無下限を張っている先輩は、きっと雨に濡れたこともない。けれど今そのバリアは解かれ、渡り廊下にできた水溜りでズボンの裾を濡らしている。
先輩を濡らす水溜りに映るのは、抱き合う私たち。それを見おろしながら、夏油先輩の言葉を思い返す。
――悟は、傷つくことに慣れてないんだ。慣れておいてもらわないといけないからね。裏切られて、傷つくことに。
あれはまるで、傷つけることを前提とした言い方だった。もっと言えば、裏切ることを予告している、とも取れる。
でもまさか、そんな。夏油先輩が五条先輩を裏切るなんて、あり得ない。起こり得たとしてもゲームでの話だろう。ああ、そうだ、ゲームの話だ。ポーカーとか人狼とか、そういう類の。――今は、そう思うことにしよう。
「私、五条先輩の味方でいますよ」
腕の中で不意に口を開いた私に、五条先輩は「何の話?」と語尾を上げた。
「お子ちゃますぎて腹立つこともありますけど、危なっかしくて放っておけないんで。こう見えて私、アネゴ気質だねってよく言われるんで」
それに、夏油先輩の「追いかけてあげて」には、多分そういう意味も込められている。悟の味方でいてあげて。そばにいてあげて。――都合の良い拡大解釈なのかもしれない。でも今は、そう思うことにする。
「訳分かんねーし謎に上から目線でちょっとムカつくけど、まあジミコがそうしたいなら好きにすれば」
私を抱き締めたままの五条先輩は、私の頭に顎を乗せて、
「あー傑の部屋に桃鉄取りに行かねぇと」
と気だるそうに言う。
「明日でいいんじゃないですか?」
そう返せば、「それもそうだな」と頷く。その振動で、私の頭まで縦に揺れた。
「……眠くなってきた。お前、催眠術かなんか使ってる?」
「もしそれが使えたとして、五条悟に通用するわけないじゃないですか」
「通用するんだなこれな。お前みたいな弱小相手だと、油断して」
余計な一言ばかり挟んでくる五条先輩は重たげな瞬きをしていて、本当に眠たそうにしていた。こんな隙だらけの五条先輩を見るのは初めてだ。なんだか、見てはいけないものを見てしまった気さえする。
私たちは渡り廊下の水溜りを踏み歩きながら、学生寮へ向かった。男子寮と女子寮の分かれ道で立ち止まり、繋いでいた手を離そうとすると、五条先輩は私の手首を掴み、くいっと体を引き寄せた。
「また明日な、ジミコ」
おでこに落とされた、柔らかな唇の感触とぬくもり。
穏やかに笑んだ五条先輩は、月明かりが照らす廊下を進んでいく。その後ろ姿を見送っていると、さっきまで静かだったはずの心臓が、今ごろになって高鳴り始めた。この展開に、心と体が付いて行けていないんだ。明日になれば、少しは整理がついているだろうか。――夢じゃ、ないよね。
「……また、明日」
ぽそりと小さく呟いたはずなのに、廊下の向こうからは「おう」と返ってきた。
夢じゃなければ、明日も五条先輩は私と伊地知くんをジミコとジミオと呼んで冷やかしつつ、二人きりになった途端に手を握ったり肩を寄せたりしてくるんだろうか。
夢じゃなければ、夏油先輩は、少し気まずさを残しつつ接する私に「お茶おいしかったね」なんて普段通りに話しかけてくるんだろうか。
今までは考えたこともなかった。何気なく迎えていた"明日"が、今日とはどう違う一日になるのか、なんて。
明るい未来が約束された世界ではないけれど、明日は多分、きっと、今日よりちょっとマシになる。――今だけは、そう思うことにする。
(2024.03.24)
「また明日」が通じる日々が、ずっと続けば良かったのに。
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