またイヤリングを片方失くした。いつもそう、片っぽだけ落としてしまう。いっそ両方とも失くなれば諦めがつくのに。
 一番のお気に入りだった、陶器でできた藍色の小花モチーフのイヤリングを失くした時、ショックのあまり一晩寝込んだ。おまけに、失くしたのが彼氏との初デートの日だったから、帰宅して片耳が虚しくなっていることに気づいた時、片割れのイヤリングが二人の今後を暗示するように思えて不安になった。
 そんな私に、硝子ちゃんは言った。「もうピアス開けたらいいじゃん」と。痛みに弱い私は、体に穴を開けるという発想がなかったから、ピアスについて今まで検討すらしていなかったけれど、これ以上大事な物を中途半端に失くすのは嫌だったので、ついに決心した。開けよう、ピアスを――と。

ピアス


 シャワールームから出てきた夏油くんを捕まえて自室に引っ張り込むと、彼は「大胆だな」と茶化すように言った。「この間のデートの時はしおらしかったのに」とも。
 夏油くんと私はこの春から付き合い始めてまだ日が浅い。モテる夏油くんと両想いになれるだなんて夢にも思わなかったから、いまだに彼が自分の恋人であるという事実を信じきれずにいる。

「え? 穴を開けろって? 私が?」

 ベッドに腰掛けた夏油くんは、押し付けられたピアッサーをまじまじと見つめながら素っ頓狂な声を漏らした。

「そう。もうイヤリングの片っぽだけ失くすのはうんざりだからさ」
「失くしたって、あの花のやつかい?」

 うんと頷けば、夏油くんは「それは残念だったね」と、私の気持ちに合わせるように声音を落とした。

「ピアスなら失くしづらいかなって。夏油くんみたいなおっきなピアスなら尚更」
「君にこういうのは合わないと思うけどな」
「……こういうのって、ピアスを開けるのが?」
「いやいや。こういう大きいピアスが、ってこと。もっと小ぶりなのがいいよ。その方が雰囲気に合ってる」

 夏油くんはそう言った。そこでふと、私は先日会った友達のことを思い出した。

「この間、中学時代の友達に会ったんだけどね。その子、前はガーリー系のファッションだったのに、久しぶりに会ったらマニッシュ系になってて。服の感じ変わったねって言ったら、彼氏の趣味なの、って嬉しそうに笑ってたんだよね。人によっては、彼氏に服の好みを押し付けられてかわいそう、とか、彼氏に合わせすぎてて痛々しい、とか思うんだろうけど、私は……全身マーキングされてるみたいで羨ましいなあって思ったの」

 唐突に語り始めた私に、夏油くんは眉をひそめていた。その顔には、つまり何が言いたいんだろう、と書いてあった。

「つまりね、私も夏油くんの色に染まりたいの」

 夏油くんは何度か瞬きを繰り返すと、フッと力が抜けたように笑った。

「ファーストピアスは決まってる?」
「あ、それはこのピアッサーにもともと内蔵されてるの。なんの色気もないシルバーのやつなんだけど……」
「じゃあ、セカンドピアスは私から贈らせて」

 いいの、と弾む声を漏らせば、夏油くんはうんうんと頷いた。そうして、夏油くんは私の耳たぶに触れる。

「覚悟はできてるのかい? 痛いの苦手だよね」
「それは……うん、頑張る。でも夏油くんなら上手くやってくれるって信じてるから」

 夏油くんは「責任重大だな」と少し困ったように笑った。そうして、ピアッサーを見おろしながら、ぼそりと呟く。

「彼女の体に穴を開けるなんて、正直――」

 そこで言葉を切ったので、なんだか不安になり、

「嫌だ?」

と訊けば、夏油くんははぐらかすように笑う。

「いや、なんでもないよ」
「なに? え、なに? 気になるよ」
「や、これを言うと引かれるだろうから……」

 私はベッドに腰掛ける夏油くんの足元で、駄々をこねる子どものように「教えて教えて」と体を揺らす。夏油くんは観念したように微笑を漏らすと、

「おいで」

と手招きした。その低い声が色っぽくて、私は高鳴る胸を押さえながら彼の隣に腰掛ける。
 夏油くんは再び私の耳たぶに触れた。少し冷たいその指先に、体がぴくりと動いてしまう。
 すっと近づいてきた顔に、思わず目をつむる。
 
「正直、すごく興奮する」

 耳元で囁かれた言葉。息をするのも忘れて夏油くんを見上げれば、彼は私の反応をうかがうように、じっとこちらを見つめていた。
 私たちは、まだそういう事をしていない。手を握ったぐらいで、キスもまだ。五条くんには「傑のくせにまだ手出してねーの? "すぐヤる"を略して"すぐる"なのに? ウブすぎてキモいわ」と笑われた。ひどすぎる。

「引いた?」
「……ぜ、全然! ほらっ、時間置くとだんだん怖くなるから……ひと思いにお願いします!」

 引くどころか。いろんなことを想像して心臓が爆発しそうだ。そんな思いを隠すように、夏油くんの手に握られたピアッサーをぽんぽんと叩きながら、横髪を耳に掛けて彼の方へと身を乗り出す。
 夏油くんは、「じゃあ」と腕まくりをした。

「いい?」

 夏油くんの指先とは違う、耳に当てられたピアッサーの無機質な冷たさ。背筋に緊張が走った。

「……い――」

 私の喉から溢れ出た言葉の断片に、夏油くんは「ん?」と首を傾げる。

「痛くしないでね?」

 そう言えば、夏油くんは目を見開いた。
 そこで、あれ? と思った。夏油くんのその驚いた顔が、次第に輪郭を失っていったから。そうしてすぐに気づいた。涙だ、と。まだ針すら当たっていないのに、穴を開ける痛みを想像しただけですでに涙が滲んでしまった。情けない。これでも呪術師の端くれなのに。
 夏油くんは大きく開いていた目をゆっくり元の形に戻したかと思えば、はあ、と大きなため息をついた。

「そういうの、計算でやってないよね?」
「……計算? どういうこと?」

 首を右に左に倒しながらその言葉の意味を理解しようとしていると、夏油くんの指が私の目尻から溢れそうになっていた涙を拭った。その指先はもう冷たくなかった。
 
「あんまり煽るようなことは言わないように。あと涙目で見上げてくるのも。……襲われてもいいなら別だけど」

 いいよ、襲われたって。夏油くんになら。
 ――そう言おうと思ったけど、どこか照れたように下唇の片側をキュッと噛んで視線を下げる夏油くんの表情が新鮮で、かわいくて。イヤリングの片割れが二人の今後を表すのではという不安も、これから感じるであろうピアッサーの痛みも、もうどうでも良くなった。

「ねえ、ピアス開けた後さ……キスしない?」

 ただ目の前にいる人が恋しくて、もっと触れたくて仕方なくて、私は自分でも驚くほど大胆なことを言った。
 夏油くんは、少し背を丸めて私と目線の高さを合わせると、

「キスだけ?」

と、吐息を漏らすように言った。そうして、先ほどまで照れくさそうにしていた人とは思えぬほど、余裕たっぷりに笑んでみせるのだった。



 後日、私の耳にがっしりと埋まった黒いボタンのようなピアスを見た五条くんは、

「うわあ……傑、マーキングえぐ」

と言っていた。

 五条くんは知らない。夏油くんとお揃いのピアスを付けた私の制服の下が、どうなっているのか。ピアスなんかよりもエグいマーキングの痕が無数に刻まれている――それは夏油くんと私だけが知っている、失くしようのない事実。



(2024.03.03)


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