ただ漠然と、男女が付き合うということに興味があった。どういうものなのか試してみたい。でもここは学生数の少ない呪術高専。いつもつるんでいる硝子やと“付き合う”を試してみて、今までの関係が崩れるのは嫌だ。
そんなことを思っていたとき、一個下の女子に告白された。何度か任務に同行したことがある程度で、別段仲が良いわけでもない。これはちょうどいい相手だなと思った。だから、“付き合う”を試してみることにした。
彼女ができたと話したとき、硝子は呆れた顔をした。傑は「それでいいのかい」と言ったけど意味が分からなかった。には、直接言えなかった。でも、傑か硝子かのどちらかに聞いたのだろう。「彼女できたんだってね、おめでとー」と笑ってた。に祝われたって別に喜べるものでもなく、なんなら「こいつなんで笑ってんだ?」と苛立ちさえ覚えた。なぜそんな感情を抱くのか、自分でも分からなかった。
――試しで付き合うとはいえ、密室で二人きりになれば互いの間に流れる空気も変わるものなんだな。
初めて自室に招き入れた後輩女子を前にして、そんなことを思った。
後輩は「これ肌触り良いんですよぉ」と、自分が身に纏っているモフモフの部屋着を触れと言ってくる。あーほんとだ、なんて言いながら差し出された腕を撫でると、彼女はもじもじと体を揺らして目を伏せた。
今のところ、付き合ってからの変化といえば、傑たちと過ごす時間が減ったこと、その代わりに後輩と過ごす時間が増えたことぐらいだ。一緒に過ごすといっても、休憩室の自販機で買ったジュースを飲みながら任務の話をする程度。話すことがなくて沈黙している時間も長い。言わずもがな、傑たちと一緒にいる方が楽しい。
付き合うってこんなものなのか。もっと何かあるんじゃないか。それを知りたくて、今夜は後輩を部屋に呼んだ。彼女は部屋に入るときから緊張しているようだった。今も、ベッドを背もたれにしてパックのフルーツミックスジュースをちびちびと飲みながら、落ち着かない様子で瞬きを繰り返している。
「もうちょい触ってもいい?」
もう少し、“異性”を感じてみるか。そう思って聞いてみれば、彼女は「もちろんです」と声を上擦らせた。
部屋着の肌触りを確かめるふりをして、彼女の腕から二の腕、肩へと触れる範囲を広げていく。首筋を撫でたとき、彼女はぴくりと体を震わせた。
――あ、なんか、悪くないかも。
その反応が予想外に良くて、もっと知りたいと思った。しかし、唇をきゅっと結ぶ彼女の頬に触れようと手を伸ばしたときだった。
「……た? ほんと……よ……ね」
声が聞こえる。隣の部屋からだ。これは、傑の声か?
「も……いよ? あははっ」
これは――の声だ。何を話しているかまでは分からない。でも確かに、笑ってる。
硝子は、と耳を澄ませてみる。けれど聞こえてくるのは傑との声だけだ。
――は? なんであいつと傑が? こんな時間に二人っきりで何してんだ?
「ちょっと出てくる」
弾かれたように立ち上がった俺に、後輩は目を丸くして「はい」と頷いた。
***
「どうしたんだい悟」
部屋のドアを叩くと、生意気にも一分ほど置いて傑が顔を出した。黒の上下スウェットは、いつもと変わらぬ夜の傑の姿だ。もう風呂を済ませたのだろう、髪は下ろしている。
「が来てるだろ」
「ああ、うん。来てるけど」
「なんで。こんな時間に二人で何する気だよ」
「何するって……ゲームしてるだけだけど?」
「ほんとかよ。何? 桃鉄?」
そう聞けば、傑は曖昧に笑った。これは夏油傑という男がたまに見せる、追及から逃れたいときの笑い方だ。……ていうか、さっきから部屋の中が静まり返ってんのは何。
「ー?」
傑の肩越しに部屋を覗きながら名前を呼ぶ。うんともすんとも言わないに痺れを切らし、傑を押しのけて部屋へ上がった。傑は、おいおい、と言いながらも本気で止める素振りはない。ズカズカと押し進んで寝室のドアを開けると、
「……は?」
ベッドの上で膝を抱える。その上半身は、ブラ一枚だった。
は上目でこちらを見上げるだけで、何も言葉を発さない。心なしか頬が赤らんでいるように見えた。
「どういう状況なんだよ」
丸い膝の間から見える柔らかそうな胸の膨らみから目を逸らせずにいると、傑が肩に手を置いてきた。
「だから言っただろう。ゲームをしてたんだよ」
「は、ゲームって――」
「野球拳」
傑は「はジャンケンが弱くてね」なんて言いながら笑う。確かにこいつは一枚も脱いだ様子がない。
目をやると、ベッドの脇にはの部屋着が落ちていた。よく見れば白いキャミソールも。もう一度へと視線を戻す。淡い水色の、控えめなレース付きのブラ。……肌、しっろ。あの後輩の部屋着より絶対に手触り良いだろ。
「ほら悟、部屋に戻りな。彼女が待ってるんだろう?」
ぽんぽん、と背中を叩かれて、ふと気づく。
「なんで知ってんだよ?」
「何が?」
「今俺の部屋に、その……後輩が来てるって」
「“後輩”じゃなくて“彼女”だろう? そりゃ分かるよ。壁の向こうから聞こえてきてたからね、声」
そっちが聞こえてるならこっちも聞こえてるよ、と傑は笑った。
早く帰ってあげなよ、と傑によって部屋を追い出される俺を、は相変わらずだんまりのまま、ただじいっと見つめていた。
***
の下着姿が目に焼き付いて離れない。部屋に戻って後輩女子を前にしても、意識は壁の向こうに集中してしまう。
「……何が野球拳だよ」
ああ、イラつく。まさかあいつら野球拳続行してないよな? 、あれ以上負けたらいよいよ素っ裸だぞ。密室で裸の女を目の前にしたら、いくら同期が相手とはいえ、傑も変な気を起こすに決まってる。十六だぞ? 思春期の男だぞ?
「あー、あのさ。悪いけど今日は帰ってくんない?」
そう言うと、後輩女子は感情の抜け落ちたような顔をこちらに向けて、おもむろに言った。「五条さんが好きなのは私じゃないと思います」と。それに対して「はぁ?」と眉根を寄せたとき、
「……っああ、ん……」
幻聴?
猫?
いやこれは、確かに――喘ぎ声だ。
まじかよ。
は?
あいつの……?
「五条先輩!」
我を忘れて部屋のドアまで駆け出した俺に、後輩は声を上げた。
「……あぁっ、あ……」
「別れてください!」
「ちゃ……う、イッ……」
喘ぎ声と後輩の声が交互に耳を鳴らす。もう訳が分からない。考え込む余裕はない。
「分かった別れる! 悪ぃ!」
隣からの嬌声をかき消すほどの大声で返し、部屋を飛び出した。
その勢いのまま傑の部屋のドアを殴る。
「なあ傑ッ! おい開けろよ!」
なんだよなんだよなんでだよ! あいつらそういう関係だったのかよ? は「夏油のことを異性として見たことない」って言ってたし、傑も……あいつは女なら誰でもいいみたいだけど、でも「友達には手を出さない主義でね」ってのたまってただろ?
「なあって! すぐ――っ、……」
は、俺が右って言えば左って返すような天邪鬼な女で。電子レンジを待ってる間に両腿を拳でぽんぽん打ちながら体を左右に揺らすのが癖のバカみたいにお気楽な女で。ベーコンチーズバーガーを「一口あげる」とか言うから貰ったら上手く噛み切れなくて残りのベーコン全部食っちまった俺に、半泣きで「一生恨むから」とか言うような食い意地の張った女で。そうかと思えばショートケーキのイチゴを「あげる」と皿に乗せてきて、これが一番うまいとこだろ、と押し戻そうとすれば、「一番おいしいから五条にあげるの」とあっけらかんと言うような矛盾の多い女で。
「は……には、手ぇ出すなよ傑、うっ、すぐるぅ……お願いっ、だから、ぁ、……だけは、……うっ、ぐ」
彼女ができた俺に「おめでとう」だなんて言ってほしくなかった。むせび泣きながら「いやだ」と子どものように駄々をこねるぐらいがあいつらしいと思ってたし、その方が俺もきっと、うれしかった。
「げっ。マジ泣きじゃないか」
開いたドアの隙間から顔を覗かせた傑に言われるまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
は、泣いてる? この俺が? ――いや、そんなことよりも……。
「!」
傑を突き飛ばして中へ入る。寝室のドアは開いていた。そこにいたは――。
「もーうるさいな。さっきから邪魔ばっかりしてなんなのー?」
服を着ている。髪も乱れていない。思えば傑も部屋着を着ていた。青白い光を放つテレビに目を向けると、そこには乳丸出しの女が映っていた。
「……何してんの?」
「何って。ご覧の通り、エッチなビデオ観てただけだけど」
喘ぎ声はこのテレビから聞こえてたのかよ。紛らわしすぎじゃね? ていうか異性の友達同士でエロビデオ観るって頭イッちゃってんじゃね? いや、そんなことはこの際どうだっていい。二人がヤッてなくて本当に、よかった。
「もしかして五条、泣いてたの?」
人の顔を指しながらニヤける嫌な女。なのにどうしてこんなに、縋りつきたい気持ちになるんだろう。イッちゃってるのは俺の頭の方なのか?
「お前と傑がそういうことになってんじゃないかと思って……」
「だとしても彼女がいる五条には関係ない話じゃん」
「いや、俺……振られた」
「え? いつ?」
「さっき」
「えー! なんで?」
「五条さんが好きなのは私じゃないと思います、って」
ぶふっ、と噴き出すような笑い声に振り返る。傑が口元を押さえて「すまない」と笑いを押し殺していた。
「なあ、こんなところに居るなよ。傑に喰われるぞ」
「悟。前にも言ったと思うけど、さすがに友達には手を出さないって。私はそれほど困ってない」
「はあ? のあんな格好見といてなんも思わなかったわけ?」
ブラ一枚の姿。俺は今でもリアルに眼前に浮かんでるぞ、あの姿が。
傑は目を逸らして、
「……言わせるなよ」
と、少し罰が悪そうに言った。当たり前だ。十六の男の自制心なんて当てにならない。
「ほら危ねえって! 出ろ出ろ!」
「えー部屋に戻っても暇だもん。硝子もいないし」
の腕を掴んで無理やり立ち上がらせると、やだやだ、と駄々をこねる。
こんなむっつりスケベ野郎の部屋に居たらまじで喰われるぞ。そんなの捨て置けるかよ。そう思って、意地でも引っ張り出そうとしている俺に、
「ところで、悟はどうして泣いてたの?」
と、傑は自らの横髪を耳にかけながら言った。
俺は掴んだままのの腕を見おろし、
「取られたくないって思ったから」
ぽつりと呟くように言う。傑は「ん? 聞こえなかった」と、わざとらしく耳を澄ませる仕草をしてみせた。
「だぁから! 取られたくなかったんだよ! を……傑にも、誰にも」
苛立つ気持ちに任せて口を開けば、自分でも引くほどの大声が出た。言いながら気づいて声量を絞っていったけれど、きっと最後の一音までしっかりと聞こえたのだろう。傑はニヤニヤとしていたし、は唇を結んで耳を赤く染めていた。
「やっと自覚したのか」
傑はなぜか達成感に満ちた声を漏らした。そうして俺との背を押しながら、
「そういうことみたいだから、悪いけど今夜は部屋に戻って」
と言って、部屋から追い出した。
しんと静まり返った廊下で、俺とは一瞬互いの顔を見合って、けれどすぐに目線を逸らした。
「……暇なら俺の部屋来れば」
言った。言ってやった。
別に部屋に誘ってどうこうしようと思っているわけでもないけど、さっき見たこいつの下着姿とエロビデオの裸女から受けた刺激になんの影響も受けてないと言うと嘘になるけど、ひとまずこっちとしてはどう転んでもいいぞというアピールはしたつもりだ。
「彼女と別れたて、かつ、自分に惚れてるかもしれない年頃の男の部屋に?」
さっきまでしおらしく目を伏せていた女はどこに行ったのかと思うほどだった。はじっとりとした目でこちらを見上げ、
「今夜はパス」
と、べーっと舌を出した。なんだこの女。
「はァ? 人がせっかく――」
「今行くと喰っちゃいそうだから、五条のこと」
細っこい指で鼻先をツンと突かれ、思わず後ろにのけ反ってしまう。
「無下限解いちゃって。油断も隙もありまくりなんだから。五条家の爺やに叱られるぞー」
は愉快そうに言うと、おやすみーと手を振って女子寮の方へと消えていった。
――なんだよ、あの女は。喰っちゃいそうって……。
その場に残された俺は、見えなくなった背に向けて、ぼそりとこぼす。
「こっちのセリフだっての」
***
呆然とする悟を置いて女子寮へ向け歩き始めたは、ポケットから取り出した携帯を開く。そうして連絡先から「夏油傑」を選択し、発信ボタンを押す。傑はすぐに応答した。
『どう? 悟とはうまくいった?』
「んー、たぶん? さすがに彼女と別れたばっかりの状態でどうこうする気はないから、今日のところは解散したけどさ。……いやー、でもまさか本当に五条が私のこと好きだったとは……」
『君たちが両思いなのは目に見えて明らかだったからね。気づいてなかったのは君と、自分の気持ちすら自覚せず、思春期特有の好奇心だけで適当な相手と付き合ってしまった悟だけで』
「まあそうかもだけど、でも……あの子に悪いことしちゃったかな」
『何を今さら。あの子も察しが良いタイプだから、遅かれ早かれこうなってたさ。自分に気持ちがない相手と付き合い続けたって良いことはない。自分が消耗するだけだからね』
「よく言うよ。泣かせてきた女は数知れず、な男が」
電話の向こうからは、曖昧な笑いが返ってきた。そうして一つの間を置いたのち、傑は言った。
『悟のこと、大事にしてあげて』
自室のドアを開けようとしていたは、その言葉にふと立ち止まる。
「愛されてるね五条は。なんか妬いちゃうな。私って実は夏油のことが好きなのかな?」
『君こそよく言うよ。悟しか見えてないくせに。でもまあ、いつでも鞍替えしてもらって構わないよ。君一人を受け入れるぐらいの余力はある』
「遠慮しときまーす。数ある女のうちの一人にはなりたくないでーす」
ははは、という笑い声につられて、も頬をゆるめた。
「大事にする。だから安心して」
――軽い気持ちで思春期特有の交際ごっこをした五条悟は、まだ気づいていない。親友の男と、もうすぐ恋人になる女から、こんなにも重い感情を向けられているということに。彼が今考えていることといえば、「つまり俺はが好きで、も俺を好きってことか? 明日傑に聞こ」「てかあのAVって俺が買って今度一緒に観ようって言ってたやつじゃね? 明日傑に聞こ」という、ただこの二つだけだった。