蝉時雨のなか、崩れかけた石塀の前にしゃがみ込む少年がいた。塀に空いた穴に石ころを詰めている。熱中するあまりに汗を拭うことも忘れているその少年は、この家の次期当主、五条悟である。
 広大な敷地を持つ五条家、その裏山の片隅にあるこの朽ちかけた小さな家に近寄る者は、悟以外に誰もいない。みながこの家を存在しないものとして扱っている。それは悟にとって好都合だった。どこに居ても家の者たちに構われる悟にとって、この場所は唯一ひとりになれる、いわば秘密基地のようなものだった。

「それって楽しい?」

 不意に声を掛けられ、悟はびくりと肩を上げた。そうして振り向くと、そこには一人の女が立っていた。女と呼ぶにはまだ幼さが残るが、少女と呼ぶには大人びている。

「べつに。ただのヒマつぶし」

 悟が返せば、彼女は、

「残酷な子」

と、あいまいに笑った。悟が石ころを詰めていた穴には、ダンゴムシが巣を作っていた。彼はダンゴムシが這い出てこないように、穴を塞いでいたのだった。彼女は悟のその行動に加虐性を垣間見たため、微苦笑したのだ。

「おれ、おまえのこと知ってる」
「あら奇遇。私も君のこと知ってるよ」
「はあ? おまえがおれを知ってるのは当たり前だろ。おれを誰だと思ってんだよ」

 悟は少し機嫌を損ねたように口を尖らせた。しかしボロ屋の方をちらりと見ると、その口元をゆるりと緩める。

「この家って誰が住んでたか知ってるか?」
「知らないなあ」
「おまえとおなじ、親父のアイジン」

 彼女は眉ひとつ動かさず、しゃがみ込んだままの悟をただ見おろしている。

「用無しになった女たちはここに押し込まれるんだ。そうしていつの間にか消えてる」

 十歳の悟の口から「愛人」という言葉が紡がれても、自らの立場や行く末を暗示するようなことを言われても、彼女はまるで他人事かのように「ふぅん」とだけ返すのだった。
 悟の言う通りだ。彼女は悟の父、つまり五条家の現当主の愛人だった。まだ十六である。当主はこと若い女を好んでいた。普段は人前に出ず、もちろん正妻の前に姿を見せることは許されず、ただ当主の寵愛を受けるためだけに屋敷の離れで囲われていた。

「そんな暗い遊びしてないで、ほら、おいで。私が遊んであげる」
「……何して?」

 疑るような目で見上げる悟に、彼女は腕を組んで少し思案したのち、「そうだ」と口を開く。

「先に獣道を見つけた方が勝ち、っていうゲームとか?」
「ケモノミチ? なんだそれ」
「坊ちゃんはなーんにも知らないんですね」

 なんだと、と思わず立ち上がってムキになる悟に、彼女は「あはは」と声を漏らして笑った。
 その日を境に、悟と彼女はこの裏山の片隅で毎日のように顔を合わせることになる。しかしその日々も長くは続かず、二年後、彼女は五条家を去った。


◇◇◇


「あ? お前……」
 
 あれから四年後。悟は、呪術高専の廊下で彼女と再会することになる。
 悟は彼女が五条家を去った理由を知らない。ある日突然消えてしまった彼女の行方を調べる術も知らず、悶々とした思いを抱えているうちに、彼女との記憶を頭の奥へと仕舞い込んだ。まだ幼かった彼なりの自己防衛本能だったのかもしれない。
 その彼女が突如目の前に現れたら――悟は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を戻した。彼女は彼女で、にこやかな笑みを絶やすことなく、まるで「ありがとう」を伝える顔でこう言うのだった。

「お久しぶり、くそ坊主」
「お前のことなんてすっかり忘れてたわ、くそアマ」

 悟も悟で、「どういたしまして」を言う顔でそう返した。

「なんでお前がここにいんだよ」
「ずいぶんと口が悪くなりましたね。私はほら、見ての通り高専の講師です。非常勤だけど。ということで、早く校庭に集合ねー」

 彼女は悟の後ろで成り行きを見守っていた夏油と硝子に向けて言うと、踵を返して去って行った。
 四年前の真実はこうだ。お前は術式を持っているから呪術高専に入るよう取り計らった、という当主の一言により、彼女は五条家を追い出された。高専にというのは建前で、その実、より若い女に目移りをして捨てられたのだ。
 彼女は卒業後、非常勤講師として高専に出入りしていたが、五条悟が在学する間は休職して海外放浪でもしようかと準備していた。しかし、人員不足のため次の非常勤が見つかるまでは勤務してくれ、と懇願されてしまい、渋々と航空券をキャンセルし、こうして新入生である悟を出迎えたのだった。


 ――呑気に笑いやがって。
 校庭での体術訓練。夏油を相手に組み手を行う彼女が時折り笑みを見せているその姿に、悟は舌を打つ。そうしながら、頭の奥底に仕舞い込んでいた記憶を掘り起こす。
 あの頃はいつも一人で遊んでいた。一般家庭の子どものように小学校へは通っていない。五条家には同じ年頃の親戚もいたが、一度意図せず術式を使って怪我をさせてしまってからは誰も寄り付かなくなった。だから、人と何をして遊ぶのかも知らなかった。そんな時に彼女が現れて、毎日のように遊んだ。遊び方もたくさん教わった。しかしある時、ふと思った。この人はいつか、消えてしまいそうだなと。

『またここで会える?』

 そう訊けば、彼女は「どうしたの、そんな今にも泣きそうな顔して」と首を傾げた。答えを待ち続ける悟に、彼女はどこか観念したように笑った。

『きっと会えるよ』

 その返答にほっと胸を撫で下ろした悟は、不意に落ちてきた影とぬくもりに静止する。彼女が、悟の頬にキスをしたのだ。

『ここで遊んだことも、私がこうしたことも、ぜんぶ二人だけの秘密だよ』

 ――そう言って、あいつは消えた。

 うそつき。

「何やってんの五条」

 彼女に投げ飛ばされた夏油の体は、傍らに立っていた悟を巻き込んで地面に倒れた。土煙が上がるなか、硝子が抑揚のない声でそう投げ掛ける。悟は昔の記憶に気を取られて周りが見えていなかった自分を恥じてなのか、チッと舌を打った。

「すまない悟! 怪我はない?」

 夏油の差し伸べた手を掴んで立ち上がろうとした悟は、そこで顔を歪めた。

「……まじか。俺、ケガしてる」

 足を挫いたのだ。右足首が熱を持ったようにじんじんと痛む。怪我など片手に数えるほどしか経験してこなかった悟にとって、それは今までに味わったことのない真新しい感覚だった。

「あーあ、大丈夫?」

 尻もちをついたままの悟は、近づいて来た彼女を見上げる。彼女は腰を屈めると、悟の右足首をツンと突いた。途端に痛みが走る。悟が眉根を寄せて唇を噛んだのは、その痛みゆえにではない。すぐ顔のそばに寄った彼女から漂う香りに、胸の奥に仕舞っていたものが疼きはじめたのを感じたからだ。

「家入ちゃん、治せる?」

 彼女は後ろを振り返り、硝子にそう尋ねた。

「……あー」

 硝子が言い淀んだのは、彼女の後ろで「手を出すな」と無言の圧力をかけてくる悟に気づいたからだ。

「ちょっと難しい……かも?」

 硝子の返答に、悟はうんうんと頷いた。彼女は悟へと向き直り、「仕方ないなぁ」と舌打ち混じりに呟いた。

「ほら、肩掴まって」

 悟の腕を自身の肩に回すと、彼女は息を吐きながら一思いに立ち上がる。そうして硝子と夏油に「自習してて」と言って、悟の体を支えながら校舎へと向かう。

「どこ連れてく気だよ」
「医務室に決まってるでしょう」
「やだ。あそこ薬品の匂いすげーから逆に具合悪くなんだよ」
「ごねないで。医務室に行かないと湿布とか諸々が――」
「じゃあお前が取ってくりゃいいだろ。俺、自分の部屋で寝てるから」

 彼女は信じられないものを見るような目で悟を見上げた。悟はそれに気づかないふりをして、医務室ではなく自分の寮の部屋の方向へとつま先を向ける。
 
「……はいはい。仰せのままに、坊ちゃん」



 医務室から湿布を取ってきた彼女が悟の部屋に戻ってくる。悟は彼女が部屋に上がってくるのを、ベッドに腰掛けたまま見つめていた。

「足出して」
「もう出してる」
「ズボンの裾上げてって言ってるの」
「んなのお前がやればいいだろ。こっちはお前のせいでケガしてんだしよ」
「体術の時間にボーッと突っ立てる方が悪いでしょう」

 両者は少しの間睨み合ったが、彼女が先に折れた。呆れたようにため息を吐き、悟の足元で正座をすると「失礼」とズボンの裾を捲った。彼女の指先がくるぶしに触れると、悟はぴくりと反応する。

「痛かった?」
「……別に」
「ちょっとひんやりしますよー」

 熱を持った部分を覆うように湿布を貼る。続いてネット包帯を被せようと悟の踵を手のひらに乗せたとき、彼女はまじまじとその足裏を見つめた。

「なんだよ」
「いや、大きくなったなあと思って」
「……はあ? 何言ってんだ。親戚のババアみてぇ」

 悟の言葉に、彼女はフッと笑った。悟はそんな彼女を見おろしながら、唇を少しだけ噛む。

「あのまま五条家にいれば、俺が側に置いてやったのに」

 冗談めかしてそう言えば、

「わあ、それは出奔して大正解でした」

と、あえなく返された。
 悟にとっては意を決して放った言葉だったが、彼女は少しも心を動かした様子もなく、淡々と処置を続ける。

「よし、一旦これでいいでしょう。痛みが引くまで無茶は厳禁ね。湯船に浸かるのも控えて、できればシャワーで」

 じゃあ私はこれで、と立ち上がる彼女の腕を、悟が掴んだ。

「……なんですか?」
「昔から思ってた。なんでそんな憎いものを見るみたいな目で俺を見んだよ」

 ベッドに腰掛ける悟を見おろす彼女は、まるで苦虫を噛み潰したような顔をしていた。悟にそう言われても表情を変えることはない。
 彼女はその昔、よく遊び相手になってくれた。けれどあの頃の悟は、ふとした瞬間に見せる彼女の真顔を、心のどこかで恐れていた。視線に気づいて振り返ると、目の据わった彼女が、じいっとこちらを見つめているのだ。しかし目が合うとパッと表情を変えて「次は何して遊ぼっか」と言う。あの目には確かに、憎悪が滲んでいた。

「……似てるから」

 彼女がぽつりと呟いた言葉に、悟は顔を上げる。

「坊ちゃんを見てると、あの男を思い出すから」

 あの男。それが悟の父を指しているということは、すぐに理解した。
 その昔、悟と裏山で遊んでいる彼女が、左手首に付けていた数珠を押さえて痛みを堪えるようにうずくまることが何度かあった。「それ何」と尋ねる悟に、彼女は「呪縛」と答えた。痛みが引くと、彼女は決まって「もう行かなくちゃ」と帰っていった。あの数珠のことは、彼女が出奔した後に家の者から聞き出した。数珠には悟の父の呪力が籠っており、彼女を呼び出すときに電気のような刺激を流すのだという。
 悟が目にしたのは氷山の一角で、おそらく彼女はもっと酷い仕打ちを受けていたのだろう。「似てるから」と返した彼女の言葉に、悟はそう察した。

「十六の生娘を愛人にするなんて、あんたの父親はとち狂ってんのよ。おかげさまで貞操観念ぶっ壊れました」

 吐き捨てるように言った彼女の腕を、悟はぐいっと引っ張った。バランスを崩した彼女はそのままベッドに倒れ込む。悟はその体に覆い被さり、目を見開く彼女を見おろしながら言った。

「ぶっ壊れてんなら、十六のドーテー相手にすんのも平気だろ?」
「……そう来ますか」

 ため息を吐いた彼女は、悟を上から下まで品定めするように見る。

「平気じゃないね。さすがに似すぎてて、忌々しい記憶が蘇るわ」

 わざとらしく嗚咽して見せる彼女に構わず、悟は語気を強める。

「俺とクソ親父を一緒にすんな」

 クソ親父って、と嘲笑った彼女は、悟から顔を背けてしまう。

「こっち見ろ」

 俺を、見ろよ。
 悟が彼女の顎を掴んで強引に視線を合わせる。睨むように見上げていた彼女だったが、悟の青い瞳を見つめるうちに、その目を次第に開いていく。
 
「あー、こんな大きな違いがあったのに、すっかり見落としてた。灯台下暗しってやつかなぁ」
「……は?」

 思わず首を傾げた悟に、彼女は微笑みながら手を伸ばす。そうして、悟の前髪を掻き上げつつ、悠然とした口調で言うのだった。

「目が違うね。全然違う。クソ坊ちゃんの目の方が、あのクソ男の目よりもずっとずうっと……」

 綺麗。
 そう耳元で囁かれた途端、悟は自らの体内で這い回っていたものが首をもたげるのを感じた。
 悟は彼女の白い首筋に顔を埋め、衝動に任せて噛み付く。むくむくと立ち上がる己のものを、捲れ上がったスカートから露わになる太ももに押し当てると、彼女は「ねえ」と声を出す。

「足、気をつけて。捻挫が悪化する」
「うるせえ」
「そんなに急かないで。大丈夫、逃げないから。でも――」

 悟は動きを止め、彼女を見る。そこで見た彼女の顔には、憎しみではない、他の色が滲んでいた。
 
「自分はあの父親とは違うって証明したいなら、優しくして。衝動をぶつけないで。人として扱って」

 どこか懇願するような目。微かに震えた唇。――怯えているのだ。それに気づくと、悟は無意識のうちに縛り付けていた彼女の両手首から手を離し、「わかった」と息を吐くように言った。

「あともう一つ」

 声を潜めた彼女が次になんと言うのか、悟は言葉の先を察した。

「これも、二人だけの秘密ね」

 予想通りだった。二人だけの秘密。それはあの頃の彼女が別れ際に言ったのと、まるで同じ言葉だ。

「わかった。でも、一個約束しろよ」
「なに?」
「逃げないって言っただろ。もうあの頃みたいに、理由も言わずに居なくなるなよ。俺から逃げるな」
「……君から逃げたわけじゃないけどね。あと厳密に言えば、逃げたというか追い払われ――まあ、そう思われてるなら別にいいや」

 微かに息を漏らして笑った彼女は、悟の耳に触れながら言う。

「逃げるか否かは、これからの坊ちゃん次第です」

 耳を撫でた細い指は顎のラインを辿り、唇へと行き着く。

「クソ親父とは違うところ、たくさん見せてよ」

 煽るようなその様に、悟は片方の口角を上げる。そうして唇に当てられた彼女の指にキスをすると、手のひら、手首、腕、と口付けを落としつつ、上目で彼女を見やる。

「余裕ぶりやがって。震えてるくせに。強がりなやつ」

 そんなのお互い様、と言いかけた彼女の口は、悟の唇で塞がれた。努めて優しく、けれど昂った思いを抑えきれずに、吐息の狭間に荒々しさが見え隠れしてしまう、そんな不器用なキスだった。






(2023.09.23)

 もう逃がさないという一心で抱いたので、彼女の体中にキスマークを付けてしまった脱童貞悟。翌日めちゃくちゃ怒られたけど、思いは伝わったのか、その後も彼女は姿を消すことなく悟のそばに居ましたとさ。めでたし、めでたし。

キーワード:またここで、冗談めかして、二人だけの秘密
(提供:@torinaxxさま)


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