この畑にはかつて、季節ごとの旬の作物が豊富に実っていた。朝露に輝く採れたての野菜を丸かじりできるのはたいそう贅沢なことなのだと、“当たり前”の日々を失って初めて知った。
 そうして私は今、朝から晩まで一心不乱に荒れ果てた畑を耕している。そうすることで、あの日々を取り戻せるのではないかと、淡い期待を胸に抱きながら。――そんなこと、できっこないのに。もう“家族”を手にすることなんて、私にはできないのに。諦めの悪い、愚かな女だ。



 その家までの山道は、狭く険しいものだった。
 最初に雛鶴さんやまきをさんとこの道を登ったとき、私は彼女の半生を思った。幼少時には、この山道を下って里の手習所へ通ったのかな、とか、小川の水を汲んだり薪を集めたりするのに、何度ここを行き来したのだろう、とか。
 そうして見えてきた家は、一部の戸板が外れていたり、茅葺き屋根は所々が腐っていたりと、目に見えて荒廃していた。かつては多くの作物が実っていたのであろう畑は、一面雑草に覆われていた。
 家の中の様子を戸口横の格子窓から覗くと、獣の糞尿に混じって、血の匂いがした。古い血痕の跡は、戸口のすぐ傍らや支柱に染み付いていたが、その匂いはそれらから漂うものではなかった。まだ新しい血の匂い。その匂いの先には、彼女がいた。土間にうずくまり、膝を抱えている背中は一瞬、幼子のもののように見えたほど、小さく感じた。膝を抱える両手の指先からは、血が滴っていた。彼女の近くには格子窓があり、そこにも古い血飛沫が滲んでいた。その血痕の上には鮮血が塗られている。まるで掻きむしったかのようなそれに、咄嗟に察した。かつてここで起こった悲劇。それを思い起こして取り乱してしまった、彼女の悲痛な胸の内。
 何も言葉を発せられずにいると、雛鶴さんが戸口を叩き、そっと開いた。そうして声を掛けられた彼女がこちらを振り向いたのを、私は雛鶴さんやまきをさんの後ろから、ただ見つめることしかできなかった。

「こんにちは」

 あの日から、ひと月近くが経った。彼女に声を掛けたのは雛鶴さんではなく、私だ。今日は一人で、この家を訪れた。雛鶴さんやまきをさん、天元さまには行き先を告げずに。
 彼女はひと月前よりも随分と髪が短くなっていて、肌も少し焼けたように見えた。畑作業中だった彼女は手を止めてこちらを振り返り、

「須磨さん?」

と、首を傾げる。彼女が佇む畑の雑草はきれいに抜き取られ、すでに何かの種が芽吹きはじめていた。

「突然お邪魔してすみません」

 そう頭を下げると、彼女は少し間を置いたのち、

「外は暑いですから、どうぞ中へ」

と、やわらかな声で返してくれた。


**


「輝利哉さまから伺いました。その、このお家でご家族が鬼に……。そんな家に一人で帰る気持ちを、一人で寝起きする気持ちを、考えると……」

 お茶を差し出すと、それまで口数が少なかった須磨さんは堰を切ったように話しはじめた。

「酷なことをしてしまい、申し訳ありませんでした」

 畳に額を付けてそう謝る須磨さんに、私はただ目を見張るしかなかった。

「私は家族全員を失った経験がありません。それは雛鶴さんも、まきをさんも同じく。忍として生まれ育った私たちです。家族がいたって良いことばかりではなかったけれど、それでも、一人じゃないと思える瞬間はあって……それに今は、新しい家族も……」

 新しい家族。その言葉に、記憶の隅に仕舞っておこうとしていた人の姿が、瞼の裏に蘇ってくる。けれど、ぱしんと自分の頬を打てば、その人の姿はたちまち彼方へと消えていった。

「あなたの痛みも知らずに、私たちはあなたをまた、一人ぼっちにさせてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい」

 須磨さんは頭を上げることなく謝り続ける。向かい合って座ったまま、私は彼女のつむじを見つめながら言った。

「どうして須磨さんが謝るんですか? 私は家族を亡くしたときから、ずっと一人ですよ。なのに、また一人ぼっちにさせてしまった、なんて。須磨さんが謝るようなことは一つもないです」

 そこまで言えば、須磨さんは頭を上げた。

「でも天元さまが、あなたの支えだったのでは? 天元さまといるときは、一人じゃないって、思えたんじゃないですか?」

 瞳を震わせながら、けれどまっすぐにこちらを捉えながら紡がれたその言葉に、私は束の間、呼吸を忘れてしまった。
 ――宇髄さん。
 胸の奥底から込み上げてくるものを呑み込もうと口に手を当てる。
 ――だめだ。奥様の前で、あの人を想う顔を見せては、だめ。
 両の手のひらで顔を覆い隠していると、肩にじんわりと温もりが広がった。見れば、須磨さんが私のすぐ傍らで正座をして、肩に手を置き、静かに笑んでいた。けれどその目には、今にもこぼれ落ちんばかりの涙が溜まっていた。

「私、これからもこのお家に来てもいいですか?」
「……え?」
「料理はそれほど得意じゃないですけど、お洗濯やお掃除、お風呂焚きでもなんでも手伝います!」
「そんな、申し訳ないですよ」

 そう言うと、須磨さんは唇をきゅっと結んだ。視線を下げれば、膝の上で重ね合わせた手が小刻みに震えているようだった。

「……では、畑の手伝いをお願いしてもいいでしょうか?」

 須磨さんは須磨さん。宇髄さんの奥方としてではなく、一人の女性として接すればいい。きっと須磨さんもそれを望んでいるのだろう。不思議なことに、なぜだかすんなりとそう思えた。

「もちろんです!」

 屈託のないその笑顔に、この家と同じく寒々しい隙間風が吹いていた胸の内が、ぐんと温もりを増した気がした。


**


「立派なオクラ。それどうしたの?」

 まきをに問われた須磨は、えへへと笑うだけで答えなかった。
 夏の盛りが過ぎ、季節はゆっくりと秋へ向かおうとしていた。しかしまだ残暑は厳しいため、炊事を担当する雛鶴とまきをは、身体の熱を取る食事を日々こしらえていた。
 オクラを抱えて炊事場に顔を出した須磨は、以前よりもどこか肌が焼けたように思えた。毎日顔を合わせているのに、まきをはその変化にようやく気付いたのだった。

「天元さま! ほら見てオクラ! みんなで食べましょー!」

 縁側に座る天元に、須磨がオクラを持って駆け寄って行く。その後ろ背を見ながら、まきをは目を細めるのだった。


 その夜、夕餉の片付けをしている須磨に声を掛けたまきをは、肌が焼けたこととオクラと何か関係があるのではないかと詰め寄った。近ごろ頻繁に出かけているようだし、どこで何をやっているのか、とも訊いた。すると須磨は隠しようがないと思ったのか、それとも尋ねられれば答える気でいたのか、やけにあっさりと打ち明けた。「天元さまの元部下の方の家に通っている」と。

「あんたそんな残酷なことしてんの?」

 まきをの鋭い声に、少し離れた所で明日の朝餉の下ごしらえをしていた雛鶴が顔を向ける。

「彼女は天元さまの嫁であるあんたに対して、どういう気持ちで接してると思う?」

 須磨は俯き加減で唇を固く結び、何も答えない。まきをはそれに構わず言葉を続ける。

「囚われ続ける。次に進めない。ああ、須磨さんは今朝宇髄さんと同じ布団で起きて、今夜も一緒に眠るんだろうな。そんな思いを抱かせる。あんたはそんなことも分からないの?」
「……っ、どっちが!」

 須磨が流し場を拳で叩いた拍子に、傍らに置かれていた皿が落ちた。パリンッと割れる、耳を突くような音。

「どっちが残酷なんですか? 一度だけ逢瀬の機会を設けてやるからそれっきりにしろと言うのも残酷なんじゃないですか⁉︎」
「だからそれでお終いにすればよかったのよ! 宇髄家と彼女は金輪際関わり合わない! そうすれば、時さえ経てば天元さまも――」
「忘れられると思いますか?」

 掠れる須磨の声に、言葉に、まきをはヒュッと息を呑む。

「天元さまの姿を見てください。前よりもいっそう気を落として……まきをさんだって分かってるでしょう? 天元さまはあの方のことを――」
「やめてよ!」

 まきをは悲鳴にも似た声を上げて、須磨の胸を押した。しかし須磨がその腕を掴む。

「私はっ!」
「うるさい、うるさい……!」
「私は! 天元さまが好いた方なら好きになれます!」

 揉み合ううちに倒れ込んだ二人は、駆け寄った雛鶴によって引き離された。転んだ際に皿の破片で切ったのか、まきをの腕からは鮮血がたらりと垂れた。雛鶴は咄嗟に髪を解き、まきをの腕を自らの髪紐で締める。そうしながら、静かに口を開いた。

「私たちは天元さまに選ばれたわけじゃない。里長が決めた婚姻だった。それでも天元さまは、妻として与えられた私たちを大切に、いつもいちばんに思ってくださった」

 須磨は目から涙をこぼし、まきをは震える唇をきつく結んで、雛鶴の言葉を聞いていた。

「そんな天元さまが、初めて自ら選んだ人が、彼女なら。天元さまが共にいたいと願うのなら。私は、その願いを受け入れたいと思ってる。天元さまは私たちに居場所を与えてくださった。今度は私たちが、天元さまのために居場所を整える番なんじゃないかしら」

 雛鶴の声には、覚悟が滲んでいた。心を決めたときの彼女はいつも凛としている。周りが畏怖するほどに。
 固く結ばれていたまきをの唇が、微かに開く。

「――私だって、天元さまには幸せでいてほしい。あんな顔、させたくない……」

 振り絞った彼女の言葉に、雛鶴は微笑む。

「恐れないで。大丈夫よ。天元さまは今まで通り、私たちを等しく愛してくださる。そういうお方でしょう?」

 三人の妻たちは、互いに手を握り合い、額を寄せ合って、少しの間だけ声を漏らして泣いた。しかし次に顔を上げたとき、三人の顔に曇りはなかった。そうして、ただ一つの思いを胸に天元のいる居室へと向かうのだった。


**


 何かあったとき、はじめに取り乱すのが須磨だ。それを落ち着かせようとするが結局自分も引っ張られてしまうのがまきを。けれど雛鶴は違う。動揺が大きいほど、表では冷静な素振りを見せる。
 そう、思っていた。しかし今夜の三人は、天元がそれまで思っていた彼女たちとは異なる姿を見せた。

「天元さま」

 そう言う須磨の強かなほどの平静さや、

「お伝えしたいことがあります」

 まきをの迷いのない声音、

「とても、大事なことです」

 雛鶴の大層穏やかな表情に、そうして紡がれた次の言葉に、天元は瞬きも呼吸も何もかも忘れてしまった。


**


 空が遠くなった気がする。真夏の空は入道雲のせいか、手を伸ばせば掴めるほどに近く感じたのに。秋へと向かう空は、次第に遠のいていってしまうものなのか。今まで季節の移ろいを気にしたことがないから、知らなかった。

 須磨さんがぱたりと家へ来なくなってから、何日経っただろう。実がなったばかりのオクラを一緒に収穫して、一人じゃ食べきれないからと、そのほとんどをお裾分けした。あのオクラは、宇髄さんの口にも入ったのだろうか――。
 秋に実を結ぶはずの作物を世話しながら、そんなことを思った。須磨さんが来るようになってから、もう何度も夢の中で宇髄さんに会った。大抵よく通った居酒屋でお酒を飲み交わしている光景で、あの夜肌を重ね合わせたときの夢は、見なかった。見なくてよかったと思う。だって、断ち切ったはずの想いが甦ってしまうから。

 はあ、と深いため息が漏れる。そろそろ外の作業は打ち切って、今日は早めに眠ってしまおう。もうあの人の夢は見ませんようにと念じながら眠れば、少しは効果があるだろうか。

「うまいオクラを作る農家ってのはここか?」

 ――きっと幻聴だ。今夜見るはずだった夢が前倒しで脳内に流れはじめたのだろう。厄介な脳みそだ。
 私は別段あたりを見渡すわけでもなく立ち上がると、脇目も振らずに母屋の方へと歩み出す。すると、

「っ……!」

 後ろから無遠慮に腕を掴まれた。物盗りか? 今は武器になるものが手元にない。少し戻ればクワがある。隙をつけば何とか――と思いつつ振り返ると、

「どんだけ声掛けさせんだ。生意気に無視しやがって」

 宇髄さん、だ。私の目がおかしくなっていなければ、今目の前にそびえ立つ上背の大きなこの男は、元音柱で、私の上官だった、宇髄さんだ。

「――うず、い……さん?」
「おう」
「本物?」

 つま先立ちをして、そっと手を伸ばしてみる。髪の感触も、頬の滑らかさも、胸の硬さも、全部あのときに感じた宇髄さんの身体だ。

「――なんで、ここに……」
「なんでだろうな」

 宇髄さんはそう言って、私を抱き包んだ。その力強さに、両足は地面から浮き上がり、身体のどこかの関節はパキッと鳴った。ああ、土や汗にまみれた身体なのに。もう感じることはできないと覚悟した宇髄さんの体温や匂いを全身に浴びているのが、信じられない。――ああ、そうだ。覚悟したんだ。もう二度と会わないと。こんなところ、万が一にも須磨さんに見られでもしたら……。

「離してください」

 声を振り絞ったはずなのに、宇髄さんはまるで聞こえなかったように私を抱えたまま母屋へと進みはじめた。

「っ、離して!」

 手足を暴れさせても、私を抱える宇髄さんの腕はぴくりともしない。戸口を開けて中へと入ると、なぜだか勝手知ったる様子で草履を脱ぎ捨て、長式台を踏み越えて座敷へと上がる。そうしてようやく、身体を離した。私は宇髄さんから距離を取りながら、声を捻り出す。

「……ここへはお一人で?」
「ああ」
「何のご用でしょうか」
「話があってな」

 宇髄さんはその場に腰を下ろし、胡座をかく。そうされるとお茶でも出さねばという気になり、土間の方へと向かおうと身体を反転させる。すると、宇髄さんは言った。

「あいつら、お前を家族として迎えたいんだと」

 確かにその言葉を聞いたはずなのに、今の私は意味を呑み込む頭を持ち合わせていなかった。
 
「……宇髄さんが、無理やりそう言わせたんじゃないですか?」
「んなわけあるかよ。あいつらのこと舐めんじゃねーぞ、この地味くそドちび」

 かぞく。かぞく。――家族? 私が、宇髄さんの家族に?

「家族、って……」

 この家の梁は覚えているだろうか。私の祖父母が、両親が、妹や弟たちが暮らした日々を。すべてを奪われたあの日を。いくら障子を張り替えたって、畳を新調したって、壁の穴を塞いで、畑を耕し直したって、何も戻ってはこなかった。語りかけても、自分以外の声が返ってくることはなかった。あるのは過去の記憶だけ。新しい思い出が増えることなどない。私はそうやって、在りし日の家族を思いながら、この先もひとりで生きていくのだと覚悟していた。――なのに、家族?

「私には、勿体ないほどのお話です」

 情けないほどに掠れた声は、静かに床へと落ちた。

「なあ、こっちに来いよ」

 ちょいちょいと手招きをする宇髄さんに、喉奥が締まる。宇髄さんは、ここ、と自らの隣を叩く。きっとここで逃げ出しても、この人はおそらく地の果てまでも追いかけてくるんだろうな。そう思い、おとなしく宇髄さんの言う通りに隣へ座った。すると宇髄さんは懐から文を取り出し、

「あいつらから」

と、私に持たせた。奥様方から、私への手紙。開くのが少しおそろしい気がして宇髄さんを見上げれば、「そう怖がるなよ」と笑われた。ゆっくりと文を開けば、宇髄さんの麝香の匂いがした。その次に、須磨さんの匂い。

「……ほんとう、なんですか?」

 文に書かれていたのは、先ほど宇髄さんが私に言ったことと同じ内容だった。文末に須磨さん、まきをさん、雛鶴さんの名が記されている。

「宇髄さんが……無理やり書かせたんじゃないですか?」
「そう言ってあいつらが大人しく従うと思うか? いい加減信じろよ」

 文字の一つひとつに思いが込められているように感じて、奥様方の苦悩や覚悟が痛いほどに伝わってきた。

「……私、養子で十分です」
「はあ?」

 見上げてみれば、宇髄さんは半ば呆れたように笑いながら頭を撫でてきた。
 
「こんな娘やだわ」

 短くなった髪は、もうもつれることはない。宇髄さんの指に髪をとかれながら、文を胸に掻き抱く。宇髄さんや奥様方は、どうしてそうも度量が広いのだろう。私なんかに、身に余るほどに施されたこの恩を返すことはできるのだろうか。

「――精進します」

 すると宇髄さんはプハッと噴き出すように笑い、

「なんだそりゃ」

と、私の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。そうして私の腕を引き、膝の上へと誘なう。咄嗟に、大事な文が皺にならないように傍らに置けば、宇髄さんは目を細めて笑んだ。

「宇髄さん」
「んー?」

 宇髄さんは私の顔の輪郭を手の甲でなぞるようにしながら、首を傾げる。

「私はこの家を、声であふれる場に戻したいんです。なので、宇髄さんのお屋敷には行けません」

 宇髄さんはわずかに目を開いた。けれど、すぐに元の大きさに戻して、きゅっと口角を上げた。

「それでいい。ここは現役時代の管轄区域内だからな、俺の守備範囲だ」

 何も問題ない。そう言って、再び頬を撫でる。

「三日に一度来る」
「来すぎです。月に一度でいいです」
「四日に一度」
「では半月に一度で」
「五日に一度」
「……十日に一度」
「六日に一度」
「刻みすぎでは? ……七日に一度で」
「おし、それで手を打とう」

 満足げに頬を緩ませる宇髄さんは、譲歩しすぎたかもしれないと悔やむ私を抱き締めた。

「ここにいる間は、思う存分に俺を独占しろ」

 そうして顔を近づけてくるので、口元に手を当てて唇が重なるのを防げば、宇髄さんは「あ?」と柄の悪い声を出した。

「奥様方からのこの文を読んだら、独占したいだなんて浅ましい思いはもう――そんな顔で見ないでください」

 疑わしいものを見るような目で覗き込まれたのでそう言えば、宇髄さんはハッと鼻で笑った。

「強がりな女」
「……自惚れ屋さん」
「なんだその言い方。自惚れ屋“さん”って」

 そう揶揄われると気恥ずかしくて俯いていると、

「ほんっとにお前は」

と、再び顔が近づく。

「かわいいな」

 耳元でそう囁かれ、胸の内側がびくんと跳ね上がった。宇髄さんのしたり顔を崩したくて軽く口づけをすれば、宇髄さんは思った通り、一瞬呆気に取られたように目を開いた。しかし、私が瞬きひとつ打つ間によからぬ笑みを浮かべ、重心を傾けて私を横倒しにした。そうして口や首筋に唇を押し当てながら、着物を崩していく。――ああ、土と汗にまみれた身体なのに……なんて、気に留める暇も余裕も、もうなかった。


◇◇


 宇髄さんのもとへ嫁入りするだなんて、まさかこんな日が来るとは思いもしなかった。
 こういうのは大事だから、と強引に進められて婚礼の儀式もした。須磨さんは、綺麗です私がお嫁に貰いたいぐらいです、と涙ぐみながら褒めてくださった。雛鶴さんは、これからは私たち四人で天元さまをお支えしましょうね、と優しく手を握ってくださった。まきをさんはその隣で、手のかかる嫁がもう一人増えて私と雛鶴は大変だけどね、と笑った。宇髄さんは白無垢姿の私を見て「馬子にも衣装だな」と言った。絶対に言われるだろうと思っていたその言葉に、私は思わず噴き出してしまった。
 五人だけのささやかな婚礼の儀。それは宇髄さんと私が夫婦になる儀式ではなく、宇髄さんたちの輪の中に入らせてもらう儀式のように思った。
 もう二度と家族に恵まれることなどない。そう思っていた。けれど、宇髄さんたちは私を家族として迎え入れてくださった。それが、うれしかった。胸の内に、あたたかな火がぽっと灯ったような。もう何も失いたくないと、強くつよくそう思った。

 宇髄さんは私の意を汲んで、居住はそのままにしてくれた。宇髄の姓になった今でも、私は故郷にある生家で暮らしている。
 宇髄さんは七日に一度やって来て、家の修繕や畑仕事を手伝ってくれる。たまに須磨さん、まきをさん、雛鶴さんも一緒に来て、女同士でしかできないような話をしたり、街まで買い物に出たりした。五人で温泉にも行った。

 宇髄さんと同じ布団で寝て、起きることが生活の一部になった。宇髄さんの寝顔を見ながら、こんな穏やかな日々を過ごしていいものだろうか、バチが当たりはしないだろうかと、たまに不安になった。そんなとき、宇髄さんは決まって目をぱちりと覚まし、「また辛気臭ぇこと考えてるだろう」と私を腕の中に閉じ込めた。宇髄さんの体温は、まるで不思議だ。胸の内側に巣喰った仄暗い感情を払い去ってくれる。私が私として今ここにいることを肯定してくれる。このぬくもりが私の身体の一部になればいいなと、何度も願った。

 そうして、宇髄さんの家族となって季節を一巡した頃、私は自分の中のもう一つの存在に気づいた。

「宇髄さん、私……」

 思えばいつだって、宇髄さんは私を救ってくれた。もつれたものを優しくほどいてくれた。一線を越えて迎えに来てくれた。私にとって春の匂いは宇髄さんの匂いがないと完成しない。よかった、あの匂いを忘れなくてよかった。
 いつだって死に向かって走っていたあの頃の私を、宇髄さんは生へと導いてくれた。私たちが一線を越えた先にあったのは、別れではなかった。あったのは――。

「私の、お腹に」


 ――いのちだった。




 完



(2023.08.16)

これにてシリーズ完結となります。お読みくださり、ありがとうございました。
(本編で書ききれなかったエピソードを、また番外編という形で書くかもしれません!)



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