死んだように生きるのは、生きたかった者たちへの冒涜だ。

 この世から鬼がいなくなった。ただ、その代償は大きかった。あまりにも多くの命が犠牲になった。いや、"犠牲"なんて言えば、あいつらはいい顔をしないだろう。刃を抜いて立ち向かった者のうち、誰か一人でも欠けていれば、こうして鬼のいない世が訪れることはなかった。だからこそ、残された者たちは嘆くのではなく、ただ愚直に今日を生きるべきだ。あいつらの分、己の命を全うすべきだ。
 ――そう、思おうとしているのに。



「天元さま」

 縁側で背を丸めている天元さまは、まるで魂が抜けてしまったかのように口を開け放ち、紅の空を仰いでいた。

「雛鶴、まきを。どうした? そんなしょぼくれた顔して」

 こちらに顔を向けた天元さまは、覇気のない目を無理やりに見開き、少しおどけたような表情をして見せた。まきをは私の方を見て、首を微かに横へ振る。「天元さまこそどうされたんですか」なんてことは言っちゃだめだからね、と、まきをはそう目で訴えかけた。
 ――天元さまの様子がおかしい理由は、まきをも須磨も、私も察している。無限城でのあの決戦の後、犠牲になった隊士たちは丁重に葬られた。その中に、天元さまの元部下であるあの女性の姿はなかった。重傷者が運ばれた蝶屋敷へと向かった天元さまが、病床の一つひとつを見て回ったこと、隊士が運び込まれたとされる藤の屋敷をしらみ潰しに訪れていたことも、私たちは承知している。消息不明。あの方の生死は、いまだに掴みきれていない。それが天元さまの心身を弱らせているということを、私たちは知っている。

「まきを。須磨が戻ったら、輝利哉さまに会いに行きましょう」
「産屋敷邸に? どうして」

 のそのそと立ち上がった天元さまは、散歩に行くと言って出て行った。その背を見送りながら言えば、まきをは怪訝そうに返した。

「天元さまのためよ」

 見て見ぬふりをするには、事が重すぎた。このままでは以前の天元さまには戻れない気がする。――けれど、あの方の生死さえはっきりとすれば、天元さまの心はここへ戻ってくるのだろうか。

「……一種の賭けでもあるけれど」

 まきをはそう呟いた私の肩に手を置いて、うんと頷いた。


**


 神はなぜ私を生かすのか。他者へ思いを懸けることができる人たちは、あんなにもあっけなく逝ってしまったというのに。父も母も、祖父母も、妹や弟も。長い髪を触る私に「お前それ癖だよな」と言った隊士も、柱を護るために肉の壁となったあの隊士たちも――。

 無限城での決戦を五体満足でくぐり抜けたことへの後ろめたさから、私は誰にも何も告げずに鬼殺隊から離れた。そうして、隊に入ってから一度も足を踏み入れていなかった故郷へと帰ってきた。鬼が滅んだことを、家族に報告するために。
 人里から離れた小高い山の上に、私の生家はあった。祖父母と両親、妹と弟と暮らしていたその家は、あの日から一つも変わっていないように見えた。けれど一歩足を踏み入れれば、障子や襖には穴が開き、畳はささくれ立ち、そこら中に動物の糞が転がっていた。床板に滲む茶褐色の染みは、あの日鬼に喰われた家族の血だ。

「これから、どう――」

 あの日以前と以後とでは、生きる道も、自分という人間も、まるっきり変わってしまった。得たものより失くしたものの方が圧倒的に多いのに、喪失感に浸る間もなく鬼を狩り続け、気を緩めば正気ではいられなくなるほどにたくさんの死を見てきて。それで突然、鬼はいなくなりました、鬼殺隊は解散します、これからは平穏無事に生きていってください、だなんて、そんなこと。
 ――これから、どう生きていこうか。
 今までは明日のことなんて考えなかった。だってそれは、いつ死ぬか分からないから。

「……うずい、さん」

 無限城へと落ちたあの時。最後に見た宇髄さんの姿、最後に聞いた宇髄さんの声。あの後宇髄さんは、どうなったのだろう。きっと生きてる。あの人には護るものがあるから、容易には死なない。
 ――宇髄さんは、どう生きていくんだろう。
 そういえば、いつかこう訊いたことがある。「宇髄さんは子どもを作らないんですか?」と。すると宇髄さんは「作れっかよ。今日死ぬかも分からねえのに」と事もなげに答えた。
 宇髄さんはきっと、子を成すのだろう。鬼のいない平穏な世で、奥様方とお子に囲まれた、あたたかな家庭。その中心で笑っている宇髄さんの姿が、目に浮かぶ。そこにはなんの不自然さもない。むしろ、そう在るべきだ。いろんなものを犠牲にしてきた宇髄さんだからこそ、市井の人々がごく当たり前に享受している普通の日常を、手に入れるべきだ。

「失礼します」

 薄暗い室内に陽が差し込んだ。吹き込む風にふわりと香った麝香。宇髄さんを思わせる匂いに振り向く。そうして、戸口に佇む人の姿に、私は小さく息を呑むのだった。


**


 女房たちが三人揃って出かけてしまった。町内の婦人の集いとやらで小旅行をしてくるのだという。そんな集いがあっただなんて知らなかった。それならそうと前もって言っておいてくれればいいものを、なぜこんな唐突に。話を聞かされた翌朝にはもう三人の姿はなく、留守を頼むという書き置きだけが座卓に置かれてあった。
 思えば、自分の他に誰もいない邸というは初めてだ。鬼殺隊にいた頃は任務地の近くにある藤の屋敷に世話になることが多かったし、自分の家に帰れば必ず三人の嫁のうち誰か一人はいた。
 ふわりと香った風に、ふと思い出す。「春の匂いとは具体的にどんな匂いですか」と訊かれた日のこと。わざわざ言葉にするのも野暮な気がして適当に返すと、あいつは何か悟ったような顔をして、少し思案する素振りを見せたのちに言ったのだ。「私にとっての春の匂いは、宇髄さんがいないと完成しません」と。どういうつもりで言ったのかは分からない。あいつのことだから、きっと色恋の意味は含んでいない。ただ俺がひとりで期待しただけだ。毎春そばにいてほしいと言われた気がして、勝手に胸の内を浮つかせてしまっただけだ。そんな俺を見て「どうして喜んでるんですか?」と首を傾げる姿に、ああこいつも人の感情の機微を感じ取れるようになったのだなと思った。
 出会った当初のあいつは、まるで人の抱く感情すべてを手放したようだった。感情を抑えることが悪いとは思わない。けれど何も感じられないのは、心が壊死しかけている証だ。体は生きているのに、心は瀕死。果たしてそれは、生きているといえるのだろうか。
 感情や生死に無頓着なあいつの姿に、忍として生きてきた自分の境遇を重ね合わせた。だから、放っておけなかった。ゆっくりと人の心を取り戻して、瞳に光を宿していくあいつの姿を、もっと見ていたかった。できれば毎春、いや春だけといわず、夏も秋も冬も。

「生きてろよ」

 亡骸を見ない限りは生存しているとみなす。鬼に跡形もなく食い散らかされた人間の姿を何遍も見てきたのに、無限城で死んだ者の大半は遺体が回収できなかったと知っているのに、今はそんな都合の良い解釈で、馬鹿みたいにただ願っている。だってあの時、あいつは確かに聞いたはずだ。「俺の知らねえところで死ぬな」という言葉を。上官の命令に背いたことなどない生真面目なあいつのことだ。だからきっと、どこかで――。
 カァ、という声に目をやれば、松の木に鴉が止まっていた。その嘴には文らしきものを携えている。来いよと合図を送れば、鴉はひゅいと舞い降りてきて、文を落とした。「天元さま」と記されたそれは、雛鶴の字だ。須磨が道中で月のものになってしまった、いつも飲んでいる痛み止め薬を忘れてしまったようだから届けてもらえるとうれしい、という内容だった。雛鶴は「天元さまのお手を煩わせるわけにはいかないですから」と何かと遠慮することが多かった。そんな雛鶴がこうして頼んでくるということは、よほど須磨の体調が悪いのだろうか。
 場所は箱根の山奥にある旅館、部屋は萌黄の間。書き添えられたその情報まで読むと文から目を離し、天を仰ぐ。近ごろは雛鶴たちとろくに会話ができていなかった気がする。あいつの生存を確かめるために西へ東へ動き回っていたせいだ。須磨の泣き顔を最後に見たのはいつだ。まきをのはにかむ顔や、静かに笑む雛鶴の顔は。

「……よくねぇよな」

 薬を届けに行くついでに、近場の温泉にでも誘おう。そうしてその夜は、明日のことも考えずに四人で飲み明かそう。優先順位を間違えるな。俺には護るべきものがあるだろう。あいつはきっとどこかで生きている。そのうちひょっこり顔を出しに来るはずだ。だから俺は、今この手にある日々を、雛鶴やまきを、須磨と――。


**


 広縁から臨む新緑で、春はもう終わったのだと気づいた。
 山々の向こうに落ちていく陽を見ても、もうなんとも思わない。鬼殺隊にいた頃、夕焼けは鬼狩りの始まりを知らせる合図だった。今はただ、今日が終わることを告げる象徴。鬼がこの世から消えた当初は、夕暮れ時になると気が落ち着かなかった。何かをせずにはいられない衝動と、はたして本当に何もせずとも明日を迎えられるのかという疑念。朝陽を迎えるごとに、この世の平穏を少しずつ信じられるようになった。

「夏の匂いは……」

 どんな匂いなんだっけ。季節の移ろいを感じ取ろうとするぐらいには、気持ちにゆとりが生まれたように思う。きっと独りだったら、こうはなれなかった。おそらくどこかで死んでいた。肉体よりも先に、体の内側の何かが死んでいたはず。「何かじゃなくて、そりゃあ心ってんだよ」という宇髄さんの声が聴こえる。心。あの人は私に、心にまつわるいろんなことを教えてくれた気がする。稀有な人。その両手には溢れんばかりの護るべきものがあるはずなのに、私なんかを気に掛けてくれた、特異な人。
 襖の向こうから足音が聞こえてくる。この音は、これはきっと、そうだ――。

「お久しぶりです、宇髄さん」

 襖を開いた宇髄さんは、私の姿を認めると右眼を大きく開いた。私は畳に正座したまま、宇髄さんを見上げる。彼は信じられないものを見るような目でこちらを見おろしたまま、

「お前……生きてたのか」

と、声を捻り出すように言った。久方ぶりに聞いた宇髄さんの声に、体の内側がぎゅっと絞まったように感じた。
 
「だって、宇髄さんが死ぬなって言うから。俺の知らないところで死ぬな、と」

 宇髄さんはその目を段々と細めて、ハッと息を吐くように笑った。

「まあ、お前は俺の忠実な部下だからな。言いつけに背いて勝手に死ぬわけがねぇとは思ってたわ」
「元部下ですけどね」
「だぁーもう! 細けぇこと言うなっての」

 宇髄さんは後ろ頭を掻きながら近づいてくる。距離が詰まるほどに、背丈の高い宇髄さんを見上げる自分の首が後ろ倒しになっていく。

「宇髄さん?」

 私を見おろす宇髄さんは、眉根を寄せて唇をきつく結び、まるで何かを堪えているかのようだった。そこにはどんな感情があるのかと見つめていると、不意に宇髄さんの顔が近づいたので、反射的に目を瞑ってしまう。体が包み込まれる感覚に、ゆっくりと瞼を押し上げてみれば、宇髄さんの大きな体が私を抱き締めていた。

「よかった」

 宇髄さんは私の肩口に顔を埋め、そう呟いた。その背に腕を回せば、宇髄さんの体は微かに震えていた。どうして震えているのか、その理由は問わずとも理解できた。

「ただいま戻りました。音柱さま」

 宇髄さんは私の頭に手を伸ばしてがしがしと撫で、「ばかやろう。報告が遅ぇんだよ」と言った。宇髄さんに生存報告をしたことで、鬼殺隊士としての私の役目は完全に終わりを迎えたように思えた。
 宇髄さんは顔をこちらに見せてはくれず、私の肩口に埋めたままだ。

「泣いてます?」
「……はあ? 泣くかよ」
「そうですか。心なしか肩の辺りが湿っぽいように感じるので、てっきり宇髄さんの涙かと」
「汗だ汗。俺の汗」
「え、本当ですか? ちょっと、いやだ。人の肩口で汗を拭わないでください」

 てめぇ、と唸りながら顔を上げた宇髄さんに、思わず笑いが漏れてしまう。

「冗談ですよ」

 その目は確かに潤み、鼻の頭が赤らんでいたから。くすくすと笑う私に、宇髄さんは眉を下げ、どこか困ったように笑った。そうして、私の腰に左腕を回したまま、もう一方の手で私の髪を撫でる。
 宇髄さんに撫でられながら、この宿に来る前のことを思い返す。実家を訪れた宇髄さんの奥様方から、主人に顔を見せてあげてほしいと請われたこと。箱根の宿に部屋を用意したから、そこで会ってくれないかと言われたこと。そこまで告げたのち、まきをさんは言った。

『あなたへの思いを残したままの天元さまとこの先暮らしていくのは嫌なんです。でも、これっきりにしてください。これで、思いを断ち切ってください』

 その隣で、須磨さんは俯いていた。雛鶴さんは何も言わずに、淡いすみれ色の瞳をまっすぐに向けていた。

「あ、またもつれた」

 つん、と頭皮を引かれる感覚に意識を戻せば、宇髄さんは手に絡まった私の髪をほどこうと指を動かしていた。まだ左手があった頃の宇髄さんなら、もつれたこの髪を丁寧に解きほぐしていたけれど、今はもう違う。あー、ともどかしそうに手のひらを握り締めたり戻したりを繰り返して、なんとか絡まった部分を解こうとしている。
 私は懐から護身用の小刀を取り出して、髪に当てる。

「おいおい、お前はまだそんなことしようとしてんのか」

 宇髄さんが少し慌てたように制するので、仕方なく小刀を仕舞って、指先で髪のもつれを解く。そうしているうちに、不意に宇髄さんの手を引っ掻いてしまう。すみません、と視線を上げれば、今度は目と目がぶつかった。すると宇髄さんは、髪から解放された右手で私の唇に触れる。
 ――これっきりにしてください。
 まきをさんの言葉が耳に蘇り、咄嗟に顔を逸らしてしまった。宇髄さんに触れられた唇が、じわじわと熱を上げていく。その熱を感じながら、横目で宇髄さんの表情を確認する。

「やっぱ嫌だよな。久しぶりに会った男に触られんのは」

 どこか自嘲的に笑うそのさまが、胸の内側を締めつけた。ああ、この人にこんな似合わない笑い方をさせてしまった。

「違うんです。全然、違います」

 たった一瞬、指先で唇を撫でられただけなのに。それなのに、そこから沁み込んだ熱が全身に広がっていく。胸がどくどくと騒がしくなる。
 勘違いしてほしくなかった。嫌悪から顔を背けたわけではないと。

「私、男の人に触られると虫唾が走るんです。でも、宇髄さんには触れられても平気で。それはきっと、宇髄さんのことを信頼しているからだと思うんです」

 唐突に語り始めた私を、宇髄さんは静かに見つめていた。その視線で、体の熱がさらに増していく。

「ただ、分からないのが、私も宇髄さんに触れたいと思ってしまうことで……。これは肉欲からでしょうか? それとも――」

 不意にくいっと顎を引かれた。宇髄さんの大きな手が私の顎を持ち上げ、視線を無理やりに合わせたのだった。

「お前が俺に惚れてるからじゃねえの?」

 呆気に取られる私に、宇髄さんはそんな言葉を落とした。その途端、胸が大きく跳ねた。どくんどくんという心臓の鼓動が、まるで耳の中で鳴り響いているかのようにうるさい。

「これが……惚れる?」
「俺はそう思ったが、なんか違和感あるか?」

 違和感はなかった。むしろ、長い間喉元に詰まっていたものが、あるべき場所へするりと流れていったような、そんな感覚だった。

「いえ、納得しました」
「やけに素直だな」

 宇髄さんは目を丸めたのち、

「そうか。お前やっぱ俺に惚れてやがったか」

と言って、笑った。
 ――これで、思いを断ち切ってください。
 まきをさんにそう言われたことを思い返す。宇髄さんだけではない。奥様方も察していらっしゃったのか。私の抱くこの感情が、何なのかを。

「いいぞ。触れよ」

 そう言われて「はい?」と首を傾げれば、宇髄さんは「おら」と手招きをした。体に触るのを許可するという意味なのだと理解し、恐るおそる手を伸ばす。まずは宇髄さんの胸板辺りを人差し指で軽く突く。着物の上からでも分かるその硬さに、思わず感嘆の声が漏れてしまう。宇髄さんは少しくすぐったそうにしていた。
 続いて、耳たぶ。耳の装飾に触れていると、宇髄さんは「これ邪魔か?」と訊いた。

「いえ。ずっと触ってみたかったんです。こういうのを耳に付けている人って、なかなかいないから。どんな感じなんだろうって」
「へえ。で、どんな感じだ?」
「ひんやりしますね。冬場は大変じゃないですか? 凍傷になりそう」
「俺の耳はそんなヤワじゃねーよ」

 そうですかと返し、次は顎先に触れる。父の顎は髭でざらついていたけれど、宇髄さんのは肌触りが良かった。

「宇髄さんは体毛が薄いんですね」
「は?」
「顎、髭の跡も分からないですし。思えば脇の下も綺麗でしたよね」
「……お前、んなとこ見てたのかよ。すけべなヤツ――って、おい」

 話している途中で鼻を摘まれた宇髄さんは、呆れたように半笑いを浮かべながらも、少し睨んでみせる。形のいい鼻。筋がすうっと通っていて。そんなことを思いながら、宇髄さんの鼻の頭を指で撫でていると、宇髄さんは「くしゃみ出そうになる」と言った。
 こんな姿、今まで見たことがない。なされるがままの宇髄さんに、なんだか体の内側がくすぐったくなった。堪えきれなくなった私は膝立ちになり、その頭を抱き寄せる。

「お前ってさ、案外あるよな」
「あるって? 何がですか」
「胸が」

 意図せず宇髄さんの顔を自分の胸に押し付ける形になっていたと気づき、急いで離れようとする。けれど宇髄さんは私の腰に腕を回し、体が離れないように固定するのだった。

「おらおら、もっと触ってみろよ。せっかく俺が許可してやってんだ。遠慮すんな」

 そう言われ、「では……」と頭に手を伸ばす。もつれ知らずの、さらさらの髪。眼帯を押し上げる。左目の傷跡をなぞる。頬を摘む。唇に触れる。そこで、ふと手を止めた。宇髄さんは何も言わず、じっとこちらを見上げている。

「宇髄さん」

 囁くような声を漏らし、ゆっくりと顔を寄せ、軽く口づけをした。ちゅっ、と音が鳴ってしまい、顔から熱が噴き出しそうになった。
 咄嗟に体を押し離そうとしたが、それも虚しく、むしろ一層強い力で抱き寄せられた。

「随分と焦らしてくれるじゃねえか」

 耳元でそう囁かれたかと思えば、体は後ろに倒れていた。
 宇髄さんは何度も口づけを落としながら、私の着物を脱がせていく。宇髄さんの指が、舌が、私の敏感な部分に触れる。そんなところ舐めないでください、と体を捩らせようとしても、宇髄さんは私の手をやさしく拘束して、落ち着かせるような言葉を掛けて、そのまま舐めたり触れたりを続けた。
 その昔、男女の営みを知りたくて手近な男性隊士と致した。その時の感覚とは、まるっきり違った。触れられているだけなのに、油断すると意識を手放しそうになる。全身を駆け巡る快感に、たまらず声が漏れてしまう。それは自分でも聞いたことのなかった声だ。

「我慢すんな」
「……え?」
「出せよ、声」

 声を殺そうと口を押さえていると、宇髄さんがそう言った。「出せと言われて出せるものではありません」と強がったことを言えば、宇髄さんは面白そうに喉を鳴らした。そうして私の胸の頂を指で挟み、扱くように動かしながら、もう一方の突起を舌で転がす。すると私の口からは呆気なく声が漏れたので、宇髄さんはフッと笑った。
 宇髄さんは自らの腰帯を解く。露わになったその体を直視できずにいると、宇髄さんはゆっくりと私の方へ上体を倒しながら「怖くねぇから」と宥めるように頭を撫でてくれた。
 切ないとは、こういう気持ちのことを言うのだろう。宇髄さんが与える熱が、今このとき限りのものだと分かっているから。

「……うずい、さん」

 宇髄さんは挿入の手前で動きを止め、ためらうような表情を浮かべていた。ああきっと、宇髄さんも同じ気持ちだったのかもしれない。――これっきり。今日が、最後。

「するしないに関わらず、こんな状況になったんですから……今日が終われば、私は消えます」

 宇髄さんは、一瞬表情を消した。しかしすぐに目に力を込めたように私を見つめ、

「逃がすかよ」

 そう言って、腰をひと突きした。途端に腹の中が内側から持ち上げられるかのような、そんな圧迫感が襲い、目を閉じてしまう。
 宇髄さんは腰の動きを止め、「なあ」と呼び掛ける。

「家族になってほしい」

 目を開ければ、宇髄さんは私をまっすぐに見おろしていた。その瞳は、微かに潤んでいるようにも見えた。
 
「……私が、宇髄さんの妻になるということですか?」
「そうだ」

 一瞬。ほんの一瞬だけ、思い描いてしまった。朝起きるとき、夜眠るときに、隣に宇髄さんがいる光景を。

「――できません」

 そう返せば、宇髄さんは目を細めた。

「もしそうなれば私は、家庭の均衡を乱す存在になってしまいます」
「なぜそう思う」
「だって、もう完成されてるじゃないですか。宇髄さんには雛鶴さんがいて、まきをさん、須磨さんもいる。それに……私はきっと、宇髄さんを独り占めしたいと思ってしまうから」

 あさましい女。宇髄さんと奥様方がどんな思いをしてここまで生き抜いてきたか知らないくせに。突然どこからともなく現れた凡庸な女が、立ち入っていい場所ではない。――そんなの、ずっと前から分かっていたこと。だから私たちは、互いの間に太い一線を引いていたんじゃなかったの? いつの間に、こんな、身分不相応な思いを抱いてしまったんだろう。

「初めてなんだよ。欲しいと思ったのは」

 宇髄さんは、痛みを我慢するかのような顔をしていた。そうして私の腰を掴んで深く貫くと、激しく抽送を繰り返す。

「欲しい。欲しい。どうしたら手に入る?」
「そん、っ、な、子どもじみたこと――」

 言葉の合間に快感を逃すための声が漏れてしまいそうになるのを、必死に堪えた。宇髄さんは唇を押し当てるようにして、私の口内を舌で犯す。その感触や音、さらには腹の中で質量を増した宇髄さんのそれで、頭の中が白く弾け飛びそうになる。

「う、ず……うず、いさん、っ、もう……」
「余裕でいられねぇんだよ。お前のことになると、俺はよ」


 その後、山の向こうが白み始める頃まで行為は続いた。何度も気をやる私を撫でる宇髄さんはもう、家族になってほしいとは言わなくなっていた。
 終わると、宇髄さんは脱力するように私の隣へ倒れ込むと、そのまま眠ってしまった。けれど「逃がさない」という言葉の通り、宇髄さんは眠りに落ちてもなお、その両腕を私の体に巻きつけて離さなかった。

「……こういう顔なんだ」

 宇髄さんが隣で寝ている。こんな無防備な顔を見るのは、初めてだった。眠っている時の宇髄さんを最後に見れて、よかった。欲を言えば寝起きのこの人も、見てみたかったけれど。

「宇髄さん」

 男女が一線を越えた先には、何があるのか。私たちの場合、それは別れだった。別れの前に宇髄さんが与えてくれた熱や胸に感じたこの潤いは、後生忘れない。全部抱えて生きていく。
 絡み付いた宇髄さんの腕に、そっと触れる。

「あなたに出会えて良かったです」

 耳のいい宇髄さんの鼓膜を揺らさない程度に、小さく小さく囁いた。
 そうして、もう二度ともつれ合うことがないように――断ち切る。



 天元が目覚めると、彼女は忽然と姿を消していた。深く眠ってしまった自分に罵声を浴びせながら辺りを見渡すも、やはりどこにも居ない。ただ彼女の寝ていた枕元には、切り落とされた黒髪だけが散らばっていた。



(2023.06.14)

まだもう少し続く予定です。


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