ひとひらの春

 大学の春休みは長い。学費を自分で払っている実弥にとって、この約二カ月間の休みは、まとまった稼ぎを得る貴重な機会だった。
 前に倉庫型スーパーで品出しをやっていた時に一緒だった先輩から突然連絡が来たのは、休みに入って間もない頃だった。足を骨折してしまったから、今自分がやっているバイトに代理で入ってもらえないか。そう電話口で言われ、そのバイトとは何かと問えば、返ってきた言葉はこうだった。デリヘルの運転手。そういう店へ行ったことがない実弥にとって、その言葉には頭の動きを一瞬止めてしまうほどの威力があった。ためらう気持ちと、先輩の頼みは断れないという気持ちとがせめぎ合い、返答に困った。しかし、時給はいいぞ、という一言に背を押され、春休み中だけという条件でドライバー代理を務めることになったのだった。
 事務所や自宅で待機している女性キャストを社用車でピックアップし、客の待つ場所まで送り届ける。その後、仕事を終えたキャストを迎えに行き、待機所まで送る。それだけの仕事かと言われればそうだが、普段は家族以外の異性と接する機会が乏しい実弥にとって、狭い車中で複数人の女性たちと過ごす時間は、正直苦痛だった。ひっきりなしに喋り掛けてくる女性もいれば、仕事が嫌だと泣く女性、客の元へ行くのを拒む女性もいる。うまい接し方が分からない実弥は、話し掛けられても「はあ」「そうですか」ぐらいしか返せない。泣いていることに気づいても言葉を掛けられないし、ごねられたら事務所のスタッフへ電話して対応してもらうことしかできない。自分には向かない仕事だと思いつつ続けているのは、先輩への義理立てからだ。


「なに、その目」

 ピックアップに向かったホテルの前に着くと、そこで待っていた女性キャストは不機嫌そうにミニバンへ乗り込んできた。彼女が後部座席に腰を落ち着けるのをルームミラーで確認しつつ、発車のタイミングを見計らっていると、ミラー越しに視線がぶつかった。その途端、そんな鋭い声が投げられたのだ。
 ハンドルを握る実弥は、思いがけない言葉に「はい?」と漏らす。

「見下してるの? 私たちのこと」
「……いや別に」
「ほらその目」
「これは――」
「あー、もしかして」

 彼女は運転席と助手席の間から半身を乗り出すと、実弥の顔を覗き込んできた。ふわりと鼻先をくすぐった石鹸のような香りに、実弥は奥歯を噛み締める。

「好奇心を押し殺してる目なの? この女、客とどんなプレイしてきたのかなあって」
「……元からこういう目つきなんで」

 その言葉に、彼女はまばたきを止めて実弥の目を観察するように見つめた。一方で、実弥は視線を逸らし続ける。

「ねえ、学生くん」

 左の耳に吹きかけられた吐息に、実弥はびくりと肩を上げた。

「本当のことは分かんないけど、なんにしたって気分が良いもんじゃないからさ。だからその目つき、どうにかしてよね」

 後部座席に戻った彼女は、ふう、と深い息を吐いたのち、携帯に目を落とした。実弥はその様子をルームミラーでうかがいつつ、これまで見聞きしたことを思い起こす。
 ――彼女のことは、よく知らない。知っているのは、車に乗り込む時と降りる時、車中で過ごす時の様子だけだ。無駄な会話はせず、泣き言も吐かずごねることもない。ただ、いつも虫の居所が悪いように口角を下げて、窓の外を睨むように見つめている。けれど携帯で何かを見ている間は、口角をわずかに上げ、眉間に刻まれた皺も消える。前に、他のキャストが彼女について話していた。あの子はNGがないからコアな趣味を持つ常連が多い、結構ヤバめな目にも遭ったらしい、よく辞めないよね、と。
 それだけこの道で働かなくてはいけない理由があるのだろうと、ルームミラー越しに彼女を見ながら、実弥はなんとなくそう察した。
 しかし、そこではたと我に返る。他人の事情を推測するなんて野暮なことはやめろ。実弥は自分の頭を拳で打つと、アクセルを踏み、車を発進させた。そんな様子を後部座席から静かに見ていた彼女の視線に、実弥が気づくわけもなかった。



「送ってもらわなくて大丈夫だってば」
「そう言われても。店から頼まれてるんで」

 雨が降り続いていた、ある日の夜。終電のない深夜の時間帯であればキャストを自宅近くまで送り届けるようにと言われていた実弥は、車に乗り込んできた彼女に住所を尋ねた。彼女は一度拒んだが、実弥が「そうしないと俺が注意されるんで」と言えば、少しの沈黙を置いたのちにぼそぼそと住所を告げた。

「ありがと」

 彼女は、まるで窓につく水滴を数えるように見つめながら、声だけは実弥の方へと向けてそう言った。

「……別に。仕事なんで」

 着いた先は、見るからに築年数の古い木造二階建てアパートだった。車を停めてすぐ、彼女が窓の外を見ながら「え?」と声を漏らす。実弥がその視線をたどってみれば、アパートの前に水色の傘が。その傘の下から顔を覗かせたのは、まだ十にも届かないほどの男児だった。彼女は慌てた様子で車を降りると、傘もささずに男児の方へと駆け寄っていく。
 二人が錆びれた外階段を上がっていくのを車内から見ていると、それに気づいた彼女が、どことなく気まずそうに頭を下げた。実弥もそれに返すように小さく頭を下げる。そうして、彼女と男児が玄関ドアの向こうに消えるのを確認すると、

「……子ども、か」

 そうひとりごちた。



「弟だからね」

 翌日、客先に向かうため車に乗り込んできた彼女は、開口一番にそう告げた。「はあ」と返した実弥だったが、「子どもだと思ったでしょ」という言葉には素直に頷いた。
 車が走り出すと、彼女は窓の外を見ながら続けた。

「悪い夢見て起きちゃうのか、たまにああやって外で待ってることがあるんだよね。夜中だし危ないから家の中に居なって言ってるんだけど、聞かなくて」

 それは実弥に話し掛けているのか、ひとりごとなのか、区別が曖昧なほどの声量だった。ルームミラーへ目をやれば、彼女もちらりとこちらへ視線を向けた。実弥は自分に話していたのだなと理解し、「たぶん」と声を押し出す。

「聞き分けが悪い年頃なんすよ。俺の弟たちもそうなんで」
「……学生くんにも年の離れた弟がいるの?」
「まあ、はい。妹も」

 実弥は再びルームミラーへと目をやる。いつものように助手席の後ろに座っている彼女は、体ごと運転席の方へ向けて、ミラーに映る実弥ではなく、実弥の後頭部を見つめていた。その彼女の瞳は、いつもより光を含む量が多いように見えた。

「もしかして大家族だったりする?」
「あー、はい。食べ盛りばっかなんで、米と金はいくらあっても足りないっすね。ヒイヒイ言いながら暮らしてます」

 短く笑った実弥の左隣に、彼女の顔が不意に現れた。実弥はそれに目を見開いたが、すぐに視線を前方へと戻す。

「それでこの仕事を?」
「これは知り合いに代理を頼まれて。でもまあ、時給がいいって聞いたんで」
「思ったより稼げないでしょ」
「あー確かに、ガソリン代はこっち持ちなんで……思ってたのと違うことはちょいちょいありますね」
「こんな無愛想な女がいることも予想外?」

 実弥はまた、短く笑った。はぐらかすような笑みだった。そんな実弥から「危ねえですよ」と後ろへ戻るよう促された彼女は、

「学生くんは、苦学生くんだったんだね」

と、ぽつりとこぼした。そうして後部座席へと体を戻し、窓の外を見やりながら静かに言うのだった。

「ごめんね、きつく当たっちゃって。ちょっと嫉妬してたんだ。私も大学、行きたかったから」

 ちょうど赤信号で停止したタイミングだった。実弥は束の間、目を伏せる。見ようとしたつもりはなかったが、垣間見てしまったような気がしたのだ。踏み込んではいけない、彼女の事情を。



 桜の蕾は、もういつ開花してもおかしくないほどにふっくらと膨らんでいる。自宅待機中の彼女をピックアップするためにアパート前に停車していた実弥は、窓の向こうに見える桜木をぼうっと目に映しながら、後部座席のドアが開くのを待っていた。普段は事務所で指名が入るのを待っている彼女が、こうして自宅で待機するのは珍しい。
 しかし、約束の時間になってもなかなか家から出てこない。何かあったのだろうかと、実弥が外へ出ようとした時だった。アパート二階の角部屋から彼女が出てきて、急ぎ足で階段を下りてくる。そうして実弥が待つ車へと駆け寄ると、

「今日の出勤、やっぱ難しいかも」

と、少し息を上げながら言った。事情を聞けば、弟が熱を出したのだと言う。今朝発熱して昼に病院へ連れて行ったけれど、まだ回復の兆しが見えないらしい。「どうしよう」と弱った様子の彼女に、実弥は言う。

「そんなん決まってんじゃねえか。仕事なんざ休んで家で看病――」
「ドタキャンは店長に怒られるから。それに常連さんからの指名だし……」

 実弥が勢い余って口調を崩したことにすら気づかぬほど、彼女は困惑しているようだった。

「弟、今どうしてるんですか」
「え? えっと、今は寝てるけど……」
「じゃあ急いで身支度してください。あんたをホテルに送り届けた後、俺が面倒見てるんで」

 驚いたように目を大きく開いた彼女に、実弥は続ける。

「この指名さえこなせばドタキャンにはならないんすよね。だったらその後で、体調不良とかなんとか言って早上がりしたらいいんじゃないっすか」

 彼女は一瞬の間を置いたのち「わかった」と頷き、アパートへと戻っていった。



「この間はありがと。これ、大したものじゃないけど」

 事務所の前で車内の整理をしていると、出勤してきた彼女が実弥の元へと寄ってきた。差し出された紙袋の中には、白い缶が入っている。

「クッキー。よかったら、ご家族のみなさんと」
「……どうも」
「なに、その目」

 小さく頭を下げた実弥を、彼女は上目で見上げる。

「この女お礼とかできるんだあ、って思ってる目。でしょ?」

 そう言う彼女の口の端は、わずかに緩んでいるように見えた。

「正解」

 実弥が答えれば、彼女は「失礼な」と実弥の背をぱしんっと叩く。その顔には笑みが浮かんでいた。

「じゃあ今日もよろしく、苦学生くん」

 実弥は事務所へ入っていく彼女の後ろ姿を呆然と見送りながら、初めて笑った顔を見たな、と思うのだった。そうしながら、彼女の家のことを思い起こす。
 ――彼女が仕事をしている間の二時間弱、熱で寝込む弟の看病をした日のこと。2DKのアパートの室内はきちんと整えられていて、二部屋あるうちの一室が弟との寝室、もう一室がリビングになっていた。寝室には弟の学習机が置かれ、椅子にはブルーのランドセルが掛けられていた。リビングにある本棚には絵本や図鑑が並んでいたが、その片隅には数学や生物の参考書、看護学校の入試過去問集がひっそりと佇んでいた。悪いとは思いつつも、過去問を手に取る。今から五年ほど前に発行されたものだった。「私も大学に行きたかった」という彼女の言葉が蘇る。詮索するな。実弥は自分の頭を拳で打つと、本を棚に戻し、寝苦しそうに唸りはじめた男児のいる寝室へと向かったのだった。



「ごはん食べる時間なかったの?」

 深夜一時過ぎ。彼女を後部座席に乗せて自宅まで送り届ける途中、実弥の腹がぐるると鳴った。胃がひもじさのあまり悲鳴を上げているような、そんな音だった。

「……タイミング逃して」

 ぼそりと返せば、彼女は携帯を片手に「ふぅん」と喉を鳴らした。
 以前までは、女性キャストをホテルに送り届けた後、プレイが終わるまでホテル近くに駐車して時間を潰していた。車中で大学の課題を済ませたり軽食を取ったりしていたのだが、最近はその気が起きない。特に彼女が客の相手をしている間は何も手につかず、ただただ時間が経つのを待った。一分がひどく長く感じた。
 彼女をホテル前に下ろす時、客からチェンジを喰らって戻ってくればいいのにと思う。けれど、店長いわく「稼ぎ頭」である彼女が客からチェンジされることはまずない。彼女を迎えに行く時は、「いいお客さんだったよ」という言葉が刺さるようになった。たとえ「嫌なお客だった」と言われてもあれこれと気に掛かってしまうのだが。そもそも、仕事に文句を漏らすことのない彼女がそんなことを言うはずもない。
 ともかく近頃は、前と同じ心持ちでは働けないようになってきている。春休みが終わるまであと二週間ほど。早くこのバイトを終える日が来ることだけを願うばかりだった。

「うそでしょ、あの子また出てきてる」

 アパート前で停車すると、彼女は慌てた様子でシートベルトを外す。しかしドアを開ける前に、「ありがと。おつかれさま」と実弥へ笑いかけた。脳がふやけたような感覚になりつつ、車を降りていった彼女の背を目で追えば、アパートの階段に彼女の弟がちょこんと座っているのが見えた。そのまま家へ入っていくのかと思いきや、弟は実弥の方を指し、姉に制止されるのを振り解いてこちらへ駆け寄ってきた。

「ねえ実弥くん、ぼくこれキャッチしたんだよ」

 弟はそう言いながら、運転席の窓を開けた実弥へと手を伸ばす。その指先に摘まれていたのは、一枚の桜の花びらだった。

「すごい?」
「おう、すごいなァ」

 ふと見れば、アパートの敷地内にある桜の木はすっかり開花して、夜風に花をひらひらと舞わせていた。

「ねえ、もう仕事終わりでしょ。うちでごはん食べて行かない?」

 彼女は弟の肩にやさしく手を回しながら、車中の実弥に向けて言う。

「この子がチキンライス作ったんだって」
「すごい?」

 店の子と必要以上に親しくなってはいけない。万一手を出したら、良くて罰金、悪くて半殺し。そんな話を他のスタッフから聞いていた実弥は、「あー」と言葉に詰まる。

「私の家じゃなくて、歳の離れた友達の家に上がるんならいいでしょ」
「……友達?」

 彼女は弟の頭をぽんぽんと叩く。

「友達になったって聞いたけど。違うの?」

 いたずらっぽく笑う彼女と、無垢な目でこちらを見上げてくるその弟。実弥は観念したようにため息を吐くと、「車停めてくる」と言って窓を閉めるのだった。


 弟を寝かしつけてリビングへ戻ってきた彼女の姿に、実弥は目を剥いた。彼女は先ほどまで着ていた服を脱ぎ、部屋着姿になっていた。問題はその格好だ。上はキャミソール一枚に、下は太ももがあらわになるほど裾の短いパンツ。同年代の女性への免疫がほとんどない実弥にとって、その姿は刺激が強すぎた。

「あ、ごめんごめん」

 顔を背けた実弥に気づき、彼女は腕に掛けていたガウンを羽織った。下も隠せよと思いつつ、実弥はローテーブルに置いていた飲みかけの缶ビールを掴み、一口飲む。

「で?」
「……は?」

 彼女もローテーブルのそばに腰を下ろすと、冷蔵庫から出したばかりの缶ビールを開ける。

「どうして私がデリヘルで働いてるのか、っていう話だっけ」

 そんな話は一言もしていなかったはずだ。彼女は缶を傾け、ごくごくと喉を鳴らしながら飲む。これで三本目だ。きっと酒で気持ちが緩んで、吐露したい気分になったのだろう。そう思い、実弥は何も返さず、柿の種を一つ摘む。

「うちの両親、ほーんとに困った人たちでさ。親の自覚っていうものがないんだろうね。好き勝手に遊びまわって、派手にケンカ別れして。私と弟は母親に引き取られたんだけど、あの人すーぐ男作って蒸発しちゃってさ。お金ぜーんぶ持って出て行ったんだよ。高校の学費も、明日食べるお金だって……」

 テーブルに缶を置いた彼女は、膝をぎゅっと抱える。ほどよく肉づきの良いその太ももから視線を外しながら、実弥はまた一つ柿の種を摘み上げる。

「いろいろ働いてみたんだけど、結局ここに行き着いちゃった」

 ほとんど囁くような声だった。実弥は何も言葉を発さず、ただ唇を噛む。

「でも、ちゃんと終わりは決めてるの。弟が大学まで行けるぐらいのお金が貯まれば、きっぱり辞めて昼職でも探そうと思ってる」

 まるで、自分に言い聞かせているような口ぶりだった。
 実弥は本棚の方へと目をやる。

「看護師になりたいんじゃねえのかァ」

 彼女は実弥の視線をたどったのち、「見られちゃったか」とおどけたように言った。

「自分のためにお金を使うより、弟のために貯めた方がいいかなって」

 ふっと笑った。けれどそこには、どこか自嘲っぽさがにじんでいた。

「別にあんた、自分のために看護師になろうと思ってるわけじゃねえんだろ」

 実弥の言葉に、缶に口を付けようとしていた彼女の動きがぴたりと止まる。

「学生くん、なんか口が悪くなってきてない?」
「……酒のせいっすよ」

 彼女はじいっと実弥を見つめる。実弥はその目から逃れるようにそっぽを向きつつ、ビール缶に口を付ける。

「まあいいや。無礼講」

 そう言った彼女は立ち上がり、小さな出窓を押し開ける。実弥はその後ろ姿へちらりと目を向けた。先程まで膝を抱えて座っていたからか、膝裏がほのかに赤くなっている。陶器のように白い肌とは、ああいうことを言うのだろう。実弥はそんなことを思った自分の額を拳で打つ。

「それって癖なの?」
「え?」
「よくやってるから」

 言いながら、彼女は実弥の仕草を真似るように、自分の頭を拳でごつんと打って見せた。はぐらかすように鼻を擦った実弥に、彼女はくすりと笑った。

「ほら、学生くん見て。ここからあの桜がきれいに見えるの」

 実弥は彼女の指す方を見ようと、座ったまま首を伸ばす。「そんなんじゃ見えないから」と手招きされ、実弥は渋々と立ち上がって彼女の隣へ向かう。
 彼女の言う通り、この出窓からは、アパートの敷地内に根を張るあの桜木がよく見えた。暗い夜の中で、淡く白く浮かび上がるその様はどこか儚げだった。

「弟が大学に行く年齢になるまで、あと十年。その頃私はもう三十代で。それまでこの業界で働いたとして、その後はたして昼間の仕事に就けるのかなって。きっと稼ぎは今より少ないだろうし、弟だって大学に入った後もしばらくはお金が必要だし。それなら、今のうちから手に職をつけておくのもいいかなって。看護師ってほら、いつの時代も必要とされる仕事じゃない? 人のお世話するの嫌いじゃないし。……でもまあ、そんなのは無謀な夢」

 滔々と語った彼女だったが、最後の方は、輪郭のはっきりしない声音になった。

「無謀には思えねえけどなァ。あんたなら手が届く夢だろ」

 実弥は隣に立つ彼女へと横目を向ける。彼女は目を丸くして実弥を見上げていた。しかし視線が合うと、はっと我に返ったようにまばたきをし、

「私のこと知らないくせに」

と、口早に言った。

「あー、確かに知らねェわ」

 実弥が短く笑えば、彼女もつられるように笑った。そうして、ぽそりと呟くように言う。

「……看護学校、今から頑張って勉強したとして、受かるかな」
「受かるように努力しろォ」

 彼女は眉を下げ、どこか困ったような、安堵したような笑みを浮かべた。

「学生くんは? 将来何になりたいとかあるの?」
「言わねェ」

 実弥は出窓から離れ、再びローテーブルの方へ戻る。彼女は出窓に背を向けて、

「えー教えてよ。ねえねえ、ヒントは?」

と、だだをこねる子どものように言った。
 実弥はおもむろに立ち上がると、本棚から一冊の本を手に取り、ローテーブルに置いた。それは数学の参考書だった。

「こういうの教える仕事」
「……え、先生? 数学の」

 実弥は「正解」と短く返し、ビールを飲む。彼女は参考書と実弥とを交互に見る。

「待って。数学の教師になりたいってことは、数学が得意ってこと?」
「じゃなきゃァ目指さねえだろ」

 彼女は小さく息を呑んだ。そして、

「あ、あのっ、私……!」

 胡座をかく実弥のすぐ隣に膝をつくと、まるで縋り付くかのように実弥の腕に両手を乗せた。

「苦手なんだよ数学。だから、もしよかったら……教えてくれない?」

 酒のせいなのか、感情が昂っているせいなのか。こちらを見上げる彼女の目は、いつも以上に潤んでいるようだった。
 実弥は彼女から視線を逸らし、空になった缶をテーブルに置きながら言う。

「いいのかァ? 俺、時給高ェけど」
「ほんと? 今の私の時給とどっちが高いかな」

 思わず彼女へと目を向けた実弥は、いたずらっぽく笑うその顔に、ふっと頬を緩めた。

「そのマウントは無しだろ」

 左腕に乗せられた彼女の手のひらは、熱を持っていた。手から視線を少し上げれば、まるで外に咲いているあの桜のような淡いピンク色のキャミソールが視界に入った。その胸元には影ができている。胸の谷間。それは、落ちれば深そうな穴のようにも見えた。
 そこで実弥は慌てて目を逸らす。深い穴だなんて、バカかよ俺は。そう思いつつ自分の頭を打つ実弥に、彼女はフッと息を漏らした。

「見て。こっち、見て」

 彼女は実弥の顎にそっと手を当てると、自分の方へと向かせた。彼女はゆっくりと瞼を閉じながら顔を寄せる。落ちてくる影に、実弥も目を閉じた。驚くほどに柔らかく、なめらかで、ほんのりと熱い。そんな彼女の唇の感触に、実弥は眉間をぴくりと震わせた。

「ねえ、知ってる? 店の子に手を出したら、店長に半殺しにされるんだよ」

 唇を離すと、彼女は実弥を上目遣いに見上げながらそう言った。

「……んなこたァ知ってる」
「そ? じゃあ今日はここまで」

 彼女は落ちてしまった右肩のガウンを引っ張り上げ、ビールを一口飲む。

「続きがしたかったら早くドライバー辞めてよね、学生くん」

 缶の飲み口をかじったまま見上げてくる彼女に、実弥はハァ、と深いため息を吐いた。早く辞めてくれなんて、こっちのセリフだ。でもそんな無責任なこと言えない。その気持ちを深い息に込めて吐き出したのだ。代わりに出た言葉は、こうだった。

「看護学校、俺が絶対受からせてやるから」

 彼女は丸くした目を次第にやわらげ、「君はいつから私の担任になったの?」と言って、ころころと笑った。しかし、不意に笑うのをやめる。

「なに、その目」

 実弥は視線を逸らすことなく、彼女を見つめていた。

「欲情を抑えきれない目かな?」

 彼女は缶を置き、首をかすかに傾げる。実弥は体を前に倒し、彼女の腕を掴んだ。その拍子に、彼女のガウンがするりと滑り落ち、右肩があらわになる。

「手を出したら――」
「知らねえ。忘れた」

 ぐいっと腕を引かれるがままに実弥の体へと倒れ込んだ彼女は、

「都合のいい頭」

と、ゆるく握った拳で実弥の額を小突くのだった。
 二人はどちらともなく顔を寄せ合い、再び唇を重ねる。唇の形や歯の並びを確かめ合うような、そんな深くて湿っぽくて、頭がとろけていくようなキスを続ける二人のもとへ、開けたままの出窓から桜の花びらが一枚舞い込む。けれど二人にはもう、そんなひとひらの春に気づけるほどの余裕なんて、どこにもなかった。





(2023.06.04)

アンソロ企画『チューベローズが咲く前に』寄稿


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