きっかけは分からない。気づいた頃には、一学年上の彼女に良いように扱われていた。
 「七海くーん」と間延びした調子でそう呼ばれたら、不思議と無視なんてできなかった。「七海って意外と生き物に懐かれやすいタイプだもんな」と茶化すように言ってきた灰原に盛大なため息で返せば、彼は愉快そうに笑っていたっけ。

「かわいいね。君のその反応」

 ある夜、彼女は「一緒にプリン食べよ」と言って強引に部屋へ入ってきた。かと思えば、そのままベッドへ押し倒されたので思考回路が追いつかずに目を見張っていると、「驚いちゃって。七海くんは本当にかわいいね」とまた言った。

「……その喋り方、夏油さんみたいですよ」
「そう? うつっちゃったのかな。いつも一緒にいるから」

 ふふっと笑った彼女は、熱のこもった目で見おろしてくる。その視線から逃れながら、

「プリンは」
「そんなの嘘だよ。あ、もしかして食べたかった?」

 ごめんねぇ、と全く反省の色が見えない声音で言いながら、彼女は首筋に顔を埋めてくる。こうやって身体的距離が限りなくゼロになったことは、以前にもあった。体術訓練で怪我をしてしまい、家入さんに治してもらおうと部屋を訪ねれば、そこにいたのはなぜか彼女で。「夜這い?」と笑った彼女に押し倒され、顔中にキスをされた。そこへ現れた家入さんから「やめとけ」と制止された彼女は、はあっと大袈裟なため息を吐き、「じゃあ続きはまた今度ね」と言った。彼女からはアルコールの匂いがしたので、あれは酔っていたんだろうと思う。

「今日は酔ってないから」

 あの時のことを回想しているのだと察したのか、彼女はきっぱりとそう言い切った。そうして、ゆっくりと唇を重ねる。かたく閉じ合わせた唇を割ろうと、何度も角度を変えながら舌先で突いてくる。
 そういえば、彼女を止めた家入さんからは慣れを感じた。酔ってキス魔になる彼女の対応には慣れている、という雰囲気を。

「……こういうこと、夏油さんや五条さんとも?」

 彼女の肩をぐっと押して唇を離し、そう尋ねる。

「だけじゃなかったら?」

 余裕げに言った彼女だったが、その呼吸は浅くなっているように見えた。

「例えば、灰原くんとも、とか」

 夏油さんと五条さんが異性関係に奔放なことは知っている。そんな彼らと同学年なら、これまで過ごした時間も当然長かったはず。一緒に泊まりの任務に出たことだってあるだろう。

「思春期の男女がこんな狭い空間にいたらさ、そりゃあこじれるよねぇ」

 今までは考えないようにしていた。けれど、想像しようとすれば簡単だ。夏油さんや五条さんとそういうことになっている様子を。別に嫉妬はしない。あの二人となら仕方がないかと思える。きっと互いに本気にはならないからだ。――でも、灰原は。灰原は、違うだろう。

「どうしたの? 怖い顔しちゃってるよ」
「……別に」

 顔を背けたのに、彼女は首を傾げながら「んー?」と迫ってくる。つん、と頬を突かれたので、力任せに振り払う。すると彼女は「今のはちょっと痛かった」と口先を尖らせた。

「いじけてる? なんで?」
「いじけてません」
「あっ、わかった。七海くん灰原のこと好きなんでしょー」
「好きですよ」
「おお、やけに素直。それは性的対象として?」
「友人としてです」
「ふうん。じゃあ私のことは好き?」
「好きじゃありません」

 顎をぐいと持ち上げられる。彼女は強引に視線を合わせると、静かに言った。

「もっかい。目ぇ見て言って」
「……好き、じゃ――」
「私知ってるんだよね。七海くん、嘘つくとき目合わせられなくなるって」

 言葉が続かなくなる。押し黙り続けていると、

「うーそ」

と、彼女は頬を緩ませた。何が嘘なのか分からず、はい、と語尾を上げて問い返す。

「私、誰ともしたことないよ。キスも七海くんが初めて」
「……は?」
「あー緊張したあ。もう心臓が飛び出そう。息もうまくできないしさぁ」

 脱力したように倒れ込んできた彼女は、そのまま胸にぐりぐりと顔を押し付けながら、

「七海くんのせい。この鼻血も全部七海くんのせい。責任取ってよね」

 理不尽な。勝手に部屋へ上がり込んできて散々キスをしてきたのはそっちだ。そして彼女は今「鼻血」と言ったか?

「鼻……、っ!」

 自分の胸元を見てみれば、そこには鮮血が滲んでいた。彼女は鼻を摘みながら「ごめんね」と舌を出す。どうして人のシャツで鼻血を拭けるんだろう。どういう倫理観の持ち主なんだろう。分からない。この人は本当に、よく分からない。

「あ、ティッシュ? ありがとう。優しいね七海くん。シャツ汚されても怒らないんだね」
「……もう汚れてしまったものは仕方ないので」
「んーなるほど、覆水盆に返らず精神。七海くんの優しさってちょっとドライだよね。でも偽善っぽくないから信頼できる」
「鼻血を付けてきた人が何を偉そうに言ってるんですか。反省はしてください」

 でも彼女に関して言えば、この訳の分からなさが不快ではないのだ。それが自分でも理解できなかった。

「七海くんがあまりにもかわいいから、お姉さん鼻血出ちゃった。ごめんね? でも七海くんも反省して?」

 なぜ反省を。目を細めて見上げれば、彼女は口元にうっすらと笑みを滲ませて言った。

「好きじゃないって嘘ついたこと」

 彼女はこちらの返事も気にせず、再び口付けをする。唇から頬、顎先、喉、鎖骨へと這うなかで、不意に首筋がぴりっと痛んだ。

「あーごめん、キスマーク付けちゃった」

 どこか満足げに笑う彼女の体を押せば、彼女は少し驚いたように目を丸くした。それに構わず上体を起こし、彼女を真正面から捉えて口を開く。

「……やられてばかりで――」
「悔しい? 七海くん、案外負けず嫌いだもんね」

 さっきから随分と知ったような口を。けれど、そのどれもが図星なので何も言い返せない。
 息がうまくできなくなっていく。ほのかに頬を上気させて、上目でこちらを見上げてくる彼女の姿が、心臓を跳ねさせる。

「いいよ。どうぞ、おいで」

 両手を広げてもう一度「おいでよ」と言ったその声は、聞いたことがないほどに柔らかくて。そうだ。彼女は言っていた。緊張して心臓が飛び出そう、息がうまくできない、と。今自分の身に起きている現象と同じだ。違うことと言えば、鼻血が出たか否かだけで。

「七海くん」

 そう呼ばれて、ぷつりと何かが切れた。勢いに任せて彼女の白い首筋に齧りつく。ふわりと鼻をくすぐったシャンプーの香りに、喉の奥で何かが溢れた。

「……あ、まずい」

 首筋を伝う血。元をたどればそれが自分の鼻から滴り落ちているということに気づいたときには、すでに彼女の手がシャツの下に潜り込んできていて、もう鼻血どころではなくなっていた。

「大丈夫。すぐ止まるって。ほら私も、もう出てないでしょ」

 彼女はそう言いながら、自分の胸に手を充てがう。柔らかな膨らみに、残された最後の理性が吹き飛んでしまいそうになる。「かわいい」と、彼女は吐息まじりに耳元で囁く。けれど身体に触れてきた彼女の指はどことなく震えていて、それが彼女の中の繊細で柔らかい部分を表しているように思えて、「かわいい」とこぼしてしまった。すると彼女が照れ隠しのように口先を尖らせたので、今度はその顎を持ち上げ、視線をまっすぐに合わせて伝えた。

「かわいいですよ」

 今日だけは、この快楽に溺れてしまってもいいかもしれない。いや、彼女のことだ。きっと「今日だけ」では済まさないのだろう。でもまあ、いい。トリッキーな彼女にこのまま転がされるのも、おそらく悪いものではないから。




(2023.02.20)

14周年企画 / キーワード:齧りつく、シャンプー、今日だけ
悟と傑が彼女とそういう関係を持たなかったのは、「好きな男がいるやつに手を出すほど女に困ってないから」だそうです。



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