自分のご機嫌を取るのに失敗した。
東京の片隅にある廃校に湧いた呪霊を祓いながら、ああなんだか今日のランチはオムライスの気分だなと思い立ち、帰り道で補助監督さんにお願いしてコンビニに立ち寄ってもらった。国民的人気者のオムライスは当然置いてあるものだと信じて疑っていなかった。けれど商品棚にあったのは「期間限定」とシールの貼られたオムハヤシだけ。一瞬、どうするか迷った。でもまあご飯と卵がタッグを組んでいることには変わりないしな。そう思って手にしたのが間違いだった。車内に戻り、「お腹が減りすぎて胃が痛くなりそうなんでここで食べちゃっていいですか」と尋ねれば、補助監督さんはもちろんですよと笑ってくれた。意気揚々と口に入れた途端に、全てが間違っていたことに気づく。オムライスとオムハヤシは全く別物ですよって、どうして学校では教えてくれなかったんだろう。ただの白い米に卵を乗せて、そこにデミグラスソースがかかっている。それが今食べているこのオムハヤシだ。私が食べたかったのは、ぶりっとした鶏肉がケチャップでごりごりにコーティングされたチキンライスを、薄焼卵でくるっと巻き、その上に赤い波を描いたあのオムライスだ。これじゃない。私が求めていたのはこれじゃあないんだよ。私の中のリトル私がちゃぶ台をひっくり返し、そう叫んでいるのが聴こえた。
――今夜はオムライスを作る。絶対に。
リトル私にそう約束することで、暴動を起こしかけていた体内に平穏が戻った。
**
「ねえねえ、鮨でも食べに行かなーい?」
溜め込んでいた書類を提出して帰ろうと、任務終わりに高専へ立ち寄ったのも間違いだった。五条さんに見つかってしまったのだ。おしゃべり好きなのか何なのか、五条さんと顔を合わせると平気で十分以上拘束される。この間出張で行ったあの街でこういうものを食べてね、とか、今受け持ってる生徒がこんなこと言っててね、とか。私はリアクションが大きい方ではない。それは自覚している。それにせっかちな方なので、話の終わりが見えないとストレスが溜まる。五条さんのことは呪術師として信頼しているし共同任務時には絶対的な安心感を抱けるのだけれど、こうして思いがけず鉢合わせた時にこちらの都合などお構いなしで長話を始めるところには、正直ちょっと困っている。前に「どうして私にそんなに話しかけてくださるんですか? 面白い反応とか返せないですよ」と言ったことがある。すると五条さんはこう返したのだ。「早く話終わらないかなって内心イラついてるのを見るのが面白いから」と。
「えっと……すみません、今日は先約があって」
「は?」
まさか断られるなんて思ってもいなかった、という反応だ。今までも食事に誘われたことは何度かあったけれど、別に毎回「はい喜んで」と返答していたつもりはない。用事がある時は丁重にお断りしていたし、それに対して五条さんは「んじゃまた今度ね」と言ってくれていたのに。
少しムッとしている様子の五条さんが恐ろしくて、
「……あ、あのっ! お腹痛くなってきたので今日はこれで失礼します!」
とっさに思い浮かんだ中学生のような言い訳を口にしながら、尻尾を巻くようにその場を去った。
**
「そんなに驚いた?」
高専で別れてきたはずの人が、自宅マンションの前で待ち構えていれば目玉もこぼれ落ちそうになるというものだ。五条さんは私の姿を見るなり手を振りながら近づいて来て、いたずらっぽく笑った。
「先約があるんじゃなかったんだっけ」
私の片手にぶら下がる買い物袋に首を傾げる五条さん。この中には鳥もも肉と玉ねぎ、卵が入っている。オムライスに必要な食材だ。もうすぐ掴みかけていたはずのオムライスが、五条悟という人の登場によってどんどんと遠ざかってゆくのを感じながら、
「……あります、先約」
そう返せば、食い気味で次の問いが返ってきた。
「家で誰か待ってんの? もしかして彼氏とかー?」
五条さんは目隠しをしていても機嫌の良し悪しが分かる。声のトーンがすべてを物語っているから。今だって語尾を伸ばしてはいるものの、そこに陽気さなどはなく、イラついて仕方ないですという重苦しい音がにじみ渡っている。
「……誰も、いないです」
「あっそ。じゃあ先約って何? 僕の誘いを体よく断るための嘘?」
どうしてこんなに尋問のごとく詰め寄られなくちゃいけないんだろう。そう思いつつ、ここはもう正直に吐かないと解放してもらえないと本能で察した。
「自分と約束してるんです」
「自分と? 何を?」
「その――オムライスを……食べようって……」
小声でぼそりと呟くように告白すれば、五条さんは三秒ほど沈黙した。その後、ぷっと息を噴き出すようにして笑ったのだった。
**
これはどういう状況なんだろうと考えるのはもうやめにした。五条さんがうちのリビングで寛いでいて、私はその様子をちらちらと伺いながらオムライスを作っている。確かに「僕もオムライス食べたーい」と言って聞かない五条さんを家に上げたのは私だ。それでも見慣れた景色の中に五条さんがいるという事実がひたすらに信じられなくて、違和感でしかなくて、心安らぐはずの自宅がまったく気持ちの落ち着きどころのない空間になってしまっていて――要するに緊張して仕方がない。早くオムライスを食べてもらってご帰宅願おう。
「ねえ、紙あるー? あとハサミも」
五条さんはふとスマホから顔を上げ、キッチンに立つ私へと声を投げた。
「……何をするつもりですか?」
「ん~ナイショ!」
訝しがりながら印刷用紙とハサミを手渡せば、五条さんは紙を折りはじめた。少しその作業を観察していると「見ちゃだーめ」と背を向けられてしまった。
思春期の男子高校生のような反応に面食らいつつ、そうですか、とキッチンへ戻ろうとしたとき。ピンポーン。不意に響き渡ったチャイムにいち早く体を動かしたのは、家主の私ではなく五条さんだった。
「僕出るよ」
「はい?」
「僕宛てだから」
――えっ、なんで? ここ私の家なんですけど?
心の中でそんな疑問符を打ち立て続けながら、廊下を抜け、玄関ドアの向こうへと消える五条さんの背を見送った。
五条さんはすぐに戻ってきた。テーブルに二人分のオムライスとスプーンを並べていると、
「じゃーん!」
と、五条さんは弾む声を上げながら、何か白くて丸いものを卓上に置いた。突然のことに視覚情報が追いついていなかったけれど、それがケーキだと理解したその瞬間、
「誕生日おっめでとー!」
まるで何かが弾けたかのように、今度は視界に白いものがチラチラと舞いはじめたのだ。――これは……紙吹雪、だ。それに、この人は今なんと言った?
「た――んじょう、び?」
「うん」
「誰の……あ、えっうそ、私……?」
「忘れてたでしょ」
確かに、毛ほども覚えていなかった。いつものように起き、呪霊を祓い、不本意なランチをとり、また呪霊を祓い、今夜は納得いくオムライスを食べて眠りに就こうと思っていたぐらいだ。たとえ覚えていたところで、もう誕生日をいちいちありがたがる年齢でもない。ていうか、なんで私の誕生日を五条さんが知ってるの。そしてなんで、
「なんで紙吹雪……?」
五条さんはポケットに忍ばせていたのであろう紙吹雪を、最後の一枚まで撒き散らしてやろうとばかりに私の頭上に落としてくる。ああなるほど、紙とハサミはこれを作るために……。
「お祝いっぽいことしたくてさー。本当は君の好きな鮨でもたらふく食べさせて、もう歩けなーいってなったところをホテルに連れ込んであんなこととかそんなことしたかったんだけど」
すごい怖いこと言ってる、知りたくなかったこと知らされてる。耳を塞ぎつつ、なんで五条さんはそこまでして私を……と再び頭蓋の内側で疑問符が踊り始めた。
――どうして私に構うんだろう。アラサー女の誕生日なんて気づいてても触れないのが正解なのに、もしかして誕生日を一人寂しく過ごす私が哀れで面白くて冷やかしに来たのか? いやでもなんかお祝いしようとしてくれてるっぽいし……じゃあ、なんでこんなことするの?
ぐるぐると巡っていた思考がぴたりと静止したのは、いつの間にか目隠しを取った五条さんの宝石のような瞳がすぐ目の前に迫っていたから――ではない。こう思い直したからだ。この人に対して「なぜ」を求めるなんて無謀だ、と。
「あ、あのもう紙吹雪はいいか、ら……って――ああっ!」
さあ待ち望んでいたボクですよ、とばかりに両手を広げて私を待っていてくれたはずのオムライスに、紙吹雪が次々と漂着していく。私は目の前にあった五条さんの顔を押しのけ、オムライスに飛びかかるようにして「うわああ」とまた声を絞り出した。
「オムライスが、もう、こんなんなっちゃって……!」
波線を描くケチャップに突き刺さった紙吹雪を摘み上げる。五条さんにも食べてもらうのだと思うと下手なものは出せないと思って、丁寧に丁寧に作った一品が、長方形や三角形など形の不揃いな紙吹雪たちに荒らされてしまった。
「えーなんか嫌な感じー。オムライスのことばっかでケーキに何もコメントしてくんないじゃーん」
そう頬を膨らませつつ、五条さんがオムライスをぱくりと一口頬張る。
「うまっ」
思わず言葉がこぼれ出たというようなその反応に、私は胸の奥の奥の方がびくんっと跳ねた気がした。きっとこれはリトル私が「早くオムライスをよこせ」と言っているんだなと思い、五条さんに続いて一口だけ食べてみる。
「んー……おいしいですか?」
なんだかイマイチな気がする。ケチャップをもう少し足しても良かった。いや、玉ねぎをもっとじっくり炒めた方が……。
「これっておかわりあるよね?」
私があれこれと考えているうちに、五条さんはしっかり椅子に腰掛けて本格的に食べ進めていた。
どうして明日の自分の朝ごはん用にと思って余分に作ったことを知っているんだろう。どこで見られたの。そんなことを思いつつ、ふと視線をケーキの方へと向けてみる。丸々としたイチゴがいくつも乗ったホールのショートケーキ。その中央に掲げられたチョコレートプレートには、ハッピーバースデーの文字とレベルアップした私の年齢が踊っていた。
「――ありがとう、ございます」
ケーキのことに何もコメントしないのは、確かに失礼だ。展開について行けずに欠けていたお礼を遅ればせながら告げてみると、五条さんは「ん」とスプーンを咥えたまま頷いた。
一度キッチンへと行き、フォーク片手に戻って来た私を見た五条さんが一瞬、ふっと笑ったように思えた。なぜだか気恥ずかしくて顔を見れなかったから、気配でしか分からなかったけれど、多分きっと笑った。
「あ、ナイフ……」
「いいよ。そのまま行っちゃいなよ」
ナイフを持ってくるのを忘れていたことに気づき、キッチンへ戻ろうとした私を五条さんの声が引き止める。
「そんな悪いことしていいんですか?」
「いんじゃない? 今日の主役なんだし」
ホールケーキをそのまま食べるなんて、はしたないのでは。そんなことしたら実家の母に怒られるのでは。ケーキを見おろしながらどうしようかと固まっていると、不意に、フォークを持つ手をぐっと握られた。五条さんが私の手を覆うように掴み、ケーキをひと掬いさせたのだ。そうして「あーん」と促されるまま開いた口に、たっぷりとクリームの乗ったスポンジを押し込められた。驚きの声も批難の声も全部クリームと一緒に胃へ押し流されていく。オムライスに不満を抱えて不貞腐れていたらしいリトル私が、ケーキを迎え入れた途端にクスクスと笑い始めた気がした。
「……おいし、い」
そうこぼせば、五条さんは笑った。確かに笑った。今度はその顔を正面から見ていたから分かる。
「こういう誕生日があってもいいよねえ」
「それを決めるのは私かと思うんですけど。そしてこのプレート、年齢表記は余計です」
「文句ばっか言うのやめなー? 愚痴っぽいとモテないよー?」
――結局今日の私のご機嫌を取ったのは、私自身ではなく、オムライスでもなく、五条さんがプレゼントしてくれたこのケーキだったらしい。それを後日五条さんに伝えたら、
「つまり僕が優勝ってこと?」
と声を弾ませていた。そんな五条さんもまた、すこぶる機嫌が良いように見えた。
(2022.10.01)
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