――こういう歌、歌うんだ。
「お前はこれでも歌っとけ」と言って宇髄が勝手に入れたのは、国民的アニメのオープニングテーマだった。某ネコ型ロボットが画面いっぱいに現れ、陽気なイントロが流れ始めたとき、「ほら歌えよ」とマイクを向けられた彼――不死川くんはてっきり怒鳴りだすのかと思った。けれど、彼は決まりが悪そうに唇を噛んだだけで、宇髄から差し出されたマイクを素直に受け取り、ぼそぼそと歌い始めたのだった。
- ジョッキ越しの恋 -
忘年会の二次会は、宇髄の「歌うしかねぇだろ」という強引な仕切りでカラオケになった。といっても店はどこも混んでいて、十四人が入れる大部屋なんて空いていない。ようやく入れた店で、たまたま隣り合う二部屋が空いていたので、二手に分かれて入室することになった。
皆がぞろぞろと部屋へ向かうなか、ふとスマホを見ると母から三件ほどの着信が入っていることに気づいた。何かあったのかと不安になり、ちょっと電話してきます、と断って一度カラオケ店から出る。そうして電話をかけ直してみれば、なんてことのない用件だった。そっちに宅急便を送るけど、何か欲しいものはあるか。そんな予想外の平和な問いに「なんだ。そんなこと?」と安堵と呆れが入り混じった笑いをこぼせば、大事なことよ、と尖った声が返ってきた。少し考えたのちに「何かご飯のお供になるもの」と答えれば、もっと具体的に言ってくれないと悩んじゃうでしょう、と返されたので、また改めて連絡する旨を伝えて電話を切った。母は米や野菜、手作りのお惣菜などを詰め合わせた宅急便を不定期で送ってくれる。とてもありがたいのだけれど、毎回こうして「何が欲しいか」を問われることが、最近少し億劫に思えてきた。それは母が悪いのではない。自分が今何を欲しているのか。それを考えることが、ただめんどくさいのだ。
「……疲れてるのかな」
そうひとりごちながら店へ戻り、ふと気づく。部屋番号を覚えていない。とっさにスマホを開き、宇髄に電話をしようとした。が、きっと彼は今ごろ熱唱中だから着信に気づかないだろうと思い直す。今日の参加者でプライベートの連絡先を知っているのは、同期の宇髄だけだ。
「あ、部屋こっちです」
弱ったな、受付で部屋を聞いてくるかな。そう思っていたとき、突き当たりの部屋のドアが開き、中から不死川くんが出てきた。彼は、スマホ片手に立ち尽くしていた私にそう声を掛けると、ちょいちょいと手招きをした。
――やっと目が合った。
部屋が分かってよかったと安堵するよりも先に、そんなことを思った。今日の一次会では、不死川くんと私はちょうど長テーブルの対角線上に座っていたこともあってか、話すことはおろか視線が合うことすらなかった。
「ありがと。そっちの部屋に入っても大丈夫なの? 満員じゃない?」
「いや、いけます。先生の席空けといたんで」
そう言った後で、不死川くんはどこか落ち着かない様子で視線を左右に泳がせた。私も私で、久しぶりに不死川くんと真正面から向かい合っている気がして、胸の内側がむず痒くなった。
この痒みを引き起こす原因が何なのかは、なんとなく自覚している。国語の担当教員として働き始めた自分よりも数年遅れてこのキメツ学園に入職してきた不死川実弥という教師に、私は多分、きっと、恋をしているのだ。顔を合わせるのは学校ぐらいで、プライベートな話ができるのはこうした職場の飲み会があったときぐらいだ。それでも私はこれまで彼と一対一で長い時間言葉を交わせたことはないし、連絡先だって交換していない。不死川くんは公私混同を嫌いそうだなと思ったし、私も教育の場にこんな浮ついた気持ちを持ち込むのは良くない気がしていた。――というのは建前で、本当は自信がないから。私は年上だし、彼は生物担当のカナエ先生と仲が良い。あんなに美人で賢くて心優しい天女のような人に太刀打ちできるわけない。だから、距離を詰めようとするのではなく、遠くから愛でようと思った。好きな人、というより、推しに近い存在なのかもしれない。
「おいおいなんだ? そんなとこに突っ立ってねぇで早く入れよ!」
不死川くんの背後のドアが開き、宇髄が顔を覗かせそう言った。部屋の中では、カナエ先生、伊黒くん、響凱先生、須磨さんらが酒や軽食を摘みながら談笑する姿があった。目の前の不死川くんに集中しすぎていて意識が向いていなかったけれど、隣の部屋からは煉獄くんの歌声も聞こえてくる。少し気になって隣室のドアの小窓を覗いてみれば、歌う煉獄くんの隣にタンバリンを持った雛鶴さん、まきをさん、メニュー表をじっと見つめている冨岡くん、なにやら話し込んでいる珠世先生と悲鳴嶼先生、鱗滝さんがいた。絶妙な部屋割りだなと思いつつ、宇髄に促されるまま中へと入れば、飲み物は何にするかとカナエ先生が気を配ってくれた。
「彼氏と電話でもしてたのかよ?」
ソファーにどっかりと腰掛けた宇髄にそう訊かれ、
「ちっ、違う! 母親!」
と声を上ずらせてしまった。すると宇髄は片方の口角をゆるっと上げる。とても意地の悪い表情だ。
「へえ? 母親ねえ」
「本当だよ! 彼氏なんていないし!」
宇髄にそう言い返しつつも、視線はドア近くに立つ不死川くんの方へ向いてしまう。けれど、目が合った途端に逸らされた。ちょうどカナエ先生に「ねぇ不死川くん」と話し掛けられたからだろうか。それとも、私が避けられてしまったのだろうか。
「ま、そんなこたぁ知ってっけど。年甲斐もなくムキになってんじゃねーよ、恥ずかしいヤツだな」
「――は?」
宇髄は喉奥を鳴らしながら笑った。そうだ。宇髄は私に何年も彼氏がいないことを知っている。
「こんの……筋肉団子!」
なぜこんな複数人の前で自ら恋人がいないことを告白させられなければいけないんだと、なんだか辱められた気持ちになって、憎らしさのあまり宇髄に飛びかかり、その肩をドリンクメニューでぱしぱしと叩いてみた。が、分厚い筋肉の防御力には敵うはずもなく、彼は涼しい顔をして「次何の曲入れっかな」とのたまっていた。
「飲み物、決まりました?」
不意に割って入ったその声に、私はぴたりと静止する。体中を駆け巡っていた宇髄への憎さが途端に萎んでいくのが分かった。気づけば不死川くんが私のそばまで来ていて、こちらをじっと見おろしていたのだ。
「……あ、ごめん。自分で注文するから」
「いいっすよ。何にします?」
いやいやそんなわけには、と立ち上がってドア横のインターフォンへと向かえば、不死川くんも後を付いて来た。
「俺がかけますよ。他の人の注文も聞いてあるんで」
「……じゃあお言葉に甘えて」
宇髄が「俺も生追加で」と声を投げてくる。不死川くんは頷き返しながらインターフォンを手に取り、すらすらと注文しはじめた。それを隣で聞いていたけれど、どう考えても人数より飲み物の方が多い。テーブルの方へと振り返ってみると、宇髄とカナエ先生の手元にはジョッキが二つずつ並んでいた。あの人たち二杯単位で頼んでる。一次会でも散々飲んでいたのに、どれだけザルなんだろう。
「ポテト盛りとたこ焼き、マルゲリータとシーフードミックス、あと焼きそばと――」
あれ、うそ。この部屋に煉獄くんいる? 私に見えてないだけ? 一瞬そう疑うほどにフードメニューの注文がつらつらと続いていく。もう一度テーブルに目を向けてみれば、須磨さんが自分のお腹を指しながら私の方へとウインクを飛ばしてきた。あの人は一次会でも軽く三人前は食べていたはずだ。
「あ、飲み物何にするんでしたっけ」
インターフォンを右耳と肩に挟んだ状態でそう訊く不死川くんに、私の体内のどこかが小さく噴火した。職員室でもたまに見かけるのだ。電話を耳と肩にサンドさせながら机上の書類を漁ったり、メモを取ったりする不死川くんの姿を。私はその姿が好物だった。
「生をお願いします。ありがとうございます」
そんなおいしい姿を惜しげもなく見せてくださって、ありがとうございます。そう気持ちを込めてお礼を言えば、不死川くんは、
「そんなに畏まらないでくださいよ。このぐらい当然です。俺、後輩なんで」
と淡く笑んだ。笑んだのだ。いつもどこか虫の居所が悪いような顔をしている彼が、眉間に一つの皺を刻むことも、瞳孔を開くこともなく、その菫色の瞳をまろやかにして、形の良い唇をゆるめて……。
「大丈夫ですか」
「――え?」
「や、ぼーっとしてるみたいだったんで」
「あっごめん、見惚れてた」
「……え?」
「えっ?」
互いに目を丸くして見合っていると、「おいお前ら」という声が飛んでくる。
「そんなとこでイチャついてんじゃねーよ! こっち来て歌え!」
あのパリピは不死川くんに注文を押し付けておいてなんという言い草だと思いつつ、イチャついているように見えたのだろうかと内心浮き足立ってしまう。
「ほら不死川、お前はこれでも歌っとけ」
そう言いながらデンモクを操作している宇髄は、またあの意地の悪い笑みを浮かべていた。そこで流れ始めた軽妙なイントロ、画面に映る某ネコ型ロボット。途端にこれがあの国民的アニメのテーマソングだと理解した一同は、「ほら歌えよ」とマイクを差し出された不死川くんへと視線を向ける。てっきり「ふざけるな」と怒鳴るのだとばかり思っていた。けれど不死川くんは宇髄からマイクを受け取ると、ぼそぼそと歌い始めたのだった。
――こういう歌、歌うんだ。
不死川くんが歌う姿なんて初めて見た。照れているのか声は小さかったけれど、音程はしっかりと取れている。
「あら、ドラちゃんってこんな曲だったかしら?」
宇髄の無茶振りを見事に打って返す不死川くんに対してどう反応するのが正解なのか分からないのか、皆がモニターをただ見つめていた。そんな絶妙な空気の中でカナエ先生がぽつりと放り込んだその言葉に、それまで気まずそうに口を結んでいた須磨さんがハッと息を吸った。そうして、雰囲気を変えるチャンスだ、とばかりに声を張る。
「何年か前に変わったんですよー! 今はゲンさんの歌です! ね、天元さま」
「ゲン繋がりで選曲してみました」
グッと親指を立てた宇髄に、あんたが歌ってるわけじゃないでしょう、と静かに突っ込めば、彼は歯を見せて笑った。
カナエ先生の言葉を機に空気が和らいだようで、カナエ先生や須磨さんは曲に合わせて手拍子をとり、響凱先生は鼓を叩き始めた。伊黒くんは誰かとテレビ通話を始めたようで、何かを話しながら不死川くんにスマホを向けていた。電話の向こうから「不死川先生が歌ってるー! とってもかわいらしいわぁ!」という女の子の声が聞こえた気がする。
曲が進むうちに不死川くんも慣れてきたのか、声量が少し増した。手拍子や鼓も弾むようになり、サビに差し掛かる頃には、ついに宇髄やカナエ先生、須磨さんが合いの手を入れるようになった。
「……だからここにおいでよ」
「おいでよー!」
「一緒に冒険しよう」
「冒険しよー!」
「どどどどどどどどど」に合わせて響凱先生が鼓を連打し、声を合わせて某ネコ型ロボットの名前を呼ぶのだった。気づけば私も体を揺らして歌詞を口ずさんでいた。さすが国民的アニメのテーマソングだ。この曲にはきっと、人を陽気にさせる魔力でも宿っている。
不死川くんが最後まで歌い切ると、自然と拍手が湧き起こった。彼はマイクをテーブルに置き、気恥ずかしそうに俯く。そうして膝の上で拳を握るのだった。
「歌えるんだね。私、初代のテーマ曲しか知らなくて」
あまり刺激しないよう、そっと声を掛けてみると、不死川くんはこちらに横目を流したのち、
「……弟たちが毎週観てるんで」
と、また俯いた。すかさず「またまたぁ」とテーブル越しに宇髄が身を乗り出してくる。
「とか言って、毎年映画も観に行ってるくせにぃ」
「いやそれは――」
「今年もドラ泣きしたわけー?」
「ッ、うっせェ!」
「えーこっわ! なんか俺への当たり強くない? 一応先輩なんだけど」
「……美術室ぶっ壊すようなヤツにはそれ相応の接し方をしてるだけだァ」
「それ以外にもあるんじゃなーい? 俺のことが気に喰わない理由」
不死川くんはカッと目を見開いた。
「例えば、こんなことしちまうとことか」
宇髄の言葉が終わるか終わらないかのうちに、なぜだか頭がずしっと重たくなった。見上げれば宇髄がテーブルの向こうから腕を伸ばし、私の頭に手を置いているのだった。そうしてがしがしと無遠慮に撫でてくるので、
「ちょ……っ、と!」
髪が乱れるでしょう。そう言って振り払えば、宇髄は私ではなく不死川くんに向けて微笑した。ワルい顔だ。いつぞやの夜、何人かで飲んでいたときに隣のテーブルの女性客たちに向けたあの笑みと似ている。獲物を前にした肉食獣みたいな。
不死川くんはというと、眉根を寄せて宇髄を睨んでいるようだった。この二人って仲が悪いんだっけ。険悪な空気にどう対処したらいいか分からずにいると、「お待たせしました」と男性店員が入ってきた。不死川くんは宇髄から目を離すと、店員さんに礼をし、「はいこれ伊黒のウーロン茶。こっちが響凱先生のウーロンハイ」と各自に配って回るのだった。
ひとしきり配り終えると、不死川くんは隣の席に戻ってきて、ぽつりと言った。
「その……映画には、弟たちの付き添いで」
一瞬なんのことか分からず反応が遅れてしまった。ああ、さっきの話の続きか。「そうなんだね」と返せば、不死川くんはこくりと頷いた。それがかわいらしくて思わず「かわいい」と漏らしかけたが、その言葉は届いたばかりのビールで胃に流し込むことにした。
「不死川くんは歌がうまいんだね。他の歌も聴いてみたいなあ」
どうやら喉が渇いていたらしい。ごくごくと飲み進めていると、
「や、今日はもういいっす」
と、不死川くんが弱ったような声音で言うので、思わず笑ってしまった。そんな私に、宇髄が「おーい」とマイクを突き出す。
「さりげなく自分の番を回避しようとしてんだろ? そうはさせねぇぞ? お前はこれだこれ」
途端に流れ始めたメロディに、須磨さんがいち早く反応した。
「この曲懐かしいですー! アニメずっと観てました!」
これは某美少女戦士の伝説的な曲だ。この世代の女性なら誰しもが、と言っていいほど聞き尽くしてきたあの曲。
「ちょっと宇髄! 早いって! これはお酒がもっと深くなってきたタイミングで歌う曲でしょ?」
いいからいいから、とマイクを押し付けられてようやく、この人数、しかも同僚たちを前にシラフに近い状態でアニソンを歌わされた不死川くんの気持ちを思い知った。宇髄とはたまに二人でカラオケに行く。居酒屋でくだを巻いたあと、十分に酒が回った状態でカラオケになだれ込み、喉を枯らしながら気の済むまで歌い明かすのだ。この曲はそんな酔いどれカラオケ会の終盤で、酔っ払いながら力一杯、なんなら美少女戦士になりきりながら歌うのが決まりだった。それを今、まだ存分にアルコールが効いていない状態で、しかも不死川くんの前で歌わせるなんて。宇髄め。
「……やってやろうじゃないの」
――ここで小声でしおらしく歌ったりなんかしたら、それこそ宇髄の思う壺だ。そうはさせない。不死川くんが素直にドラちゃんを歌い切ったように、私も美少女戦士を歌い上げてやる。
そんな負けん気をふつふつと滾らせつつ、ビールジョッキをあおる。そしてマイクを奪うように取った私を、宇髄は指笛を鳴らして囃し立てた。
三分間。不死川くんには意識を向けないよう、ひたすらモニターだけを見つめて歌った。どうか皆がこのあと酒に溺れて、このときの私の姿が記憶から抜け落ちますように。そんなことを願いながら歌い切った。私も先ほどの不死川くん同様、テーブルの上にマイクを置くと顔を伏せた。もういっそ引退コンサートの百恵ちゃんよろしくこの場を去りたかった。
「おい宇髄、アニソン縛りにするな。気が落ち着かん」
不服そうに言った伊黒くんに、彼のスマホの向こうから「ええっ?」という声が返される。
『私は聴いていて楽しいわ! 小さい頃ちびうさちゃんに憧れて……あっ、あの曲も好きで……曲名が思い出せないんだけど、らららネーバーギブアップっていう』
「宇髄、アニソンでいい。もっとやれ。不死川、甘露寺の口ずさんでいる曲名を調べろ」
言っちゃってる。卒業生の甘露寺さんと電話してること言っちゃってる。響凱先生が「甘露寺……?」と目を細めるのも無理はないと思う。
不死川くんは「らららネバーギブアップ……」と呟きながら律儀にスマホで検索を始め、宇髄は何事もなかったかのようにデンモクをいじっている。
「んじゃ! 場もあったまってきたみてぇだし、こっからはド派手にいくか」
マイクを握って立ち上がった宇髄は、そのままモニターを背にこちらを向く。そうして流れ始めた曲に、私は思わず「出た」と言葉を漏らしてしまった。宇髄はカラオケに来ると必ずこの曲を入れるのだ。部屋が一気に昭和の香りに包まれる中で、カナエ先生と須磨さんは互いに顔を見合わせた。
「なんだか聞いたことのある曲ねぇ」
「私もです。ええっと……なんでしたっけ」
「マジかよ。お前ら知らねぇの? 布施大先生の名曲だぞ!」
宇髄は指でリズムを取りながら歌い始める。歌詞に合わせたジェスチャーも忘れない。気持ち良さそうに歌う宇髄を横目に、私は「みなさん」と顔を寄せるように手招きする。
「この曲、『君は薔薇より美しい』は宇髄の十八番です。これで今日の喉の調子を確認したのち、ウルトラソウルに続きます。盛り上がらないと不機嫌になるので、すみませんが掛け声の準備をお願いします」
「えっ、掛け声って……この曲で?」
「いえ。次に入るはずであろうウルトラソウルで」
「ぁあぁああ君はぁぁ……変わったあぁぁぁ!」
どこまでも伸びる宇髄の歌声に、カナエ先生は少し困惑したような表情を浮かべ、須磨さんは圧倒されているのか口を半開きにし、伊黒くんは耳を塞ぎ、不死川くんは唇を結んで目の下を痙攣させ、響凱先生は鼓をカバンに仕舞った。
「おーし! 次誰か歌うか? いないなら俺、このまま続けてもいい?」
この流れで「次行きます」と名乗り出る者などいるはずもなく、宇髄はデンモクを操作し始める。ふと手を止めて私の方へ目を向けると、
「いけてた?」
「いけてたいけてた。今日調子良いね」
「まだ本気じゃねぇけどなあ」
満更でもなさそうに鼻を鳴らし、「何にすっかな。やっぱあれかな」と選曲を続ける。
そのやり取りを隣で見ていた不死川くんは、私の方へと顔を寄せて、ぼそっと呟くように言った。
「仲良いですよね」
「……え?」
「宇髄と」
言われた内容よりもまず距離の近さに戸惑ってしまった。心臓が耳から飛び出そうだったので少し身を引き、拳ひとつ分ほどの距離を置くと「そう?」と返す。
確かに宇髄とは仲が良い方だと思う。同じ時期に入職したので、仕事の愚痴を気兼ねなく言い合える相手だし、妙な気を使わなくて済むので一緒にいて楽な存在でもある。
「仲が良いと何かまずいのかな?」
「……いえ。別に」
不死川くんはそれ以上何も言わなかった。ビールを一気に飲み干すと、「飲み物注文しますけど何か頼みたい人は」と周りに呼び掛ける。
「あ、じゃあビールをお願いします」
遠慮がちに言えば、不死川くんは「はい」と頷いた。
不死川くんが宇髄のこと呼び捨てにしてるのちょっと面白いなと思いつつ、やはり流れ始めたウルトラソウルに手拍子や合いの手を入れる。そうしているうちに伊黒くんが席を立ち、彼と入れ替わるようにして煉獄くんが入ってきた。もしかすると伊黒くんはこの野外ライブのような空気に堪えかねて、煉獄くんに部屋を替わるようお願いしたのかもしれない。熱唱する宇髄に気後れすることなく「燃えているな!」と評する煉獄くんは、やはり猛者だと思う。煉獄くんはその後、歌い手の宇髄を食うほどの声量で「ハイ!」という掛け声を送り続けるのだった。
「不死川くん、そんなに飲んで大丈夫?」
トイレに立って戻ってくると、それまで私の席だった不死川くんの右隣には煉獄くんが、左隣にはカナエ先生が座っていた。内心少し気落ちしつつ、空いていた宇髄の隣に腰掛ける。すると宇髄が私の耳元に顔を寄せてきて、
「不死川が面白いことになってきてんだよ」
と笑いを滲ませた。私も飲みかけのビールを含みつつ、テーブルの向こうに並ぶ三人のやり取りに聞き耳を立てる。
「えー俺ー? ぜーんぜん平気、ぜーんっぜん酔わねェし俺」
「お水をちゃんと飲んで。明日がつらくなるわよ」
「明日? 明日って……何曜だァ?」
「明日は土曜日だ!」
「なら休みだし問題ねェってーの……っとにカナエは心配性だよなァ」
――カナエ。そうだ、不死川くんはカナエ先生のことをそう呼ぶ。
彼らは同い年だ。下の名前で呼ぶなんて不自然なことではない。ちなみに不死川くんは私のことを「先生」と呼ぶ。そのたびになんだかものすごく年長者のような気分になるし、隔たりを感じる。
「酔ってるわねぇ」
「うむ! すこぶる酔っているな」
カナエ先生は息を漏らし、困ったように笑んだ。それにつられたのか、不死川くんも顔をふにゃりとさせて笑った。
――そんな顔して笑えるんだ。
お酒が入っているとはいえ、心を許していない相手には見せない表情だろう。
「……宇髄、なんか曲入れて」
「なんかって……んじゃ、百恵ちゃん行っとく?」
「なんでもいい。スッキリするやつならなんでも」
淡く笑む姿を見せてくれたことが嬉しくて浮かれていた小一時間ほど前の私に言ってやりたい。不死川くんが笑顔を見せる人は他にもいるんだよ、と。別にあんただけ特別なわけじゃないんだよ、と。
――浮ついてたのが馬鹿みたい。
「ちょ、おいおいそれ俺のビール」
「ちょっとちょうだい!」
宇髄のジョッキを取り上げ、「ちょっとだけだから」と言いつつ全て飲み干してしまった。
「そういうの」
アルコールが足りない。そう思ってメニュー表に目を走らせていると、
「そういうの、間接チューっていうらしいですよ。知ってます?」
目の据わった不死川くんが、少し批難めいた口調でそう言った。間接チューという言葉のパワーと、それを不死川くんが口にしたことに衝撃を受けてしまう。こちらをじいっと見つめたままの不死川くんの隣では、煉獄くんが「カンセツチュー? 関節中? 関節痛か? かんせつ……」と眉根を寄せて呟いている。宇髄は口を押さえ、今にも噴き出しそうなのを堪えている様子だった。
私は呼吸を整え、そして十七歳の生徒に伝えるように、ゆっくりと丁寧な口調で返す。
「いいえ。宇髄の飲み口は避けたから、間接チューにはならないです」
「ほんとに避けたんすか? ちょっとぐらい重なってんじゃねェんですか?」
「重なっていません。なぜなら私は、たとえ間接的であっても宇髄とチューしたくないからです」
「おい。それは俺がちょっと傷つくだろ」
「なら……なんで飲んだんですか」
「そこにビールがあったからです」
きっぱりと言い切る私が面白くないのか、不死川くんは唇をきつく結んだ。そうして自分の手元にあったジョッキを引っ掴み、一口飲む。次にそのジョッキをこちらへ差し出すと、
「じゃあ俺のも飲めんのかァ?」
胃にずしりと落とし込むような低い声で、そう言った。
「宇髄のだから飲んだんだろ。それって宇髄が特別だからってことなんじゃ――」
「不死川くん」
カナエ先生の鋭い声が彼の言葉を制した。
「それ以上はみっともないわよ」
不死川くんは目を見開き、我に返ったようにして「すみません」と頭を下げた。
しばしの沈黙ののち、私は彼が引っ込めようとしたジョッキを掴み、奪うようにして取り上げる。
「――え?」
不死川くんが間の抜けた声を漏らす。それに構わず、私はジョッキをあおり、残っていたビールを飲み干した。生ぬるく炭酸のゆるいビールが喉を通り、体の奥へ奥へと入っていく。ダンッとテーブルにジョッキを叩きつけるようにして置き、口の端に付いた泡の残骸を手の甲で乱雑に拭う。そんな私を、不死川くんは目を点にして見つめていた。
「帰ります。明日は部活の引率で、朝早いので」
駅へと続く繁華街の道は、今が夜だなんて忘れてしまうほどに明るかった。人工的な灯りは目に痛いぐらい眩しい。
明日が部活の引率だなんて嘘だ。そんなこと、あの場にいた全員が分かっていたはずだ。だって今日の忘年会は、出席者の翌日の予定を確認した上で設定されたのだから。悲鳴嶼先生が決めた。万一深酒でもしたら、翌日アルコールが残った状態で生徒の前に出ることになる。それはいけない、と。
「先生!」
後ろから掛けられたその声に、ふと足を止めた。振り返るも、そのときちょうど学生の集団が横切った。それでも声の主が誰だか分かっている私は、学生たちが通り過ぎるのをただ待つ。人波がおさまると、そこには息を切らす不死川くんが立っていた。慌てて店を出てきたのか、コートの襟が立っている。
「不死川くん。こんな所で、そんな大声で先生なんて言うもんじゃないよ」
誰が見てるか分からないんだし。そう言えば、不死川くんは恐縮そうに「はい」と頷いた。そうして一歩ずつこちらへ近づいてくると、私の目の前で足を止め、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
先ほどまでの酔いはどこに消えたのかと思うほど、明瞭な口調だった。
「ガキみたいなこと言って……それに、生意気な口を利いてしまって」
そこで不死川くんは顔を上げ、「何を言っても言い訳になりますが」と言葉を続ける。
「なんというか、先生と宇髄が親しげにしているのを見て……その、調子が狂って……」
「そんなに宇髄のことが嫌いなの?」
「――や、そういうわけでは……」
どこか言いづらそうに口ごもるので、これ以上責めるのは良くないかなと思った。これじゃ後輩をいびるお局みたいだ。
「もういいよ」
不死川くんはそれでも罰が悪そうに「すみません」と繰り返した。
私が店を出たのは、不死川くんに怒ったからではない。私は、あることをしたのだ。きっと宇髄は気づいただろう。もしかしたらカナエ先生や煉獄くんも。だから気まずくなって、嘘までついて抜けて来たのだ。
「私も謝らなきゃ。さっき、不死川くんの飲み口に重ねてしまいました」
努めてなんでもない風を装って言ってみたけれど、その言葉尻はどこか震えていたように思う。不死川くんは言葉の意味が分からないのか、首を傾げている。私は大きく息を吸い、静かに深く吐いた。
「だからその……間接チューってやつを、してしまいました。たまたまじゃなく、あえて」
不死川くんが口を付けた部分を狙って、唇を重ねたのだ。ジョッキを回して飲み口を変えることなんていくらでもできたのに、私はそれをしなかった。
「ごめんなさい」
私がそう謝ると、不死川くんはぽかんと開け放していた口を慌てて閉め、閉じたばかりの口元を片手で覆い隠した。
「……引いてる、よね?」
「や、むしろちょっと、信じられねェっつーか……あ、すみません」
「いいよ別に、口調崩してもらっても。年齢だってそんなに大きく離れてるわけでもないんだし」
不死川くんは口元に手を当てたまま、二度ほどゆっくりと頷いた。
「信じられないほど引いてるってこと?」
「いや信じられないってのは、その……前向きな意味で」
そこで、不死川くんの顔が一気に赤くなった。耳まで染まっている。どうやらそれはお酒のせいではないらしい――えっ、うそ。間接キスをされたと知って頬を赤らめるって……その反応って、つまり……。
「もしかして――私のこと……そういう感じだったりする?」
答えを聞くのが怖い気もした。だってそんなこと、あり得るはずがないと思っていたから。
自信なんて一ミリもない。でも奇跡が起きたならこの目でその実体を確認しておきたくて、私は不死川くんから視線を逸らさなかった。
「はい。“そういう感じ”の解釈が同じなら」
彼は笑っていた。はにかんでいるような、安堵しているような、喜んでいるような、泣きたいような。私のストックしている語彙では表現し尽くせない。そんなのって国語教師失格だ。そう思わされるほどに、彼はいくつもの感情をない交ぜにした顔で笑っていた。
――ああ、うそでしょ神さま。私は不死川実弥という人に、多分、きっと、絶対に恋をしている。そしてどうやら、本当にたまたま、奇跡的に、不死川実弥も同じ気持ちだったらしい。
「……信じられない」
「それは前向きな意味で?」
すかさずそう尋ねられ、私はこくりと頷いた。すると彼はまた笑った。
「ねえ」
私は不死川くんの腕を取り、路地裏へと引き込む。そうして背伸びをして、彼の唇に軽くキスをしてみた。不意を突かれたのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返す不死川くんに、私は息を漏らして笑った。
「こういうの路チューっていうらしいんだけど、知ってた?」
そう余裕ぶってみたけれど、もうそろそろ限界だった。無理。心臓が胸を突き破って出てきそう。もしくは耳からぐだぐだに蕩けきった脳がまろび出る。それほどに体内のすべてが跳ね回り、沸き立っているように思えた。
「へえ。路チュー、なァ……」
柄にもなく大胆なことをしてしまった、と恥ずかしさに身悶えていると、不死川くんがふっと笑ったような気がした。しかし表情を確認する間もなく、私の顔には影が落ちてきた。
唇が重なるまでのその一瞬で、まるで脳が最後の力を振り絞るかのようにフル回転した。そのおかげで、今の自分が何を欲しているのかが分かった。そのためにはまず実家の母に連絡しなくちゃ。地酒を送ってください、と。お金は払います、と。そして、おいしいお酒があるから、なんて言って不死川くんを家に誘ってみよう。そしたら手に入るのだろうか。不死川くんの全部が。世の中そううまくいっても良いものなのだろうか。
「今ちゃんと知ったわァ」
長い口付けのあとで、不死川くんはちょっとワルい顔をして笑っていた。――あ、だめだ。また一つ、彼の新しい表情を見てしまった。
だめもう、もうだめ。弾け飛びそうだし、好きがいよいよ限界点を突破しそう。好き。大好きだ。年甲斐もなくそんなに感情をむき出しにするなんて恥ずかしいヤツだよなって、誰かにあざ笑われたっていいよ。
(2022.09.25)
「さね夢プロット交換企画」投稿作(プロット作成者:ちょっこらさん)
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