世話になるぞ、というあの声を、今日も待ち侘びている。
 遊郭での任務だとかで、近頃よく吉原からほど近いこの藤の家に滞在する鬼殺隊の方がいた。名を、宇髄天元さんという。家の人たちはみな「音柱さま」と呼んだ。けれど私だけは「宇髄さん」と呼んでいる。当初は母から「失礼よ」と咎められたが、名前でお呼びしてもいいかとご本人に訊けば、もちろん構わないとお返事をいただけた。だから私は憚ることなく「宇髄さん」と呼んでいるのだ。
 宇髄さんは大抵、朝早くに屋敷を訪れて、陽が暮れる前には出て行かれる。学校へ行く前に宇髄さんの顔を見て、帰って来た頃にもう一度会えれば吉だった。


「……今日は宇髄さん、いらっしゃらなかったな」

 女学校から帰り、部屋で着替えながらそう独りごちると、不意に視界を横切る影が。違和感と同時に恐怖が湧き、それが何かを認める前に、背中がぞわりと粟立つのを感じた。

「――ね、ね……っ!」

 部屋の隅にちまっと座り、こちらをじいっと見つめてくるそれに、私は腰を抜かした。――ねずみだ。ねずみが出たのだ。
 私は言葉を忘れたように「ね」を繰り返しながら、這うようにして障子を開ける。庭から差し込む陽の光に目を細めつつ、声を振り絞った。

「お、お母さ――」
「おいおい何事だ」

 ずいと立ちはだかったその人に、もはや抜かす腰も持ち合わせていない私は「ひいっ」と小さな悲鳴を漏らす。

「う……うずい、さん……?」
「なんだァ? 人を化けモン見るみてぇな目で」

 着流し姿の宇髄さんは、くつくつと喉奥を鳴らしながら笑う。床にへたり込んだままの私は、そんな宇髄さんを見上げて「今日もいらっしゃってたんですね」とうわ言のように呟く。

「で、どうしたよ。そんな腰抜かして」
「あっ、それは……」

 恐る恐る部屋の方へと顔を向ければ、ねずみは同じ場所に佇んだまま、毛を逆立ててこちらを威嚇するように見つめていた。宇髄さんは「なるほどな」と頷いたのち、ゆっくりとねずみの方へと近づいていく。

「根性ありそうなヤツだなァ、おい」

 キィッ、と甲高い鳴き声が聞こえた気がして、私は耳を覆う。宇髄さんは「気に入った」と声を弾ませると、ねずみの後ろ首をつまみ上げて言った。

「喜べ。今日からお前はこの俺が鍛えてやる」

 にやりと笑む宇髄さんに、顔が火照っていくのを感じた。すると宇髄さんは不意にこちらを見やって、

「なんだ? 耳まで真っ赤だぞ」

と、首を傾げる。

「いえこれは、その……暑くて」

 そう取り繕うように言いながら、はしたないことを承知の上で裸足のまま庭へと下りた。ああ涼しい、とわざとのように声を張ったとき、ざあっと強い風が吹きつけた。髪を押さえていると、白い物がひらりと舞うようにしながら私の頭に落ちてくる。

「……え?」

 手に掴んだのは、確かに父が身に着けるものと同じあれだった。いやよく見ると生地が父のものよりも上等な気がする。
 これは、この褌は、一体――?

「おいおい、ちょっと目ぇ離した隙にとんでもないことになってんな。嫁入り前の娘が男の褌握り締めて何しようってんだ?」
「あっ、いえ、これはその……」

 褌を手に掴んだままたじろいでいると、宇髄さんも縁側から庭へと下り、こちらへ近寄って来る。袖口に手を突っ込んでいる宇髄さんのその顔には、愉快そうな笑みが浮かんでいた。

「冗談だよ。そりゃ俺の褌だ。拾ってくれてありがとよ」

 はっと目を走らせると、庭の奥で干される宇髄さんの隊服が見えた。そして手元の褌へと視線を落としたのち、そのままゆっくりと宇髄さんの足元へと滑らせる。
 ――褌がここにある。ということは、宇髄さんは今、浴衣の下は……。

「い、いけません!」

 知らなかったとはいえ、無防備な姿を見てしまうわけにはいかない。私は目を覆い隠し、つっかえながら言う。

「あの、つ、土が付いて汚れてしまっています。も、もう一度洗い直して――」
「いや、その必要はない」

 腕がすっと軽くなる。指の隙間から見てみれば、宇髄さんが私の腕から褌を引き抜き、自らの肩に掛けているところだった。

「そろそろ陽が暮れる。出立しねぇと」

 言われて見上げれば、厚く横長い雲を境に、空の色が異なりはじめていた。上が紺で、下が朱。じきに夜が来る。宇髄さんが行ってしまわれる。

「……私も」

 踵を返した宇髄さんは、私の言葉に立ち止まると、こちらへゆっくりと顔を向けた。

「私も! 宇髄さんに鍛えていただきたいです!」

 自分でももう、込み上げてくる言葉を抑えることはできなかった。宇髄さんの蘇芳色の瞳が全身を刺してくるようだ。それでも私は、宇髄さんから目を逸さなかった。
 なぜ、と言われたって分からない。いつから、と訊かれても分からない。どこを、なんて、もっと分からない。それでも私は――

「私、宇髄さんのことをお慕いして――」

 言葉の先は紡げなかった。唇に広がったほのかなぬくもりに、ぐわぐわと喉まで迫り上がっていたものが制されてゆくのを感じた。

「忘れろ。それがお前のためだ」

 それは、随分と凪いだ声だった。
 宇髄さんは私の唇に押し当てた人差し指を、自らの袖の中へと引っ込める。なぜですか、と返す私に、宇髄さんは一瞬天を仰いだのち、

「知ってんだろ。俺には嫁がいる」

と、短く言った。そこにどんな感情があるのか、声の調子だけではよく分からなかった。
 そう言われてしまえば、容易に言葉を続けることなどできない。ただ呼吸を繰り返することしかできなくなった私に、宇髄さんの息を吐くような笑い声が降ってきた。次に、頭に重みを感じた。宇髄さんの手だった。くしゃりとひと撫ですると、その手は先ほど私の唇に触れたときと同じように、袖の中へと消えていった。
 そこへ、どこからともなくねずみが駆けてくる。びくりと後退りすれば、宇髄さんはまた笑った。

「ねずみ、貰ってくぞ」


 あの日、夜が滲みはじめた空の下で、私は覚悟した。もう宇髄さんがこの藤の家を訪れることはないと。
 けれど、宇髄さんはそれからも毎日のように屋敷へ立ち寄っては、これまでと同じように過ごして帰る。日々お顔を見て、言葉を交わすのだ。この気持ちを忘れることなど、到底できるわけもなかった。
 思いを告げようとするたびに唇を塞がれた。しかしあるとき、私の唇に手を伸ばした宇髄さんから身をかわすと、彼は目を丸くした。そのままひと思いに「お慕いしています」と言い切れば、宇髄さんはしばしの沈黙ののち、諦めにも似た笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「根性のある女だな」

 この俺が鍛えてやる。そんな言葉が返ってくる日を私は待ち暮らすことになるのだが、それよりも先に、思いを告げるこの口を塞ぐものが、人差し指から唇に変わる方が早かった。――けれどそこにどんな感情が込められているのかは、いまだに分からない。




(2022.06.07)

「kmt夢ワンドロワンライン」投稿作。お題「ひらり」で書きました。


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