乳白色のそれ

　付き合いはじめたばかりの彼氏が夢に出てきた。山の頂から街を見おろしながらバニラアイスを食べるという、なんとも素朴で平和な夢だった。うまいなと言って笑う彼と、頬を撫でる澄んだ風。それが妙に心地良くて、きっと脳が目覚めることを拒否していたのだろう。――つまり何が言いたいかというと、シンプルに寝坊してしまった。
　この高校は遅刻にうるさい。いやきっと他の学校もそうなんだろうけれど、一分でも遅れると居残りの上、反省文を書かされる。彼氏の夢を見ていたら寝坊しましたなんて、そんな小っ恥ずかしくて極めてプライベートなこと、絶対に知られたくない。
　髪もろくに整えずに家を出て、脇目も振らずにひた走り、校門に立つ生徒会が「チャイムが鳴るまであと三分でーす」と声を掛ける横を風のように突破。階段を二段飛ばしで駆け上がり、廊下を競歩のごとく早歩きする。前にも遅刻しそうで走っていたら「廊下を走るな」と学年主任に叱られたことがある。それから私は、どんなに急いでいようとも走らないと心に決めた。あのときの学年主任が、鬼のように恐ろしかったから。きっとあの人は前世で馬か何かにぶつかって死んでしまったのかもしれない。だから走る生徒を見るとトラウマが呼び覚まされて、あんな怒声を上げるのかもしれない。そう思うとなんかちょっとかわいそうだから、言うことを聞いておこうという気になったのだ。

「……ん？」

　トイレ前を通り過ぎようとしたとき、何かが落ちていることに気づいた。

「なにこれ」

　乳白色の四角い形をした包み紙。そっと拾い上げ、裏表を確認する。ピンクの文字で何かが書いてあるけれど、フランス語か何かでまったく解読できない。よく見ると、うっすらと丸い円状のものが浮き出ている。中に入っているのは輪っかのガムかラムネか、とにかく何かのお菓子のように見えた。
　誰かの落とし物だろうけれど、学校にお菓子を持って来ているなんて知られたら、それこそ反省文ものだ。たまに道を歩いていたら折り畳み傘のカバーや靴下の片方が落ちていたりするけれど、そういう類のものは、落とした人が探しに来たときに分かりやすいよう、道路脇のガードレールなどに引っ掛けておくようにしている。けれど学校内にお菓子が落ちている場合は別。この親切心は仇となる。廊下の窓枠などに置いておこうものなら、学年主任による「お菓子を持って来たやつは誰だ」という犯人探しが始まってしまうからだ。
　私はその包み紙をポケットに仕舞うと、教室へ向けて再び競歩を始めた。

　朝礼が終わり、一限目が始まるまでの時間に身なりを整えておこうと思い、トイレへ向かう。すると男子トイレ前でうろうろとしている生徒がいた。

「杏寿郎！」

　煉獄杏寿郎。彼こそが、付き合い始めたばかりの彼氏である。杏寿郎はハッとした顔でこちらを振り向くと、「おはよう」と口角を上げた。

「何か探し物？」
「ああ、いや、その」

　彼らしからぬ動揺したその様子に、私は眉根を寄せた。廊下の隅から隅に視線を走らせる杏寿郎に、私の第六感がはたらく。

「もしかして、これ落としたのって杏寿郎？」

　ポケットから取り出した乳白色の包み紙を見せると、杏寿郎は目にも止まらぬ速さで私の手からその包みを引ったくった。

「それ何？　ガムか何か？」
「ゴッ、ゴムなわけがないだろう！　これはただのガムだ！」
「……え？　私、今ガムって言ったよね。ゴムって？」

　杏寿郎は目を見開き、「ゴッ、ガッ」と突然言葉を忘れたかのように息を吐く。

「ね、私にも食べさせてよ」
「だめだ断る！　これは食べるものではなく、その……」
「ガムなんじゃないの？」

　ふるふると頭を横に振った杏寿郎は、私から隠すようにして包み紙をポケットに仕舞い込んでしまった。

「そうだ！　悲鳴嶼先生に呼ばれていたのを忘れていた」
「え、もう一限目始まっちゃうよ？」

　杏寿郎は私の言葉が耳に入らなかったようにして、くるりと背を向け、階段の方へと走り出す。ああ、走ると怒られるよ。そんなことを思いながらも、鳴り始めたチャイムの音に背を押されるように、私も教室へと舞い戻るのだった。

　期末試験前で部活が休みだからと、ここ最近は杏寿郎と一緒に帰れる日が続いていた。二人で帰るなんてカップルっぽいねと浮つく私に、杏寿郎が「そうだな」と頬をほんのりと染めていたことを私はきっと生涯忘れないだろう。あのときの杏寿郎の姿が、今までの人生で見てきた何よりもかわいかったから。

「俺は君に嘘をついてしまった」

　下駄箱で落ち合ったときから、杏寿郎はどこか落ち着かない様子だった。校門を出て少し歩くと、杏寿郎はふと足を止め、そう言ったのだ。

「何？」

　私も立ち止まり、後ろを振り返る。杏寿郎はポケットから乳白色の包み紙を取り出し、彼らしい歯切れのいい口調で、けれど声量を絞りつつ言った。

「これはガムじゃない。避妊具だ」

　ヒニング。ひにんぐ。ひ、にん、ぐ――？

「いわゆるコンドームというものだ。今朝、宇髄に無理やり渡されて……彼女ができたなら持っておけ、これは御守りみたいなものだから、と」

　コンドームの響きに、私の脳は遠い記憶を引っ張り出してきた。中学の頃、学年のヤンチャな男子たちが水風船だと言って遊んでいるのを横目に見ながら、おませな友達が教えてくれた。あれは水風船なんかじゃない、コンドームだよと。本来の用途も、その時に知った。

「え、ええっ……？」

　ワンテンポ以上遅れた私の反応に、耳たぶを赤らめた杏寿郎は唇を結んで、どこか気まずそうに目線を泳がせていた。

「そ、それ、どうするつもりなの？　私まだ全然心の準備が……」
「俺もまだそのつもりは……！」

　顔から火が出るという言葉があるけれど、顔どころではない。全身の穴という穴から火を噴きそうだ。なんならもう今すぐにでも身体中の毛穴から熱を放出しないと、内側から溶けてしまいそうなほどだった。

「杏寿郎、それ……捨てる？」
「いや、ひとまず家の蔵にでも保管しておこうと思う。貰ったものを捨てるのは忍びないからな」
「あ、うん、そうだね。煉獄家の蔵に……」

　蔵に保管されるコンドーム。想像するとなんだかおもしろい。けれど杏寿郎は真剣に言っているので、ここで笑うのも失礼かと思い、私はうつむいて、込み上げる笑いをぐっと押し殺した。

「いつか時期が来たら、また」

　その言葉に顔を上げれば、杏寿郎はその赤い瞳をまっすぐに私へと向けていた。
　――いつかきっと、そのタイミングがやって来る。
　今は杏寿郎とそういうことになる絵が全く思い描けなくて、私は彼から伸びる影をぼんやりと見つめながら、「うん」とも「ううん」とも取れる曖昧な返事をした。

「新しくできたアイスクリーム屋に寄って帰るか？」

　えっ、と声が漏れる。自分でも驚くほどに浮ついた声色だった。見上げれば、杏寿郎はいつもの顔で笑っていた。その姿に、胸の中の凝り固まった何かが溶けるのを感じた。

「うん！　行こ！」

　歩き始めた杏寿郎の後を追いながら、私は声を弾ませた。
　杏寿郎はふと、「そういえば」と視線を左上に向けて何かを思い出すようにしながら言う。

「この避妊具、宇髄いわくバニラの味がするとかなんとか」
「……ねえ、気まずくてこのあとバニラ食べらんないじゃん」
「そうか？　俺は食べるぞ！」
「えっ、ずるい。それなら私も食べるもん」

　あーだこーだ言いながらアイスを食べる、そんな素朴で平和な日常。そこに色っぽさはないけれど、今はまだこれでいい。十分に満たされている。起きているのに寝坊してしまいそうなほどに、幸福な時間だから。
　でもいつかは、きっと。煉獄家の蔵で厳重保管される乳白色の包み紙にお世話になるタイミングが、きっと――。

（2022.05.29）

「kmt夢ワンドロワンライン」投稿作。お題「拾っちゃいました」で書きました。
うぶな高校生カップルです。
この後、蔵を整理していた瑠火さんが乳白色の存在に気づくも、そっと元の場所に戻して見て見ぬふりをしたり。

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