貞子が楽しみに取っていたソーダを、ことが飲んでしまった。髪や服を引っ張り合う大げんかにまで発展したところを、大学から帰った実弥が仲裁に入り、なんとかその場を鎮めた。しかし貞子はソーダへの未練を捨てきれず、膝を抱えてしくしくと泣く。そんな妹の姿に、実弥は「ちょっと待ってろ」と家を飛び出したのだった。 自宅前の道路を右に曲がれば、最寄りの自動販売機がある。先月までは、「つめた〜い」「あったか〜い」という温冷表記が付いた古きよき機種だったが、つい最近、電子決済対応の最新マシンに入れ替わった。ちなみに表記は「COLD」「HOT」に変わってしまった。大学受験で殺伐としていた時期、あの「〜」の文字が生む間延びした響きにほんのりと癒されていた実弥は、そこはかとない物悲しさを感じていた。 そんな新品の香りがまだ抜けない自販機の前で、一人の女性が立ち尽くしていた。どこか挙動不審なその様子に実弥が眉根を寄せていると、女性はこちらに気づき、「あっ」と目を見開いた。 「失礼いたしました。どうぞお先に」 「……いえ、どうぞ」 頭を下げる女性に、実弥も軽く首を前に出しながら一歩引く。気まずそうに唇を結ぶ女性の顔を、実弥は無礼にならない程度に窺う。女性といっても、玄弥とそう変わらない年齢のように見えた。 彼女は電子決済のパネルにカードを当てながら、「ええっと」とまごついている。そうして、意を決したように実弥の方を振り返り、 「あの……」 と、か細い声を漏らした。 「こちらは展示品なのでしょうか?」 「――はい?」 「このお水が欲しいのですが、売り物ではないのでしょうか。何やら先ほどからうまくいかず……」 自販機を使ったことがないのか。まさかと思いつつ、実弥は彼女の手元に視線を落とす。クレジットカードだ。それもブラックカード。富裕層しか持っていない幻のカードだと思っていた実弥は、見てはいけないものを見てしまったような気になりつつ、平静を装いながら言う。 「そのカード、電子決済に対応してます?」 「……電子、決済?」 カードの裏表を見ながら首を傾ける彼女に、実弥は続けて尋ねる。 「現金は」 「それが、あいにく持ち合わせておらず……」 尻すぼみになっていくその言葉に、実弥は納得したように頷くと、一歩前へと進み出る。そうして財布から抜き出した千円札を差し込み、 「この水でしたっけ」 と、「COLD」のラインナップから水を押した。がこん、と鈍い音を立てながら商品が落ちてくる。腰をかがめて受け取り口からペットボトルを掴むと、何が起きているのか理解できないというふうに目を丸くしている彼女へと差し出す。 「どうぞ」 「えっ? いえいえそんな! 申し訳ないです」 「いいっすよ。ついでなんで」 指先が痺れそうになるほど冷えたそのペットボトルを、彼女の手元に寄せる。彼女がおそるおそる受け取ったのを確認すると、実弥は再び自販機に体を向け、ソーダと缶コーヒーを買った。 「あの、お代金は……」 蚊の鳴くような声に、実弥は釣り銭を取り出しながら首を横に振る。 「でも――」 「困った時はお互い様。……って、弟や妹たちにも教えてるんで」 ふっと口の端を緩めた実弥に、彼女は眉をかすかに震わせたのち、「ありがとうございます」と恐縮そうに頭を下げた。 「では、すみません。お言葉に甘えて……頂戴いたします」 丁重に蓋を開けてペットボトルの口を咥えると、ゆっくりと上へ傾ける。ごくりと動く白い喉に、実弥はいかんいかんと目を逸らした。 「初めてです。こうして街角でお水を買って飲むなんて」 息を漏らしながら微笑む彼女に、実弥は「そうなんすね」と首に手を当てがいながら返す。 「なんだかとてもおいしく感じます。これは特別なお水なのでしょうか?」 ああ、きっと箱入り娘なんだろう。そう言ってラベルをまじまじと見つめる彼女の姿に、実弥はようやく合点がいった気持ちになった。 ――初めて自販機の前で見た時に感じた、どこか浮世離れしたような雰囲気。ブラックカード。自販機の使い方も知らなければ、ペットボトルの水も飲んだことがない。どっかの国の姫さんかなんかか? 「あの、そちらは?」 そんなことを考えていた実弥は、不意にそう声を掛けられ、びくりと肩を上げた。 「ああ、これはソーダです。妹が欲しがってて。こっちは自分用に缶コーヒーを」 「コーヒーが……缶に?」 「飲んだことないんすか」 「ええ、はい」 ここまで来るとおもしろくなってきたな。実弥は喉まで迫った笑いを押し殺すように、 「うまいっすよ。なかなか」 すると彼女は、「そうなんですね」と興味津々な様子で缶コーヒーを見つめている。 「飲んでみますか?」 「えっ、いえいえ! 二本もおご馳走になってしまうのはさすがに……」 そこで視界の端を黒い物が横切った。ふと気になって目を向けると、黒塗りの車がこちらに距離を詰めて来て、自販機のすぐ横、つまりは実弥と彼女のすぐ後ろに停車した。 なんだ、と警戒している実弥に向けて、彼女はゆっくりと口を開く。 「またここで会えたら……今度は、私が何かおご馳走させてください。そのときには、私もぜひ缶のコーヒーを飲んでみたいです」 体の前で手を重ね合わせ、どこか緊張したような目で実弥を見上げている。そんな彼女の姿に、実弥はハッと短く息を吐く。 「分かんねぇですよ、舌に合うかどうか」 そう言って緩めた口の端に、彼女は安堵したように笑うのだった。 「きっと不死川さんと一緒なら、なんでもおいしいです」 彼女が慣れた様子で乗り込めば、黒塗りの車は大通りの方へと走り去って行った。 車が完全に見えなくなるまで見送った後で、実弥はふと気がつく。 「……なんで名前知ってんだァ?」 (2022.05.22) 「kmt夢ワンドロワンライン」投稿作。お題「自動販売機」で書きました。 大学生の実弥×箱入り娘の夢主です。続く、かもしれない。 メッセージを送る |