- まだここにない声 - 宇髄くんは、学生時代からよくモテた。 てっきり一般企業に就職して、イケてるサラリーマンとしてそれはそれは煌びやかな生活を送るんだろうと思っていた。 けれど彼が選んだのは教師の道で、今は中高一貫校で美術を担当しているらしい。品行方正を求められそうなその仕事を、あんなプレイボーイがよく選んだなと思った。 生徒に手を出したりしてないのかと、誰かが聞いたことがある。「ガキに興味はねーよ」と笑っていたけど、はたして本当だろうか。だって私は、彼が大学生の頃、女子高生と付き合っていたことを知っている。 同級生の結婚式で再会してから、数人のグループでなんとなく集まるようになった。次は誰の結婚式だろうね、なんて、会うたびにそんなことを予想し合っていた。 宇髄くんはどうなの、と訊かれた彼は「結婚か。俺には縁遠いイベントだな」とそっけなく言った。 思えば再会してからの宇髄くんは、付き合っている人がいるかどうかという質問にも、はっきりと答えた試しがない。恋愛に興味がなくなったのだろうか。あんなにプレイボーイだったのに? いや、だからこそもう飽きてしまったのかもしれない。 今日も、いつものようにみんなが恋愛や結婚の話で盛り上がる中、私は自分にバトンが回ってこないように、そっと距離を置いた。 そうして、早々に輪から離れて他の同級生とバイクの話をしていた宇髄くんの隣に席を移す。 「なに。お前もバイク興味あんの?」 「あー、うん」 「嘘まる分かりすぎて逆に清々しいわ」 ハッ、と吐き出すように笑った宇髄くんは、まあ飲めよと言って生ビールを追加注文した。 ――付き合っている彼からプロポーズされた。でも私と彼は一年以上もセックスレスで、向こうには浮気の影すらある。だから、話があると言われたときは別れを覚悟した。蓋を開けてみればそれはプロポーズで、よくよく聞いてみれば体裁のための結婚だった。 この状況はどうするの、浮気相手とは別れたの、私のことまだ好きなの。いろいろな疑問が渦巻いたけれど、それでも私は、承諾した。周囲が次々に結婚していくことへの焦りなのか、間近に迫る三十歳という壁への恐れなのか、彼と過ごした五年という時間を無駄にしたくなかったからなのか。 結婚が決まって幸せ。決してそんなことは言えない心境だった。だから、結婚や恋愛の話題を振られないように、話の輪から抜けたのだ。 宇髄くんは、そういう類の話をしない。それが分かっていたから、彼の隣に座ったのだった。 「はい、じゃー改めて乾杯」 生ビールが運ばれて来ると、宇髄くんはそれを渡してくれた。そうして、自分のジョッキを掲げる。私も「乾杯」とジョッキを軽く当てた。 店に着いてから、まだお酒を飲んでいなかった。飲めないわけじゃない。アルコールに身が緩んで、同級生たちに今の心境を吐露してしまうようなことになるのが、怖かった。きっと「大丈夫だよ結婚したら変わるって」「を選んだってことなんだから胸張りなよ」「結婚できるだけ幸せだわ」なんて、そんな薄っぺらくて無責任な言葉が返ってくるだけなんだ。 宇髄くんは再び、向かいに座る同級生とバイクの話を始めた。私は泡立つビールに視線を落とし、ごくりと唾を飲む。 本当は、飲みたい。酔って忘れてしまいたい。忘れ去ることなんてできないのは分かってる。少しの間だけでもこの言いようのない感情から解放されるなら、それで十分だ。 「飲めば?」 はっと顔を上げると、宇髄くんが頬杖を突きながらこちらを見ていた。気づけば向かいの席の同級生はトイレへ行ったのか姿を消しており、このテーブルには私と宇髄くんしかいなかった。 「酔わせてどうこうするつもりとかねぇから、安心しろよ」 「……別に、そんな心配してないけど」 「あっそぉ」 どこか気だるそうに言う宇髄くんは、それでもじっと私を見つめてくる。 その視線から逃れるように、私はビールをあおるようにして飲んだ。 「溜まってそうな顔」 その言葉に喉がぎゅっと詰まり、むせ込んでしまう。 「は、え、なに?」 「溜まってそうだなって」 「……どういう意味で言ってる?」 「別にそのまんまだけど? いろいろ抱え込んでそうな、辛気臭ぇ顔してんなーって」 なんでそんなこと、言うんだろう。 「ねーもうやめてよねえ。宇髄くんって、昔からそういうところあるよね。人の心を見透かすみたいなさあ」 なんでもないように笑いながら言ってはみたけれど、すでに視界は霞んできていた。 ああこのままだとまずい。そう思って、席を立とうとしたとき。 「大丈夫か?」 宇髄くんが手首をつかんできて、そう言った。 「やめてってば」 自分でも声が震えているのが分かった。決壊寸前だったのに、ぎりぎり保ってきたのに、なんで。 宇髄くんは荷物を持って立ち上がると、そのまま私の手を引っ張って、他のテーブルにいた子たちに声を掛けた。 「悪ぃ、抜けるわ」 みんながどういう反応をしたのか、見なくても分かる。ひゅうっという口笛も聞こえた。私は顔を伏せながら、宇髄くんに手を引かれるまま店を去った。 歩きながらも涙が出て仕方なかった。こんな状態で他のお店に入るわけにもいかず、あまり人がいない公園のベンチに座って、ひとしきり声を殺して泣いた。宇髄くんは私が落ち着くまで何も訊いてこなかった。 なんだか、前にもこんなことがあったような気がする。次第におさまっていく涙に鼻をすすりながら、ふと思った。 「宇髄くん。学生時代にもこうやって、私が泣き止むまで待ってくれたことなかった?」 「あーあったかもなぁ」 「なんでだっけ。ぱっと思い出せないや」 「そんだけ大したことじゃなかったってことだろ」 「……あ、バイト先で理不尽に怒られてへこんでたときかな」 「そんなことで慰めてやってたわけ? 昔の俺、まじでいい奴だよなぁ」 そうだね、と相づちを打つと「思ってねえだろ」と突っ込まれた。それに堪えきれず笑うと、宇髄くんも微かに笑った。 「今度結婚する予定なんだけど、もうずっとセックスレスで。多分浮気もされてるんだよね」 自分でも驚くほどスムーズに言葉が出てきた。ひとしきり泣いたからだろうか。 宇髄くんは別段驚くわけでもなく、「へえ」と、無関心でも関心がありすぎるわけでもないような声色で返した。そんな曖昧な反応がちょうど良くて、ありがたかった。 「セックスだけが愛情のバロメーターじゃないって言う人もいるけど、思っちゃうじゃん。求められない私って、女として価値がないのかなって」 風に吹かれてカラカラと転がる空き缶を見つめながら、淡々と続ける。 「この間さ、ウエディングドレスの試着に行ったの。ドレス姿を見てもらったらそういう雰囲気になるかなって少し期待したんだけど、その夜も何もなくて。夜中に起きてリビングに行ってみたら、浮気相手なのかな。彼、電話で話しながら一人でしてて。あ、これでも無理なんだ私、ドレス着ても浮気相手に負けちゃうんだって。それからはもう、料理するのも苦痛で。なんでこの人のためにごはん作らなきゃいけないんだろうって」 今夜も家に帰ったら、あの人がいる。昔はこんなんじゃなかったのにな。一緒に暮らす家に帰ると心の底から安心して、もうずっとここでこの人と過ごせれば、それだけで幸せだなんて思ってたのに。今では帰るのがつらく、自分の無価値さをただ突きつけられるだけの空間になってしまった。 「そんなんだったら、別に私と結婚しなくて良くない? ね、おかしいよね」 笑いながら隣の宇髄くんを見ると、彼は背もたれに寄りかかって足を組んだまま、転がる空き缶を真顔で見つめていた。 私も再び缶へと視線をやる。そのとき、通行人の男性が空き缶を邪魔くさそうに蹴飛ばした。 「虚しい」 無意識のうちにこぼれ出たその言葉は、高く飛んでまた地に落ちた缶の音と重なり合った。紛れて聞こえなかったらいいなと一瞬期待したけれど、宇髄くんは耳がとても良いんだということを思い出し、諦めた。 少し間を置き、宇髄くんが息を吸う音がしたので顔を向けた。私の耳も、だいぶ研ぎ澄まされていたらしい。 「こういうとき、大抵の男なら言うんだろうな。そんな野郎はクソだ。付き合ってる女に、自分には価値がないなんて思わせるような奴はとんでもねぇ地雷だ、って」 そこまで言うと、宇髄くんはふっと笑った。それはどこか自嘲的な笑いだった。 「だが俺は言ってやれねーんだわ。クソ野郎側の人間だからな」 不意に立ち上がった宇髄くんは、蹴られた空き缶を拾い上げる。そうしてゴミ箱へとそっと入れた。捨てるのではなく、入れた。その表現の方が合っている。そんな、どこか丁寧さのにじむ仕草だった。 「でもまあ、そんなクソ野郎から何か言うとすれば」 言いながらこちらへ戻って来ると、ベンチへどっかりと腰を下ろす。 そうして、宇髄くんの一挙手一投足を眺めていた私に顔を向け、 「やめたら? 結婚」 さらりとそう言ったのだ。 「え、いや、だって……」 ああ、まただ。なんで分かるの。心の奥底に無理やり押し込んでいた声が、この人には聴こえるのかもしれない。 頭の半分でそんなことを考えながら、もう半分では、ひどく冷静に現実を捉えている自分がいた。 親にも挨拶をした、式場もドレスも決めた。エステだって通い始めたばかりだし、職場の上司にも話をした。今さら後戻りなんて、できっこないはず。 「もう両家の顔合わせも済んだし、式場も……」 「目先の恥や損なんて捨てちまえよ。この先も続く虚しさより、遥かにマシなんじゃねーの?」 恥や損なんて捨てろ。その言葉が頭の中で反芻して、胸まで落ちてきたとき、鼻がぴくりと動いてしまった。喉が締まる、眉間に皺が寄る。また、泣いてしまう。 そう思ったときには遅かった。涙があふれて、私は顔を覆って泣いた。 「泣かせることしかできねぇ男が、人の人生背負えるかよ」 ふと顔を上げて、宇髄くんを見る。 邪魔くさそうに蹴飛ばされた空き缶が宙を舞って地へ落ちたように、夜空を仰いで放ったその言葉は、宇髄くん自身に降り掛かっているようにも思えた。 「やめとけ。そんなクソ野郎との結婚なんて」 この人は、聴こえすぎてしまうんだ。宇髄くんが恋愛の話をしたがらないことや、自らをクソ野郎だと蔑むその背景を想像すると、途端にそう思えてきて仕方なかった。 「――宇髄くんはクソ野郎なんかじゃない」 「なにお前、泣いてたんじゃねーの」 「私の彼と宇髄くんは全然違うよ」 「……俺のこと知らねえだろ」 「確かにそうだけど、でも、聞こうともしない人と聴いてくれる人とじゃ、全く違うんだよ」 表に出すことができずにいた声に耳を傾け、手を差し伸べてくれる。けれど、特別な人にだけ与えればいい優しさまで、他の人にも与えてしまうんだろう。求められたら無視ができない、聴かなかったフリなんてできない、そんな宇髄くんだから。 「ほんっと地味なやつだなお前は、昔も今も。俺のことなんてどうでもいいから、今は自分のことだけ考えてピーピー泣いてろ」 乱暴にそう言っても、宇髄くんの口元は少し笑っていた。 「宇髄くん」 これからどうなるか分からない。私の心の中にどんな声が生まれているのかも、自分ではまだ聴こえない。 それでも、もしかしたら宇髄くんには届いてしまうかもしれない。またその優しさを盗み取ってしまうかもしれない。 だから彼の両耳を、そっと塞いだ。 ごめんね。その優しさと苦しみに今まで気づけなくて、助けてもらってばかりで。そんな言葉たちは呑み込んで、私は言った。 「幸せってなんだかまだよく分かんないけど、お互い、幸せになろうね」 (2021.05.16) メッセージを送る |