「あ、起きてしまいましたか」 杏寿郎が目を覚ますと、そこには自分を覗き込むの顔があった。そうして鼻に届いた線香の香りで、杏寿郎は自分が仏間で眠りこけてしまっていたことに気づく。 任務から帰るとまず仏壇に手を合わせるのが、杏寿郎の習慣だった。連日、骨の折れる任務が続いたからなのか、亡き母に任務の報告をした後で猛烈な眠気に襲われ、少し横になるだけのつもりが、随分と深い眠りについてしまったようだった。 「よもや、ずっと寝顔を見ていたのか?」 「ずっとではありません。……ちょっとだけです」 身を起こしてそう訊く杏寿郎に、は少し恥じらうように答えた。 「そうか! それは恥ずかしいな!」 言葉とは裏腹に、全く恥を感じさせないその様子に、はころころと笑う。 は煉獄家の女中で、杏寿郎が物心ついた頃にはすでに住み込みで働いていた。杏寿郎よりいくつか歳上で、幼い頃はの仕事の合間によく一緒に遊んだり、勉強をしたりした。 「杏寿郎さん、随分とお疲れのようですね。お風呂を焚いておりますので、いつでもどうぞ」 そう言いながら、は仏壇の花を取り替え始める。 杏寿郎はが手に持つ花に目を留める。 「菜の花か」 「はい。今年も綺麗に咲いていましたよ」 「行ったのか? 一人で?」 「……あ、ごめんなさい。今朝、千寿郎さんと一緒に」 目を見開いたままの杏寿郎に、は眉を下げて「ごめんなさい」とまた謝る。 「杏寿郎さんも一緒にと思ったんですけど、とても気持ち良さそうに眠っていらしたから」 菜の花が一面に咲く場所がある。それは幼い頃にと見つけた、二人にとっての秘密基地だった。千寿郎が生まれてからは、三人にとっての特別な場所になった。そこへ行くことで、杏寿郎は春の訪れを肌で感じるのだった。 「いや、気にするな」 そうは言いつつも、千寿郎と行ったと聞いて、杏寿郎は頭を横から殴られるような妙な感覚に襲われたのだった。きっと千寿郎に早く見に行こうとねだられたのだろう。そう思うことでほのかに波立つ心を落ち着かせようと、目を閉じる。 瞼に浮かぶのは、菜の花の黄。そしてその中に佇む、幼い頃のの姿。それは、に「姉上になってほしい」と懇願した、あの日の景色だった。その言葉に目を丸くしただが、すぐに笑って、こう言ったのだ。「はとっくの前からそのつもりですよ。けど、他の人には内緒です」と。なぜ、と聞いても答えてはくれなかった。 「杏寿郎さん?」 瞼を上げると、が心配そうな表情で杏寿郎を覗き込んでいた。 「やっぱりお疲れのようですね。大丈夫ですか?」 するとは手のひらを杏寿郎の額に、そしてもう一方の手を自分の額に当てた。杏寿郎はその柔らかさに、瞬きを忘れてしまう。 「私よりも熱いけど……でもそれは、いつも通りですもんね」 眉根を寄せる。杏寿郎の額から手を離し、矢継ぎ早に質問をする。 「お風呂に入る体力はありますか? 先にご飯を召し上がります? それとも、もう寝ますか?」 杏寿郎は畳の一点を見たまま、自分の額に手を当てる。 「風呂に」 杏寿郎にしては小さな声だった。そのためはぐっと顔を寄せ、 「本当にお風呂で大丈夫ですか? 倒れて頭をぶつけたりしませんか?」 と杏寿郎の様子をうかがう。 どうしてこうも調子が狂うのだろうか。杏寿郎はを見つめながら首を傾げた。もつられて、首を横に倒す。少しの間を置いて、二人してそのおかしさに気付き、同時に噴き出す。 「心配を掛けてすまなかった! もう平気だ」 いつもの調子でそう言った杏寿郎に、は安堵した様子でほほ笑むのだった。 杏寿郎は風呂に浸かりながら、窓の外を見やる。もう陽が傾きかけていた。 じきにまた、鬼狩りのために出立しなければならない。こんな状態であれば、が菜の花畑に誘うのをはばかるのも無理はない。今年はもう難しいだろうか。 杏寿郎は深く息を吐き、天を仰ぐ。思えば、が眠っている姿を見たことがない。幼い頃から、杏寿郎が目を覚ますよりも先に起きていて、床に就くときには翌日の支度でまだ働いていた。それは杏寿郎が鬼殺隊に入ってからも変わらず、陽が落ちる頃に出立する杏寿郎を見送り、陽が昇る頃に帰ってくるのを出迎えてくれる。 ももう、嫁いでもおかしくない年頃。そうやって朝から晩まで働いていては、良い縁を見つけるのも難しいはずだが、果たして。 はいつまで煉獄家にいてくれるのだろうかと、近ごろの杏寿郎はそんな考えを抱く機会が増えていた。ふと、それを千寿郎にこぼしたことがある。 「いつまでも一緒にいることはできないんでしょうか」 千寿郎は物寂しそうにそう言った。千寿郎にとっても、は姉のような存在だった。 外から聞こえてきた千寿郎との笑い声に、杏寿郎は目を閉じる。 ――もいつか、離れて行くのだろうか。 「兄上、おかえりなさい。今日は少し遅かったんですね」 昼前に帰宅した杏寿郎を、千寿郎が出迎える。杏寿郎は「ただいま」と言いつつ首を傾げる。 「はいないのか?」 「あ、さんは買い物に出ていて。その、父上のお酒が切れてしまって、それで……」 眉を下げる千寿郎は、父に聞こえることを恐れてなのか、小声でそう答えた。 「そうか、分かった。いつもの酒屋だな」 「はい。えっ、兄上?」 踵を返した杏寿郎に、千寿郎は目を丸くする。 「迎えに行ってくる」 杏寿郎が表へ出て少し歩いていると、ちょうどが向かってくる姿が見えた。こちらには気づいていないようだ。杏寿郎が声を掛けようと口を開きかけたとき、 「さん!」 すぐ後ろから追いかけて来た男にが呼び止められる。酒瓶を渡され、ハッとした様子で頭をぺこぺこと下げる。杏寿郎は、男の眼差しが気に掛かった。 「」 男と別れた後で杏寿郎が呼び掛けると、は目を丸くした。そうして、酒瓶を抱えるようにして駆け寄ってきて、 「杏寿郎さん! 今お戻りでしたか?」 と言うと、杏寿郎の足先から頭までじっと見る。 「良かった、今日もお怪我はなさそうですね」 そうして心底安堵したように笑うのだった。そんなの笑顔にこそばゆい気持ちになりながら、杏寿郎は手を伸ばし、から酒瓶を取った。 「こんな重たいものを買いに行かせて、申し訳ない」 「え? 何を言うんですか。煉獄家でお勤めしているんですから、当然のことです。むしろお酒を切らす前に買っておくべきでした」 は酒瓶を受け取ろうとするが、杏寿郎が「俺が」と言って抱えたまま歩き始めたので、申し訳なさそうな表情で後に付いて歩く。 「。一つ訊いても良いだろうか」 「はい、なんでしょう?」 「先ほどの男性は」 「……あ、見ていらっしゃったんですか? 恥ずかしい」 横目で見やると、が頬をほんのりと赤く染めていたので、杏寿郎は足を止める。 「あの方は――」 「!」 不意に大きな声でそう遮った杏寿郎に、はびくりと肩を上げる。 「菜の花を見に行こう」 菜の花畑の黄と緑の中で、杏寿郎は伸びをするを見つめていた。 いつか、がぽつりと話したことがある。田舎の里にも菜の花畑があって、この世で一番最初の記憶は、その風景なのだと。自分のことをあまり語らないがそう言ったことを、杏寿郎はずっと憶えていた。 「綺麗ですね、杏寿郎さん」 笑うに、杏寿郎は大きく頷く。そうしては、身を屈めて菜の花に触れながら言う。 「さっきの方は、いつも行く酒屋の息子さんですよ」 杏寿郎を見上げ、首を傾げる。 「なんだと思ったんです?」 言い淀む杏寿郎に、くすくすと笑う。 「かわいらしい奥さまもいらっしゃいます。どうも私が妹さんにそっくりらしくて、良くしてくださるんです。今日はうっかり、買ったお酒を私がお店に忘れてきてしまって、それで届けてくださったんです」 その言葉で、杏寿郎は波立っていた心が途端に凪いだように思えた。その様子をうかがいながら、は小さく笑む。 「それは」と口を開いた杏寿郎は、を見据えて、 「うっかりしすぎだな! も疲れているんだろう、数日休みを取るといい!」 と、明朗な口調で言うのだった。は目をぱちくりとさせたが、まっすぐな瞳で見つめてくる杏寿郎に根負けしたように、ふっと笑う。 「杏寿郎さんもお休みを取られるなら、そうします」 「む、それは難しいな」 「では私も休みません」 「けれど俺はが眠っているところを見たことがない。しっかりと休めているのか?」 「心配ご無用です。杏寿郎さんが任務に当たられている頃、は夢の中におります」 「そうか! 良い夢か?」 「それはもう、良い夢を」 「それは良かった!」と笑う杏寿郎に、は目を細める。 「杏寿郎さんは本当に優しい。私のことなんて、お気になされないでください。杏寿郎さんのご苦労に比べれば、私なんて全然大したものではないんですから」 「苦労は人それぞれだ。比べるものでもないだろう」 「まあ、そうですね。なんというか、正直に言うと私は、苦労なんてしてないんです。だって、煉獄家のみなさんのために尽くせることが私の幸せなんですから」 そう言ってほほ笑むに、杏寿郎は一歩踏み出し、その手を握る。 青い空に手を振るようにして咲く菜の花は、風にそよそよと揺れている。そんな中で手を取り合う二人は、互いの目をまっすぐに見つめていた。 「"みなさん"ではない。も煉獄家の一員だ」 「……ありがとうございます、嬉しいです」 そうは言いつつも、の表情は、本当に嬉しい時のそれではない。あの時と同じだと、杏寿郎は思った。「姉上になってほしい」と言われた時の、いくつもの感情を織り交ぜたようなあの顔。 杏寿郎はの手を引く。が小さく声を漏らしたが、それに構わず抱きしめた。もうずっと前からこうしたかったような、こうあることが自然であるかのような気さえした。 「杏寿郎さん?」 「離れて行かないでほしい」 「……どこにも行きませんよ」 「いつかは嫁いでしまうんだろう」 「それは――」 「行くな」 杏寿郎の抱きしめる力が増す。 「俺の妻になってくれないだろうか」 の肩口に埋めるようにして、そう言った。 ――そうだ。そう願っていたんだ。あの時、姉上になってほしいと言ったが、そうではない。毎年この菜の花畑で共に春を迎え、いつかはひとり、またふたりと大切な存在を増やしていける、そんな家族になりたいと、幼心に願っていた。 「杏寿郎さん。私はあの時、姉上になってほしいと言っていただけて、それだけで十分嬉しかったです」 は杏寿郎の胸を軽く押し、体を離す。そうして杏寿郎を見上げ、ゆっくりと口を開く。 「……でも、私は田舎の貧しい百姓の娘。煉獄家でお勤めしていて、よく分かりました。身分が違いすぎるんです。こんなに由緒正しい家柄に釣り合う身では、到底ありません」 眉を下げ、泣き笑いに似た表情を浮かべる。 杏寿郎はそんなの腕を掴んで離さない。両目でじっとの顔を捉えたまま、切り出す。 「はずっとそのことを気にしていたのか? あの時、姉のように思っていることを周りには内緒にしてほしいと言ったことも、それが理由なのか?」 は伏目になり、こくりと頷く。 しかし、杏寿郎はふっと笑う。 「そんな些末なことを気にする必要は全くない!」 天高く響き渡るようなその声に、は顔を上げ、瞬きを忘れたようにして杏寿郎を見つめる。 「鬼殺隊では、様々な環境で育ってきた者たちと肩を並べて、共に戦っている。そこに生まれは何一つ関係しないし、そもそも俺の価値基準に身分などというものはない」 見開いたままのの瞳が、次第に揺らめき、目の淵はだんだんと薄紅色に染まっていく。 「はだ。俺は今目の前にいる君と一緒になりたい」 が手のひらで自らの口元を押さえると同時に、その目からは涙がこぼれ落ちた。 「本当のことを言ってもいいでしょうか」 涙に埋もれるに、杏寿郎は優しく頷く。 「私も、もうずうっと前から、いつかこんな日が来たらと願っておりました」 振り絞るようにして言う。杏寿郎は手を伸ばし、の頭をそっと撫でる。 「今度はもう内緒にしなくていいな」 「はい」 そうして抱き合った二人に、いくつもの草花の香りを乗せた風が吹く。 (2021.04.13) メッセージを送る |