指で髪を梳くのが癖だった。
 とはいえ、無意識のうちにやっていたことなので、自分にこんな癖があると自覚してはいなかった。「お前それ癖だよな」と教えてくれた隊士は、ついこの間、私の腕の中で死んでいった。

 人の癖なんて知らない。知ったところで何の役にも立たないから、観察するだけ無駄だ。そういう無駄な時間の使い方をしていたから、あの隊士だって鬼にやられて死んでいったんだろうと思う。



 女に鬼殺が務まるわけがないと散々周りに馬鹿にされたが、今のところ私は生きているし、この長い髪だって一度も傷つけられたことがない。階級だって、上から数えた方が早い。
 任務では、単独だろうと合同だろうと、私は鬼を見つけると真っ先に斬り込んでいく。女は男の後ろを守ってりゃ良いだなんて言われたくないし、どうせ他は鈍刀ばかりで頼りにならないからだ。

 その日も、鬼の姿を見た瞬間に、私は一番に駆け出した。他の隊士からの待て待てという声が聞こえた気がするけれど、もう鬼と目が合ったから、ここで引き下がるわけにもいかないと思った。
 死ぬかもと思ったことは何度かある。確信を持って死ぬと思ったことは、一度もなかった。
 けれどその時、まだ距離があると思っていた鬼が瞬き一つする間もなく目の前に現れて、初めて思った。

 ――あ、死ぬ。

 そう思った時、とてつもない爆発音と煙で、耳も目も効かなくなった。爆風の衝撃で木に頭をぶつけて、脳が頭蓋の内でぐらぐらと揺れるのを感じた。
 遠のいていく意識の中で、「派手にぶつけたな」という声が聞こえた気がするけれど、もうその後のことは覚えていない。


 その日からだった。音柱に執拗に絡まれるようになったのは。
 お前の命を救ってやった神だと、訳の分からない恩着せがましいことを言って近づいてきたと思えば、恩はしっかり返せと言われて、任務明けの早朝から夕方近くまで長酒に付き合わされる。それは一度や二度のことではなかった。
 いつまで恩返しを続けなければならないんだろうと思いながらも、柱の言うことには逆らえなかった。

「いいんですか? 任務も終わったのに、まっすぐ家に帰らずこんなところで油売っていて。奥様方が心配なさるのでは」

 そう言うと、「あぁ?」と面倒くさそうな声で睨まれた。音柱はザルだった。飲んでも飲んでも酔わない。だからタチが悪い。

「俺がいなくてもしっかりやっていけるから心配いらねぇんだよ。うちの嫁たちを舐めんなよ、この地味くそドちび」

 酒が入ると口がさらに悪くなる、ということは学んだ。

「……ちび、ではないです」
「俺から見りゃ豆粒だ」

 そう言って私の頬を片手で掴み、

「一瞬で潰せるわこんなもん」

と、あながち冗談でもなさそうな目で言うので、少しゾッとしてしまった。鬼にすらあまり感じたことのない感覚なのにと、音柱の手から解放された私は取り繕うように酒をあおった。
 おおいくねぇ、と愉快そうな声を上げる音柱。私もザルだった。早く帰りたいがために酔ったふりをするのも、負けた気がして嫌だ。だからこの人と飲むと終わりがなくて困る。

 誰か止めに入ってほしいと願ったころ、店主がとびきり強い酒だと言って酒瓶を持ってきた。店中の酒を飲み干さんばかりの私たちを帰らせようと、潰しにかかったんだろう。
 おやじに見せてやれと音柱に煽られ、私はその酒を流し込む。店主もむきになって次々に注いでくる。音柱が涙を浮かべながら馬鹿笑いしている。その姿に腹が立って、「あんたも飲みなさいよ!」と言い放ってしまった気がする。正直、あまり覚えていない。



「お、目覚めたかよ」

 瞼を開くと端正な顔立ちの男がこちらを見下ろしていたので、私は瞬時に身を起こし、腰元の刀を抜こうとした。が、刀がない。それどころか隊服も着ていない。代わりに、清潔そうな藤色の浴衣に包まれていた。

「ここは藤の花の家だ。お前、見事に酔い潰れてよぉ。ド派手に吐き散らかしてたわ」

 そう言って笑う着流し姿の男は、よく見ると音柱だった。いつもの派手な額当てや目元の化粧をしていないので分からなかった。とは言え気配や声で気づけないなんて、まだ酔ってるのか、と自分の情けなさにため息を吐いていると、音柱が顔を寄せてくる。

「さ、じゃあ続きやるか」
「――えっ?」

 そう言って私の肩をトン、と押す。あっけなく布団に倒れ、その上に音柱が覆い被さってくる。
 そうして耳元に顔を近づけてきて、囁くように言う。

「覚えてねぇのかよ。抱いてください音柱様って、あまーい声で言ってたんだぜ?」
「……いや、言うわけないです」

 「は?」と間抜けな声を漏らし、音柱は目を丸くして私を見下ろしている。

「だって私、そんなことこれっぽっちも思ってないですもん。そもそも私はそういうことに興味がないんです、無駄だから。たとえあったとしても、嫁が三人もいる方とそんな修羅の道を歩む気はありません」

 きっぱりとそう言い切った私に、音柱は少し身を起こして、「あっそ」と言った。そこにどんな感情があるのかは分からなかった。
 正確に言えば、分かろうとしなかった。無駄だと思っていたから。いつ死に別れるか分からないなら、他人のことについて考えたって、知ったって、深く付き合ったって、無駄だ。

 どいてくださいと言うと、「まあちょっと待てよ」と返され、瞬きする間に音柱の顔が目前に来ていた。
 あの鬼の時と同じだ、と思った時には、唇に温かいものが触れていた。訳が分からず抵抗することもできないでいると、音柱は角度を変えながら執拗に唇を重ねてくる。息が苦しくなってきて、頭をぶんぶんと横に振って唇から逃れようとするも、片手で頬を掴まれて固定されてしまった。途端に、一瞬で潰せると言われたことを思い出す。けれどその手つきは、居酒屋で掴まれた時よりも優しかった。

 ようやく解放された時、乱れた呼吸を整えるのに精一杯の私に、音柱は言った。

「もうちょっと無駄を楽しめ。せっかく生きてんだからよ」

 言葉の意味を咀嚼する前に、再び軽く口付けをされた。私は自分の口に手を当てて、三度目の奇襲に備えながら言う。

「それを伝えたかったんですか?」
「んー、まあなぁ」
「言うだけで良くないですか、口付けまでする必要あります?」
「うるっせぇ! 無駄を楽しめっつってんだろうが」
「はあ、そうですか」
「……お前がいつも明後日の方向見てるみたいで、こっち向かせてみたくなったんだよ」

 音柱は少し罰が悪そうにして体を退けたので、私はまだ口元を覆い隠しつつ身を起こした。
 言いたいことはごまんとあったが、呑み込んだ。正直、自分でも不思議なほど、口付けをされても嫌な気持ちはしなかった。だから、これ以上このことについて話すと、何かが自分の中で首をもたげそうな気がして、もう何も言わない方が得策だと思ったのだ。音柱も何も言ってこなかった。

 沈黙が流れる中で、私は自分の髪に指を通す。すると、毛先近くで絡まってしまった。こんなことなかったのに。今までは、いつだって何にもつっかえることなく、するすると通っていってたのに。
 それでも強引に押し進めようとすると、指まで絡まってしまった。なんだか腹が立ち、手近に落ちていたクナイを手に取る。なぜこんなところに音柱のクナイが。そう思いつつ、絡まった髪を切り落とそうと当てがう。が、途端に手を掴まれてしまった。

「おいおい何やってんだ」
「もつれた部分を切り落とそうかと」
「なんだよそれ、引くわ。ご自慢のきれーな髪がかわいそうだろ」
「別に自慢なわけじゃ――」
「へぇ? いつも触ってるから、てっきりそうなのかと」
 
 いつも触ってるから。その言葉に、「お前それ癖だよな」と言ったあの隊士の声が蘇るようだった。ああ音柱もそうやって、周りのことをよく観察してる人なんだな。だから私が明後日の方向をどうのとか考えるんだろう。
 そんなことを漠然と思っているうちにクナイを奪われる。そして音柱は私の指が絡まったままの髪を一房手に取り、

「もつれたんなら、手でほどきゃいいだろ。地味だがな。力技で無理矢理どうこうするんじゃなくてよ」

と、慣れた手つきでほどいてくれる。きっとお嫁さんたちの髪がもつれた時にも、こうしてあげてるんだろう。また漠然と、そう思った。

「ほーら、ほどけたぜ」

 ぽん、と私の頭に手を置き、音柱はそう言って笑った。
 クナイが落ちている理由を思い出した。酔いに任せて、忍の武器を見せてほしいとねだったのだ。確かクナイを手にした私は、所構わず投げてみた気がする。ああ、やっぱりそうだ。床の間の柱に傷ができている。朝になったら、家の人にお詫びしないと。

「私がねだったのは、音柱の体じゃなくてそのクナイですよね」

 音柱は悪戯な笑みを浮かべて、「さぁな」と言った。
 そして先ほどの音柱の言葉を反芻する。もつれたなら、ほどけば良い。無駄なものは切り落とそうとしてきた私にとって、そんな考えは今まで持ち合わせてこなかった。
 ふと音柱を見ると、涼しい顔をして障子の方を眺めている。障子の隙間から、月明かり差し込んでいた。その明かりを浴びている横顔を見ているうちに、やられっぱなしは性に合わない、と思った。

「……いいこと言ってるふうに聞こえますけど、物理的に髪がもつれたのは音柱のせいですからね」

 そうして胡座をかいて座っている音柱へと近づき、

「お返しです」

と、その髪をぐしゃぐしゃに掻きむしって差し上げた。それは指の間からこぼれ落ちていくほど、さらさらとした髪だった。

「大丈夫。もつれたら私がほどいてあげますよ」

 されるがままの音柱がおかしくて、つい笑ってしまった。すると大きな目がさらに見開かれて見上げてくるので、私は思わず首を傾げてしまう。
 あ、と思った。そうだ私、久しぶりに笑ったんだ。

 髪から手を離し、すみませんと詫びて少し距離を置く。そうして音柱を見やると、首を掻きながら「くそ」とつぶやいている。

「なに地味に見つめてやがんだよ」

 柄にもなく頬をうっすらと染めているこの人は、一体今何を考え、どんな感情でいるんだろうか?
 修羅の道を歩むことにはなりたくないけれど、この人のことについて少し考えてみても楽しいかもしれない。そう思った。



(2021.02.17)

一線」に続きます。


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