たっぷりとした夏の日差しに照らされた草は、風に揺られてさざ波のように広がっていく。ドラコはずしりと重いトランクを置いて、額に滲む汗を拭った。息を吐きながら入道雲を仰ぎ見る。 帰省を憂鬱に感じるようになったのは、いつからだったか。夏を実家で過ごせば、再び始まってしまう寮生活を余計に億劫に感じて、もういっそ退学してやりたいとまで思ってしまう。何も学校じゃなくとも勉強は出来る。あの空間で得られるものなんて何も無いんじゃないか。長期間実家でぬくぬくと過ごしていれば、そんな考えに取り憑かれてしまってどうもいけないのだ。
生温かい風が耳をかすめていく。空から目を逸らすと、向こうの丘の上に影が見えた。目を細めて見ていると、それはだんだんと近付いて来て、次第に姿がはっきりと現われてくる。
「アルフ」
呟くように言うと、鳴き声が返ってきた。白と黒の毛を揺らしながら走り来るパピヨン犬は、立て続けに鳴いた。もう一度名を呼んだドラコがその場に膝を付くと、アルフはその足に飛びつく。
「ここまで走って来たのか?僕が今日帰ることを知って?」
尻尾を振りながら頬を舐めてくるアルフに、ドラコは笑った。 あの丘を越えれば実家が見えてくる。他に行く所も無いのに、ここまで来て引き返そうとも思っていたが、こうして愛犬が小さな体で迎えに来てくれたのだから、やはり帰るしかない。 ドラコは犬を抱えて立ち上がる。
「帰ろう。アルフ」
そうしてもう片方の手でトランクを持ち上げると、再び足を踏み出した。
住み慣れた家を嫌っているわけではない。また依存してしまうことを、怖れているのだ。
玄関扉を開けて現われた女は目を見開いて「あら」と漏らす。その様子がひどくわざとらしかった。
「お坊っちゃま」 「からかってるのか。その呼び方はやめろと言ったはずだ」
言うと、女は驚きを取り繕った顔から一瞬表情を消した。そうしてふっと笑み、
「おかえりなさいませ、ドラコさま」
と、道を開けた。ドラコは不服そうな顔でメイドの横を通り過ぎる。おそらくアルフを迎えに行かせたのは彼女だ。アルフが自分でこの重い扉を開いて外に出るとも思えないし、何よりあのわざとらしい演技を見れば分かる。 メイドはドラコの後ろ背を追いながら、口早に言う。
「奥さまがひどく心配なさっていますよ。ドラコさまが“迎えは要らない。自分一人で帰って来る”なんて仰るから。早くお顔を見せてあげてください。中庭にいらっしゃいます。そちらのトランクは私が」 「自分でする」
伸ばされた手をドラコが払うと、メイドは眉根を寄せた。そして前を歩くドラコを追い越す時、強引にトランクを奪った。
「!」 「なにも中を開いて見たりしませんよ」
振り返っていたずらに笑むと、両手でトランクを抱えたままぐんぐんと歩いて行ってしまった。ドラコは小さくなっていく背中を見つめながら呆然と立ち尽くす。
「なんてメイドだ……」
そう独りごちると、腕の中のアルフが甘えるように喉を鳴らした。
プライバシーも何もない寮での暮らしに比べれば、生まれ育った家で過ごす日々は遥かに快適で、何もせずとも満たされていた。することと言えば決まっていた。読書をしたりアルフを連れて散歩をしたり、たまに幼馴染のセオドール・ノットの屋敷に出掛けたり。それだけだ。それでもドラコは満足していたし、退屈だとも感じていなかった。しかしその姿は母から見れば哀れだったのだろうか、何度もフランスの別荘へ行かないかと誘われた。断ればその度に心配そうな顔をされる。そうしてその度にが母を「大丈夫です。ただの思春期ですよ」と言って安心させていることを、ドラコは知っていた。
確かに、ずいぶんと不健康だ。ドラコは窓の外で晴れ渡る空を見ながら思った。学校での規律正しい生活に比べれば。 ベッドを見遣ると、アルフがシーツを噛んで遊んでいた。それを諌めればアルフは渋々といった様子で獲物を放し、その場で丸くなった。
「いじけるなよ」
上目で見つめてくるアルフに、喉奥を鳴らして笑った。そうして自分もベッドに上がり、伏せていた本を再び読み始める。 アルフの耳がぴんと立った。無機質な音が響いたかと思えば、部屋の扉が開く。
「お掃除させて頂いても?」
扉の影から顔を覗かせたは、にこりと笑った。ドラコがため息を吐いたのを承諾の返事と捉えたらしく、掃除用具一式を携えてずかずかと部屋へ入って来る。 メイドにしてはずいぶんと無遠慮な女だった。彼女は去年の夏からこの屋敷で働いている。正確な年齢を訊いたことは無いが、二十代前半だろうとドラコは踏んでいた。 は布を絞り、窓を磨こうと腕を伸ばす。その様子をベッドの上から見つめていたドラコに、彼女は不意に振り返って首を傾げた。
「なんです?さっきからジロジロと。私、何か変ですか?」 「別に」 「そうですか。シーツも換えたいので、出来ればアルフを連れて外へ出てくださると助かるんですけどね」
彼女はそれまでのメイドとは違い、両親やドラコに対して物怖じすることなく自らの意見を言うような、奇異なメイドだった。それでも解雇はされずにこの屋敷に居続けられるのは、ひとえに彼女が器用な女だったからだ。人が遠慮しながらも心の底で望んでいることを見抜き、状況に合わせて対応する。決して不快な気持ちにはさせずに、さり気なくそれをやって退ける。母のナルシッサは彼女をたいそう気に入っていて、常に「あの子は賢い」と称賛しているほどだ。 しかし、帰省するごとに家族と親しくなっている彼女を見ると、なぜか嫉妬した。主従の間でもどこか親しさを感じさせる母と彼女のやり取りなどは、聞いてはいられなかった。学校に居る間も、今ごろあの女は自分の家で自分の家族と過ごしているのだと思うと苛立った。自分が知らぬ間に、彼女はこの家と家族に馴染んでいっている。そのことに焦燥感さえ抱くこともある。 自分はよほど家や家族に依存しているのだ。独占していたい。そんな所に他人が踏み込んでくるなんて、もういい加減耐えられない。
「――ここは僕の家だ」
不意に、ドラコが唸るように言った。は窓を拭く手を止めずに答える。
「存じてます」 「ここに居るのは僕の家族だ」 「存じてます」
淀みなく答えた彼女の背中に、ドラコはクッションを投げつけた。傍らのアルフは驚いて鳴き声を上げる。 はようやく手を止め、そばに落ちたクッションを拾い上げるために腰を曲げた。
「お帰りになった頃から思っていましたが、ドラコさま、随分と情緒が不安定なご様子ですね」 「……お前のせいだ」
息を荒げるドラコを怖れ、アルフはベッドから飛び降りた。 は何も言わなかったが、その目が先を続けるように促していた。そんなことをされなくとも勝手に続ける。何でもお見通しだというその目から逃げるように視線を逸らし、ドラコは唇を噛んだ。顔が熱い。
「お前がこの屋敷に来なければ、僕はこんな風にならなかった。“ただの思春期”だって? 笑わせるな。お前が居るせいで、全部調子が狂うんだ。母上を悲しませて不安にさせているのだって、僕じゃなくてお前のせいだ。その目も嫌いだ。僕を小馬鹿にするようなその目が。ふざけるな。僕を見るな」
最後の言葉は、まるで懇願するようだった。 ドラコが全てを言い尽くして押し黙っていると、はため息を吐いた。
「あなたが本当に嫉妬しているのは、私?それともこの家やあなたの家族?」
こちらに歩み寄って来るを、ドラコは目を見開いて見上げていた。 クッションを彼の枕元に戻すと、そのままベッドの縁に腰を下ろす。
「あなたがアルフを飼い始めたのは、去年の晩夏でしたね。ご存知ですか?小さな動物に対して極端な愛情や執着を抱くのは――」 「僕は別に極端に――」 「抱くのは、性欲の転化らしいですよ」 「……何が言いたい」
は呆れ返ったような笑みをこぼした。
「もういっそのこと素直に言ってしまったらどうですか? 私に惚れてる、と」
ためらいなくそう言ったをドラコは唖然とした顔でしばらく見つめていたが、彼女が動いてスプリングが軋めば、途端に我に返ったように眉根を寄せた。
「自惚れるな」
言葉とは裏腹に、弱弱しい声だった。
は彼の頬に手を添えて、視線を合わせる。ドラコは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「中途半端だから気持ちが悪いんですよ。もっと依存させて差し上げましょう、徹底的に。そうしたらきっと、気持ち良くなります」
ドラコの目蓋はぴくぴくと軽く痙攣していた。頬や耳たぶ、首筋まで赤く染まっている。そんな彼を優しく押しながら、熱を孕む耳に顔を寄せて囁き掛けた。
「でも私も職を失いたくは無いので、一度きりですよ」
それじゃ地獄だ。それを悟っていながらも、なおさら苦しむ先のことより、目の前の快楽の中で全てを忘れることをドラコは選んだ。そんな少年を、彼女は心の内で嘲笑っているのだろうか。これも彼女の生まれ持った器用さという才能が働かせた、単なる仕事の内の一つでしかないのだろうか。
窓から差し込むたっぷりとした夏のひかりの下、シーツが擦れる音と、スプリングの軋む無機質な音だけが響く。
完
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