- ふやけた指先 -




 私が銀さんの友人と寝たことを、銀さんは知っている。そして銀さんが私の友人と寝たことを、私はたった今、知った。

 「なんで。」そんな言葉が口を突いて出ようとしたけど、呑み込んだ。すべての原因は私にあるのだと銀さんの目が強く訴えていたし、確かにそうだなと、その声なき言葉に私も納得したからだ。

「風呂、入ってくる」

 白粉のにおい、赤い口紅、長い髪の毛。その体に残る跡を、これから洗い流してくるのだという。後ろめたい思いがあるなら、まずそれらの証拠を消し去ってから私の前に現れるはずだけど、あえてその順番を逆にしたところに、これが彼の仕返しなのだと感じさせられる。
 銀さんは、暇そうで、忙しい人だった。会えない日が続くときも、かなりあった。携帯電話も持っていない彼が今どこで何をしているのかなんて分かるはずもなく、私は万事屋と自宅を行ったり来たりしながら、銀さんの帰りをひたすらに待つのだ。健気な女だと、私は自負していた。少なくとも、性の快楽を知るまでは。
 銀さんは、一途な人だった。そして私は、銀さんが思っている以上に気の多い女だった。私の初めての人は銀さんだったけど、それは同時に、私の性を目覚めさせたのが銀さんだということでもある。一度その快楽を憶えると、私はもう自分で自分をコントロール出来くなった。

 要するに私が言いたいのは、「悪いのは私だけじゃないのよ」ということだ。でも、今のこの状況は何だろう。「悪いのはお前だ」とでも言わんばかりの、この復讐劇は。
 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。すべての原因が私にあるわけではない。さっき、あまりの迫力に圧されて思わず納得してしまったけど、違う。“すべて”じゃない。彼は何を被害者ぶっているんだろうか。どうして自分の非に目が向けられないのだろうか。私を寂しくさせたから。いちばんに私を抱いて、セックスを教えたから。

私だけじゃない。

「銀さんだって悪いんだよ」

 浴室の扉を開けてそう言うと、シャワーを浴びていた銀さんは振り返った。悪いのは私だけじゃないんだと、続けて言ってやった。すると銀さんはしばらく私を睨みつけるようにして見た後、視線を下げて、力なく笑った。

「いくら洗ったって、なんか気持ち悪いんだよ。他の女とはヤるもんじゃねぇな。俺、もうお前しか無理な身体になっちまってたみてぇだ。寂しい思いさせて、ごめんなァ」

 水が流れていく音に紛れて、銀さんが鼻をすすった。
 あの銀さんが、泣きながら反省している。私は高揚する胸を押さえながら浴室に足を踏み入れて、毛先から水を滴らせる銀さんに近寄った。

「そう言ってもらえれば満足かよ」

 その言葉と同時に、シャワーの湯が私を襲った。勢いで尻もちをついたが、水は容赦なく私に降り続ける。
 穴という穴に水が押し寄せてくる。これ以上水量が増したら、私の身体は溺れ死んでしまうだろう。銀さんは冷ややかに見下ろしながら、蛇口をひねろうともせず、シャワーから出るお湯を私に浴びせ続けていた。

「洗えよ、きたねぇ。俺はお前があいつと寝た日から、お前を抱くたんびに気持ち悪ィ思いしてきたんだよ。なんで俺があの野郎と同じ穴に突っ込んで腰振ってなきゃいけねぇんだ」
「銀さんがいけないのよ。私にセックスを教えたくせに、私をいつも寂しくさせて。私に、私を、わたし、は」

 口に流れ込んでくるたくさんの水を飲んだり吐いたりしながら、そこでようやく気付いた。私は今、いや、今まで、何度「私」と言っただろう。
 いつの間にか、降りかかる水は止んでいた。顔を上げてみると、立ち込める湯気の中、銀さんが顔を濡らしてこちらを見下ろしていた。

「俺は、そんな自分本位な女にするために、お前を抱いたわけじゃねぇんだ」

 銀さんが去った後の浴室で、彼の残した言葉を反芻しながら、もし「私」だらけの自分が「私達」を上手に紡げる女だったら、ということを想像した。しようとした。けれど頭の中は、この浴室のように湯気が立ち込めてしまっていて、何も見えてこなかった。目に見えるのはただ、みっともなくふやけきってしまった、この指先だけ。


(2012.5.10)