前髪




 仕事が忙しくて、もう随分と髪を切りに行けていない。目を覆う前髪がとてつもなく邪魔なので、仕事中は飾りっ気のないピンで無造作に留めている。
 今日はめずらしく仕事の合間が二時間空いたので、美容室――ではなく、まつエクサロンに来た。そう。私はうざったい前髪よりも、エクステの抜け落ちた覇気のない目の方が許せないのだ。なのでまつげを優先させた。
 緊急の連絡があったときにはすぐに対応できるよう、スマホをすぐ脇の小テーブルに置いて、背もたれ付きの長イスに体を横たえる。個人サロンのこのお店は、アイリストのお姉さんが朗らかでかわいくて施術も丁寧で出来も良いので、ここ最近のお気に入り。店内も木のぬくもりを感じる内装で、ラベンダーのアロマの香りがとても心地よい。「アロマが身に染みる歳になってきたなあって思います」なんて言えば、お姉さんは「分かります、私もです」なんて同調してくれた。
 ああ、最高。目を閉じているだけでまつげも美しくなるし、お姉さんとの他愛のない会話を楽しめるし、仮眠だってできる。癒しの空間。もうずっとここにいたい。

 ――ブーッ、ブブッ、ブーッ。

 平穏を割く無機質な音。今絶対に聞きたくなかった音。小テーブルの上に置いたスマホが、ブルブルと鳴っている音。

「……あのーすみません。スマホの画面、なんて表示されてますか?」

 目を開けられないので恐縮そうに尋ねると、お姉さんは快く「ちょっと失礼しますね」と私の目元から手を離した。
 新田ちゃんかな。伊地知くんだったら厄介な案件そうだな。硝子先輩かな。今夜飲み行くぞって言われたらどうしよう、行けなくはないけど明日早いんだよな。

「えっとですね、五条悟、さん?」
「げっ」
「出られますか?」
「……いえ、大丈夫です」

 最悪だ。今日はあと一本任務をこなせば帰れると思ったのに。それでも帰宅するのは二十二時近くにはなるだろうけど。この時間に五条さんから来る突然の電話なんて、超絶めんどくさい案件に決まってる。
 「僕に振られた仕事なんだけどさー、報告書見る感じお前でも行けそうなランクなんだよねえ。ほら僕って忙しいじゃん? え? 私も忙しいですけど、って? それ僕に面と向かって言えるなんてすごいね。身の程知らずって言葉知ってるー?」これは前に言われた言葉を一言一句そのまま再現したものだ。
 あの人は自分の仕事を私に振るとき、多忙マウントを取ってこちらの不満をねじ伏せてくる。そうして、押し付けられた仕事を終え、くすぶった思いを抱えながら高専に戻ると、「おつかれサマンサ」という手書きの付箋とともに、ちょっとしたスイーツがデスクの上に置かれているのが常だ。小賢しい。でも私はまんまとそれにほだされて、「まあいっか。五条さんも本当に忙しいだろうし、役に立てたなら」と絶品スイーツに舌鼓を打つのだから、我ながらチョロい後輩だなと思う。

「本当に大丈夫そうですか?」

 鳴っては切れ、鳴っては切れを繰り返して数十分。お姉さんが心配そうな声音でそう尋ねてきたので、私も「大丈夫です」とは言い切れず、うー、と低く唸る。こんなにしつこく電話をしてくるということは、緊急の用件なのかもしれない。
 私はお姉さんに謝りつつ、絶賛着電中のスマホを取ってもらい、ついでに画面の通話ボタンをタップしてもらった。

「もしも――」
『ねえ、今ってフリータイムでしょ? どこいんの? せっかく北海道土産のアイス持って来たのに、もうドロッドロに溶けちゃってるよ』

 「ねえ」という冒頭の一言に、「何回も電話してんのになんで出ないんだよ」という苛立ちが込められているのを感じた。ていうかお土産のアイスがドロドロに溶けるとは? 五条さんクラスになると冷凍庫の存在知らなかったりするのかな?

「いや、それって冷凍庫に――」
『再冷凍不可。あとこの後の任務だけど、それ七海が代わってくれるんだってさ。だから今日の夜どっか行かない?』

 一つの話題を処理する前に次の話題が始まるので、頭が付いて行かない。
 アイスはもう諦めよう。五条さんのことだからとびきり美味しいアイスを買って来てくれたんだろうけども。残業嫌いのあの七海が任務を代わってくれるだなんて、絶対に自然発生する出来事ではない。間違いなく人工的に引き起こされた事案だ。そしてそれは十中八九、五条さんの仕業だ。私との時間をつくるために。
 ――そう。チョロい後輩として認識されている私は、事あるごとに五条さんに呼び出されては、恋人の真似事をしている。いわゆる都合の良い関係、セフレだ。

「……夜が空くなら、ちょっと私一人で行きたいところあるんで」
『えーなにーどこー?』
「いや五条さんには関係ないでしょ。プライベートって言葉知ってます?」
『ははっ、相変わらず生意気な後輩だよね。それで? どこ行きたいの?』
「美容院。前髪切りたくて」
『そんなの自分で切ればいいじゃーん。あ、僕切ったげよっか』

 閉じている瞼の下で白目を剥く。そんな私の瞼に優しく触れながら、お姉さんは施術を続けている。

「それは遠慮しておきます。五条さんといえども散髪は素人でしょ。悲惨なことになるのが目に見えてるんで」
『じゃあ、まあとりあえず僕んちに来なよ。僕がいつも行ってるサロンの美容師さん呼ぶからさ、うちで切ってもらおうよ』

 五条悟お抱えの美容師って……。前髪カットだけで万札飛んでいきそうだな。一般人じゃとても予約できないような凄腕美容師なんだろうな。どんな人なんだろう。えーちょっと、いやだいぶ気になるかも。
 好奇心に負けたチョロい私は「分かりました」と電話を切った。

**

「いらっしゃいませ。大人女子のためのプライベートサロン、ピュアリーフ・ゴジョーへ」
「……ピュアリーフ?」

 そう言って玄関扉を開けて出迎えてくれたのは家主の五条さんで、家の中からは彼以外の気配は感じない。凄腕美容師は後から来るのか? そう訝しみながらも、招かれるがままに中へと入る。長い廊下を歩きながら、先ほど五条さんが口にした「ピュアリーフ・ゴジョー」の響きがなんとも間抜けで、笑いがじわじわと込み上げてくる。

「なに笑ってんの」

 ソファに座った私の顔を覗き込み、五条さんはどこかうれしそうに口を尖らせる。

「いや、ピュアリーフ・ゴジョーって。どうしたらそんな珍妙なネーミングを思いつくのかなって」
「珍妙? ひっどいなー。これでも売れてるサロン名を調べて考えたんだよ。いいでしょ、なんかフレッシュな感じがして」
「ははっ、暇人ですね」

 五条さんは、笑う私の頭をガシガシと無造作に撫でた後、そのまま手を下に滑らせ、前髪を一束摘む。
 初めて五条さんとキスをしたとき、私は心臓が口からまろび出るかと思った。憎たらしい先輩だけど、憎むに憎みきれない人でもあるし、なんだかんだで突き放すことなく面倒を見てくれるし、この人に命を守られたことも何度だってあるし、学生時代から少なからず想っていた相手なので。
 今は触れられることに慣れてしまったけれど、それでもまだ、やっぱりちょっとドキッとはする。

「ほんとだ。だいぶ伸びたね」
「そう。呪霊祓うときに邪魔なんで、任務中はピンで留めてるんです」
「うん、知ってる。その姿がすごくダサいって評判だよ」
「えっ? うそ、ショック」
「ウソ」

 ふっ、と息を吐くように笑った五条さんを少し睨みながら、「ところで」と切り出す。

「美容師さんはいつ来るんですか?」
「んー?」
「ほら、電話で言ってたじゃないですか。僕がいつも行ってるサロンの美容師さんを家に呼んで前髪切ってもらおう、って」
「あーあれね。ほら、ここってピュアリーフ・ゴジョーだからさ」
「はい……え?」
「誰が切るのかなんて、当然決まってるよね。僕だよ」

 摘み上げられていた前髪に銀色のハサミが当てられる。展開に付いていけない私の「へ?」という間の抜けた声は、ジョキッ、という繊維が断ち切れるような音でかき消される。

「いっ、い、いやぁぁあああ!」

 とんでもない悲鳴を上げながらジタバタとする私を、五条さんは「よしよし」と落ち着き払った声で押さえ付ける。
 やだこの人、やだ、女の命ともいえる前髪を問答無用で一文字切りしやがった……!

「呪術師は野良の美容室で髪なんて切っちゃダメだよ。だってほら、切り落とした髪が呪詛師に渡ったりしたら……あとは言わなくても分かるよね? だから、散髪は信頼できる人にお願いしないと」
「だっ、だからって、五条さんが切らなくっても! やっ、いやだぁ、もう切らないでぇ!」
「いやー好きな子の髪って切ってみたかったんだよねえ。これ貰っていい?」
「やだ怖い……何に使うんですか」
「筆でも作ろうかな」
「胎毛じゃないんだから……って、懐に仕舞わないで! 返してください私の毛!」
「だーいじょうぶ。悪いことには使わないから」
「盗まないで私の遺伝子情報!」

 五条さんがくすねようとした前髪を奪い返し、荒げていた呼吸を落ち着かせながら、ふと気づく。

「え、さっきなんて言いました……?」
「筆でも作ろうかな?」
「その前です」
「その前ー? んー……あ、好きな子の髪の毛を切ってみたかった?」

 コクコクと頷けば、五条さんに切られた右半分の前髪が目の上でピラピラと踊る。

「私って、五条さんの好きな子……なんですか?」

 自分自身を指差しながら、恐るおそる尋ねる。五条さんは片手に銀バサミを持ったまま腕を組み、不思議なものを見るような目を向けてきた。

「そうじゃなかったら自分は僕にとっての何だと思ってたわけ?」
「好きでも嫌いでもない、都合の良い後輩であり、ただのセフレ?」

 一つの間を置いたのち、五条さんは噴き出すように笑った。

「都合の良い後輩ってのはその通りだね。でも、ただのセフレでいいなら、もっとスタイルが良くて割り切れる相手をテキトーに見繕ってるよ」
「……スタイルが良くてっていうのは余計です」
「あと僕さ、硝子に髪切ってもらってんの。お前みたいに初回限定クーポンに釣られてその辺の美容室で髪切ったりしないから」
「いや初回限定クーポンくんだりの話なんて一度もしたことないですが……」
「まあとにかく、僕も一応自分の稀少価値を理解してるからさ。遺伝子情報が分かるようなもの、無用心にばら撒いたりしないの。精子なんて、その最たるものじゃん」
「……つまり?」
「つまり、セックスするのは心から信頼できる相手だけって決めてる」

 革張りのソファが沈む。五条さんが左隣に腰掛け、私の頬に指を添えた。

「こっち側も切っていい?」
「……私も明日、硝子先輩に前髪整えてもらいます」
「信頼されてないなー。僕はこんなにお前のこと信じてるのに」
「それとこれとは別です。私だって五条さんのこと、ちゃんと、しっかり信頼してるもん」
「あっそ」

 短く簡単に返しつつも、五条さんはどこかうれしそうだった。
 ジョキ、ジョキ、と、左半分の前髪が切られていく。覆われていた視界がクリアになって、大袈裟だけど、なんだか世界が違って見えた。
 とはいえ、やはりどんな仕上がりになったのか気になって、辺りを見渡す。

「んー? 何をキョロキョロしてんの」
「何か鏡になりそうなものは……あっ」

 床から天井まで伸びる大きな窓ガラス。その向こうには夜の東京。街明かりの狭間に映った自分の姿に、思わず目を丸くする。

「破茶滅茶にパッツン……」
「悪くないんじゃない? 目の存在感が際立って。ていうか、あれ? いつもより目パッチリしてる?」
「まつエク付け直したんで」
「あっ! ほらほら、まーた無用心に体預けてる。そのサロン大丈夫? 今度から僕が付けたげよっか?」
「あのお姉さんは大丈夫です。っていうかまつエクでまつ毛そんなごっそり抜けないですから。そしてまつ毛が持つ遺伝子的、呪術的効果なんてもうほとんど皆無でしょ」

 五条さんが切った前髪を再び懐に仕舞おうとするので、私はしっかり奪い返す。別に五条さんがこの毛を悪事に利用するなんてことは毛ほども心配してないけど、筆は本当に作りそうな気がするから。ていうかこの前髪、不自然なほどに切り揃えられすぎてるから、やっぱり明日硝子先輩のところに行こう……。
 五条さんはハサミをローテーブルに置くと、私の方へ向き直り、前髪に触れてくる。

「僕が切った」
「……はい。ありがとうございます?」
「なんで疑問系なの」
「切ってくださいとは頼んでないので」
「五条悟に切ってもらった前髪で生活するのってどういう気持ち?」
「その生活が始まったばかりなので、まだ何とも言い難いです」
「ちぇっ、つまんね」
「でも……」

 目の前の五条さんを見ながら話すのは気恥ずかしくて、少し俯きがちに、ぼそりと言う。

「好きな人に髪を切ってもらうのも、悪くないですね」

 五条さんが放つ空気が変わったように感じて顔を上げた。それとほぼ同時に、眼前が真っ暗になり、唇に熱が広がった。
 表面が触れ合うだけのキスが、次第に湿り気を帯びていく。息継ぎが難しくなってきて五条さんの胸をトントンと打てば、唇はゆっくりと、名残惜しそうに離れていった。五条さんはそのまま私の耳元に顔を寄せる。

「僕の遺伝子情報あげよっか」

 囁かれた言葉。瞬きを二、三度打ったのち、ブフッと噴き出してしまった。笑いだした私に、五条さんは不服そうに目を細めてみせる。

「ちょ、笑わせないでくださいよ」
「割と真面目に言ってるんだけど?」
「どんなプロポーズの言葉ですか。……え、プロポー…ズ……? いやいや、違いますよね? いやほらだって私たち付き合ってもないし」
「僕は付き合ってるも同然だと思ってたけど、まあ確かにはっきり言葉にしたわけでもないし、お前がそう思うのは仕方ないか」
「えっ、え?」
「まあいいや。これからの件については追々ね」

 いくつものクエスチョンマークを飛ばしながら頭を右に左に傾げる私は、五条さんに言われるがままソファに横たわり、五条さんの体に腕を回す。そうして首筋に寄せられた熱い吐息に、次第に呼吸を乱されていくのだった。

 前髪を恋人に切ってもらうことが当たり前になる日々は、そう遠くないらしい。



(2025.12.30)







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