卒業生たちによる先生を囲む会、いわゆる同窓会。その会場に赤提灯の提がる大衆居酒屋を選んだのは、五条先生だった。お酒は飲めないはずなのに。せっかくならもっと良いお店にしたらよかったのに。良家育ちだと、かえってこういう店のほうが新鮮で楽しめるのだろうか。
「五条先生の席どこにする? やっぱ上座かな」
「この場合上座ってどこ?」
「そこそこ、の前」
六人掛けテーブルの狭い個室で、油っぽいメニュー表を眺めながら他の子たちの会話になんとなく耳を傾けていると、不意に自分の名前を呼ばれて瞬きを打つ。ああ、私の目の前の空席に、五条先生が座ることになるんだな。そう思うと、胸がドクンと鳴った。
「あー先生ちょっと遅れるみたい。先に始めててだって」
同期の男性術師がスマホを見ながら全体に呼びかければ、通路側の女性補助監督が店員にファーストドリンクを注文した。有無を言わせず生ビール一択だ。
空きっ腹だったので、突き出しの鶏皮ポン酢を摘みながら、向かいの席を見つめる。
いつ来るんだろう、五条先生。緊張する。まだいないのに、もういるような気さえしてくる。五条先生は、いつだって空間を支配する。
「おっまたー」
飄々とした声が個室に響く。それまで談笑していた同期たちは、そのテンションの延長で「先生遅いですよ」「そんな手こずる任務だったんですか」なんてフラットに声を掛ける。元教え子たちを前にした五条先生は、黒い目隠しを着けていてもご機嫌なことが分かるほど、穏やかな顔をしていた。
席に案内された五条先生が、私の向かい側によっこらせと座る。私は生ビールのジョッキを両手で包むようにしながら、高鳴り始めた心臓を押さえるために呼吸を整えていた。
「先生何飲みます?」
「えーそうだなあ、じゃあコーラで」
「相変わらず酒飲めないんっすね」
「デリケートな体だからねえ」
周りの子たちと会話を始めた五条先生を直視することができず、でも硬直しているのも変に思われるかもと、とりあえず運ばれてきたばかりの焼き鳥の盛り合わせに手を伸ばす。
「は飲めるようになったんだ」
「……へ?」
不意に言葉を向けられ、串を片手に持ったまま静止してしまう。
「お酒」
「あ……えっと、はい」
目隠しの下の六眼でじっと私を見つめているのだろう。五条先生は私の顔を真正面から捉えたまま、
「へえ。大人になったんだね」
と言った。なんとなく、どこか含みがあるように感じた。
高専時代、私は五条先生のことが好きだった。寮で慣れないお酒を飲んで酔っ払って、その勢いで五条先生の部屋をドンドン叩いて、先生に「好きです」って言って、その場で吐いた……らしい。翌日、その一部始終を見ていた同級生から話を聞いて青ざめた。その子はもう死んじゃったし、私も酔って覚えていないので細かいところは分からないけれど――。
「今年の一年生はどうです?」
「ついに伏黒くんが入学したって聞いたんですけど」
ああ、伏黒くん。五条先生が昔から面倒を見てたっていう男の子か。
五条先生は楽しげに生徒たちの話をする。私はそれを俯き加減に聞きながらモソモソと焼き鳥を食べ、周りの笑い声に合わせて笑顔を作ってみる。
そうしているとジャケットの内ポケットに入れていたスマホが振動していることに気づく。知らない番号からの着信。誰だろう。
「ちょっと失礼します」
仕事絡みの電話かもしれない。そう思い席を立った私は、そのまま個室の出入り口に向かう。と、そのとき、不意に現れた店員さんが「大変お待たせしましたー」とコーラの入ったジョッキを差し出した。「あっはい」と反射的に受け取ったものの、これ五条先生のだよな、と少し気まずさを感じつつ振り返れば、
「……あ、」
「固まっちゃってどーしたの。早くちょーだい?」
五条先生が私の方を見上げて、少しおかしそうに首を傾げていた。先生の言葉で、周りの同級生たちも話を中断して私を見る。
「なに、帰んの?」
「いやちょっと着信が……あ、切れちゃってる」
いつの間にかスマホは鳴り止み、画面には不在着信の文字が浮かんでいた。
「えーカレシー?」
誰かがそう言い、周りが冷やかすようにヒューッとはやし立てる。
「ちっ……違うって!」
「焦っちゃって。図星だわこれ」
「いやほんとに違――」
「」
静かな圧を孕んだ声に、浮ついていた空気は途端にしんと鎮まった。
五条先生は私の方を見据えたまま手を伸ばし、「早く」と短く言う。私はおずおずとテーブルに近づき、
「すみません」
そう詫びながらコーラの入ったジョッキを手渡すと、五条先生は「はーい、どーも」と声を伸ばした。目の表情が分からないから定かではないけれど、ちょっと不機嫌そうだった。そんなに喉渇いてたのかな。
五条先生はコーラを一口飲むと、再び私を見た。
「電話は? いいの?」
「切れちゃって。知らない番号なんですけど、補助監督の誰かからかなって」
「それなら僕が分かるかも。どの番号? 見せてみて」
ちょいちょいと人さし指で招かれ、言われるがままにスマホ画面を五条先生に見せる。通話履歴がずらりと並んだ画面を見た先生は、ブフッと笑った。
「えっなんですか?」
「いや、仕事関係の電話ばっかだからさ。色気のない履歴だなーって」
なぜだか五条先生はすっかり機嫌が直ったようで、ふんふんと鼻歌混じりに自身のスマホをいじる。先生は、私の画面に表示された電話番号をアドレス帳で検索しながら「んー」と喉を鳴らした。
「僕のスマホにも登録されてないね。セールスとかじゃなーい?」
「……ですかねえ」
言いながら、私は先生のアドレス帳にずらずらと表示される女性の名前に目が釘付けになってしまう。すべてカタカナ表記で、括弧の中には地名が記されている。「ハナコ(六本木)」という具合に。これはもしかして……現地妻的な感じ?
「五条先生も補助監督の連絡先登録してるんですね。意外と律儀」
「仕事だからねー。ま、登録自体は伊地知に任せてるんだけど」
誰かの言葉に、五条先生は事もなげにそう返した。
いや、連絡先の登録ぐらい自分でやればいいのに。でも、五条先生がスマホを託せるほどの信頼を勝ち得ている伊地知さんも……さすがというかなんというか。え、待って。じゃあ伊地知さんもこの現地妻たちの名前を見てるわけ? どう感じ、何を思ってるんだろう。ていうかそもそもこの女性たちは一体……?
「窓の子たちだよ」
「……え?」
「気になってるんでしょ、これ」
五条先生はスマホを指しながら、唇の端をゆるりと上げた。
「あ、へー……窓の」
「なんだと思ったー? ま、大方見当はつくけど」
「えーっ、と……」
「ほらほら正直に」
「――現地妻たち?」
五条先生は噴き出すように笑った。「言い方が昭和」と、喉をくつくつと鳴らしている。
情報提供をしてくれる窓の人たちの連絡先は、私も何人かだけど登録している。私レベルでそうなんだから、五条先生ともなるともっと大勢と連絡を取り合っていて当然だ。でも、なんだろう。五条先生だからかな。なんか、いやらしい感じがする。本人にその気はなくても、相手の女性側には情報提供以外の目的がありそうな気がするから。
「五条先生って窓の人とそういう関係になったことありますか?」
誰だ、そんな恐ろしいほどストレートな質問をしたのは。誰もが内心思いつつ決して聞かなかったことだ。
声の主を見てみる。式神使いの男性術師だ。彼は学生の頃から良くも悪くも空気が読めないことで有名だった。
「んー? ないよー」
五条先生はスマホを仕舞いながら軽い調子で答えた。嘘か真か分からない感じだ。
「へーそうなんですね。ちなみにオレはあります」
彼のその告白にみな一斉に驚きの声を上げた。
これまでの異性交遊についてまるで武勇伝のように語り始めた式神使いに、不埒なやつめ、と冷めた目を向けていたとき、ぶるぶるとスマホが鳴った。あの番号だ。
「はいもしもし!」
咄嗟にその場で電話を取ってしまい、私は向かいにいる五条先生に表情で詫びる。
相手は、この間仕事で知り合った窓の男性だった。そういえば連絡先を交換していたんだった。
知り合いに体調を壊した人がいて、見舞いに行ってみたら背後霊のようなものが憑いていた。祓ってもらえないか。そんな内容だった。
「はい、はい。えーっと今度の金曜、十九時……はい、大丈夫ですよ。お伺いします。はい、……あ、え? ん? すみませんちょっとお待ちください」
目の前で五条先生が何かジェスチャーをしている。私は一旦電話を離し、「なんですか?」と声を潜める。
「誰?」
「窓の方です」
「男だよね」
「はい、男性ですね」
「何の用?」
通話中に聞かないでほしい、と思いつつ、彼の話を要約しながら先生に伝える。すると先生は言った。
「僕が行くよ」
「は? えっ? 話から察するにこれは特級術師の仕事じゃないですよ?」
「阻止阻止」
「え、阻止って……?」
「これ絶対『祓ってくれたお礼に食事でもどうですか?』の流れだから。かわいい教え子がいけすかない男に食われるの分かってて行かせるなんてことしないよ。断固阻止」
「く、食われ……いっ、いやいや、なんで食事だなんて言い切れるんですか? 分からないじゃないですか」
「分かるよ」
「どうして」
「先生だから」
なんだそれ。言いたいことはたくさんあったけれど、五条先生にスマホを引ったくられてしまい、言葉を発するどころではなくなった。
「ってことで! 当日は五条悟が行きますんでヨロシクー!」
一方的にそう宣言して通話をぶつりと切った先生は、「はい」とスマホを返し、一仕事終えたとばかりにコーラを飲んだ。
なんだろう、この感じ。なんか……モヤモヤする。
静まり返ったスマホを見おろしながら、私は呟くように言う。
「……私が行きます」
「ダメだって言ってんでしょ」
「そもそも先生その日空いてるんですか?」
「空いてなくても空ける。お前には行かせない」
「えー……」
「あとその男着拒ね。ほら貸して。僕がやっとく」
再びスマホを引ったくられそうになった瞬間、私は自分の腹の中でうごめいていたものが鎌首をもたげたように感じた。
「あ、あのっ! 束縛彼氏ヅラするのやめてくれませんか!」
「……は?」
「昔フラれた人にそういうことやられるのってちょっと色々複雑なんで!」
言った後で気づいた。私、いま、めちゃくちゃ声おっきかったよね。
ハッと我に返って周りを見てみる。部屋中の視線が私と五条先生に向けられていた。
居た堪れなくなって、私は財布からありったけのお札を引っこ抜き、
「ごめん緊急案件! 帰る!」
そう嘘をついて部屋を飛び出した。
夜風を切りながら走り続け、気づけば自宅マンションの前まで来ていた。よかった。体力だけはあって。
立ち止まった途端に汗が噴き出してくる。バッグからハンカチを取り出し、汗を拭いながら昔のことを思い返す。お酒を飲んで、酔った勢いで先生に告白したときのこと。記憶がない私に、唯一の目撃者である今は亡き同期は言った。「先生ね、ごめんって言ってた。あんたしっかりフラれてたよ」と。
告白したことも、フラれたことも覚えてないけど、でも失恋したということだけは自覚していた。五条先生もそれから卒業まではあまり話しかけてこなくなったし、二人きりになることを避けているようにも感じた。そりゃそうだ。五条先生だって教員で、大人なんだから。自分に一度でも好意を持っていた生徒に、妙な期待をさせるようなことはしない。
「あー消したい消したい、もーやだぁ……」
道路にうずくまり、抱えた膝に突っ伏す。
全部なかったことにならないかな。あの日、先生に告白したことも。さっき先生にとんでもない発言をしたことも。
「わー今日って満月なんだね。知ってた?」
不意に落ちてきた声に、「は?」と間抜けな声を漏らす。ゆっくりと顔を上げると……。
「五条先生?」
「は昔から走るのだけは速いよね」
満月を背景にした五条先生が、ポケットに両手を突っ込んでこちらを見おろしていた。
「な、なんで……えっ、付けて来た……?」
「恩師をストーカーみたいに言わないの」
おどけるように言った五条先生は、しゃがみ込んで、私と目線の高さを合わせる。
「あの、どうかしたんですか? もしかしてさっきの言葉に怒って……復讐?」
「そう怯えないでよ。僕そんなに導火線短くないって」
「じゃあ、何ですか?」
「いやーちょっと確認したくてさ」
確認。その言葉に思わず身構えてしまう。
けれど返ってきたのは、まったく、一ミリも予想していなかった言葉だった。
「まだ好き? 僕のこと」
「……は、」
「それとも今はもう他の男に夢中だったりするー?」
いつもの軽い調子。だけど、はぐらかすことは許さないという雰囲気を感じた。
「好きって……いやさすがに……だって私、前にフラれてるんで」
「え?」
「……え?」
「フッてないよ? 保留にしただけで」
「――はい?」
「いや、言ったよね? 『ちょっと待ってて。ごめんね』って」
死んじゃった同期は、私がしっかりフラれてたって言ってた。先生が「ちょっと待ってて」って言ってたなんて、そんなの聞いてない。その一言があるかないかじゃ大違いだ。
「えーっと……すみません、私まったく覚えてなくて。告白したことも、その後のことも……」
「あーそんな気はしてたけど。吐くほどだったもんね。ま、仕方ないか」
五条先生は半ば放心状態の私の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。そうしながら目隠しを下ろした。ああ、久しぶりに見るな、先生の青い瞳。
「さすがの僕でも生徒に手は出さないから。だから卒業するまで待ってて、って言ったつもりだったんだけど。卒業してからもお前、いっつも僕のこと避けるから、それならそれで好きにさせとこうかと思って泳がせてたんだけどさー。でも意外とモテるみたいだし? そろそろ囲っとくかなーって」
「か、囲う……」
「あーごめん言い方違うな。囲う、じゃそれこそ現地妻感出ちゃうよね」
先生のきれいな目を直視できず、私は背後に浮かぶ丸い月を見ていた。そんな逃げの姿勢に気づいたのだろう、先生は私の顔を両手でそっと挟み、視線を合わせた。
そうして、まるで子どもに言い聞かせるみたいに言った。
「本命。彼女。いい?」
飲み込まれそう。あんなに遠くて、憧れなんて言葉じゃ表せないほど私の中でおっきな存在だった五条先生が、今目の前にいて。
これは夢なのかと思って、目をぎゅっと閉じてみる。そうして、そろりと開ける。うわ、まだいるよ五条先生。めちゃくちゃこっち見てる。
「夢じゃないから」
五条先生はまた私の考えを見抜いたらしい。六眼って人の頭の中まで見えちゃうのかな。
「……ホンメイ」
「うん、そ」
「カノジョ?」
「うん」
「……はー、えー」
「焦らすねぇ」
「いやー、ちょっと受け止め切れなくて。だって、えー……?」
「すっごい間抜けづらしてるよ」
ぷっ、と笑われて、ゆるみきっていた顔に力を入れ直す。
「……は、い」
「ん? 聞こえない」
「はい。よろしくお願いします」
今はまだよく分からないけど、とりあえず、あの頃夢にまで見た「五条先生の恋人」という肩書きをありがたく頂戴することにしようと思う。まだドッキリの可能性も捨て切れないけど。あの道の角から同期たちが「サプラーイズ!」とか言って踊り出てくるなんてこともあり得なくはない。
「だーかーらー、ドッキリじゃないってば」
「だっ、だから! 人の頭の中覗かないでくださいってば!」
五条先生は目を細めて笑う。そんな顔、初めて見た。
「僕、束縛彼氏だけど大丈夫そ?」
「……それは、お手柔らかにお願いします」

(2025.04.17)
その後も案の定ゴジョーが束縛彼氏すぎて周りからは心配されたけど当人同士はハッピーなのでめでたしめでたし。
title by エナメル
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