水に溶けた月
雑然とした部屋の窓から明かりが漏れ、夜闇に溶け込んでいた街路の猫がその光から逃れるように走り去った。
ハボックは軍服の前を開けつつ、水を飲もうと台所へ向かうのだが、足元に転がっていた鉄アレイに躓いてしまい前のめりになった。壁に手を当て上体を支え、床で顔面を打つのをなんとか避けられたことに安堵のため息をつくと、
「今の、危なかったわね」
空気に溶けるような声が不意に聴こえ、ハボックはその方に顔を向けた。
「……。居たのか」
部屋の隅にある肘掛け椅子に腰掛けるウェーブのかかった長い茶髪の女性が、ハボックに微笑みかけた。肘掛に肘をついて、その手のひらに顎を乗せたは口元に笑みを浮かべながら、目を細めて言う。
「驚いた?」
「いや、もう慣れちまったよ」
首を左に傾け、努めて明るい声色でそう返したハボックだったが、肘掛け椅子のは表情を曇らせた。
「……それは、何に対して?自分の家に勝手に入り込まれることが?それとも、私が……」
そこで言葉を切ったは、目を伏せた。部屋の明かりの下で、彼女の肌の色は白すぎるほどだった。 流れる沈黙から逃れるように、ハボックは台所へ行き蛇口をひねった。
「今日ね、街でマスタング大佐を見かけたの」
水がコップの底を打つ音の中で聴こえたの声は、いつものような柔らかい色に戻っていた。
「街まで行ったのか?」
「そうよ」
蛇口を締め、満たされた硝子コップを片手に持って台所を離れる。 部屋に戻ってきたハボックの姿を認めると、は続けた。
「彼ね、笑ってた」
ハボックが肘掛け椅子の近くにあるソファに座ると、スプリングの軋む音が鳴る。水を飲むハボックの咽もとを眺めるはなぜか遠い目をしていた。
「ヒューズさんを亡くしたばかりなのに……やっぱり、軍人さんの精神力ってすごいのね」
ハボックは眉をひそめて、飲みかけのコップを握る。
「それとも、泣き飽きたのかしら」
その言葉が消えると、ハボックは傍らのテーブルに静かにコップを置き、膝の上で両手を交差させた。
「軍人は泣かない」
低く静かに言うと、それっきりハボックもも黙り込んだ。は窓の外を見やり、夜の闇を吸い込まんばかりに青白い光を放つ月を瞳に浮かべていた。ハボックはその様子を横目で見ていたが、あの青白い月と彼女の肌は、まるで同じ色をしている。
「じゃあ、あなたも?ジャン」
月は見るまいと目をそらしたハボックに、は静かに言った。
「あの時、恋人を亡くした軍人のあなたは、どうだった?」
毎夜のごとくハボックの部屋を訪れていたが、こういった類のことを訊くのは初めてだった。むしろ、彼女がそれを訊かないことにハボックは違和感を覚えていた。
彼女は、畏怖していたのかもしれない。の顔を見ると、結んだ唇が微かに震えていた。
「どうもなにも、お前はその軍人が泣かないようにって、こうして亡霊として俺の前に現れてくれるじぇねか」
彼女はもう、この世の者ではなかった。そのことはハボックも、本人も、痛いぐらいに解っていた。
スプリングが軋み、ハボックは立ち上がって肘掛け椅子へと歩んだ。歩みながら、言った。
「軍人は泣かねぇんだ。心の中でしか、泣かん」
は月から目を離し、そう言うハボックの顔を見た。すると彼女は小さな声を漏らして、瞬きをすることも忘れて、目の前に立って頬を濡らしている男を見上げていた。
「ジャン……あなた今、言ったじゃない。心の中でしか泣かないって、軍人は……」
唇を強く噛みしめて堪えきれぬように両目から涙を零すハボックに手を伸ばしたが、それは彼の頬を虚しく透き通っただけだった。触れられない頬を肘掛椅子から見上げたままのは、無意識のうちに自らの手のひらを握り締めていた。
「ごめんね、こんな姿になってまで会いに来て。私、あなたを余計に悲しませてるだけだった」
手のひらを夜空にかざすと、月が青白い手を透けて、の瞳に宿る。
「あなたは優しすぎる。私は本当に、あなたを悲しませてるだけだった。本当に」
もう彼の手を握ることも、頭を撫ぜることも、抱きしめることも許されないこの体を憎んではいなかった。むしろ、この世から滅んだ身で死を乗り越えようとしていたハボックの前に現れていた自分を、今さらながらとても情けなく思った。
「でも、分かったの」
は立ち上がり、ハボックの体をすうっと通り抜けた。ハボックが振り向くと、生前のように血色の良い顔を穏やかな笑みで溢れさせる彼女がいた。不意に、あの日、棺の中で色とりどりの花に埋もれるがとても安らかな表情で眠っていたことを思い出す。
「私を成仏させるのは、あなたの涙だったのね」
そうして、すべてを吸い込むかのような月の白い光に、の姿は霞むようにして消えていった。
彼女は永い旅に出た。もう、ここへ戻ってくることはない。 テーブル上のコップの水に溶けた月は、ゆらりと踊った。
「いい旅を。いつか俺も、逢いに行くから」
(2008.5.11)
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