黄昏の猫
ネジの一本外れたイスに深々と座り背もたれをギシギシと鳴らしながら、書類整理をする女を目で追う。女はたまにこちらへ目をやると、イスを変えましょうか?と含み笑いで言うのだが、そのたびにロイは首を横に振る。
「大佐、どうかしましたか。また素行の悪い猫でも?」
整理が一段落ついたのかはそう訊くと、そのままロイの隣を通りすぎて、窓を開けた。黄昏の風はロイの首筋を撫ぜてゆく。
「いや、もう猫は当分必要ないよ」
「ご冗談を。わたしこの間見ましたよ。大佐が頬を緩ませて猫と散歩してるの」
「ああ、あの拾い猫はもう元の場所へ戻してきた」
「あら。ずいぶんと聞き分けの良い猫ちゃんだったんですね」
首をかしげるは窓辺から離れ、
「コーヒーを淹れましょうか」
「頼むよ」
と言うと、ふたたびロイを通り過ぎ、部屋の隅に置かれるコーヒーメーカーへと向かった。しゃがんで棚からカップを取り出す後姿を、傾いた夕日の紅が射す。
香ばしいにおいが溶け込むようにして部屋に満ちたとき、ロイのデスクにそっとカップが置かれた。
「あなたのことです。もう、次の猫に目星はつけたんでしょう?」
「……ああ」
「ついさっき、当分必要ないと仰ってたのに」
そう言って口元に手をあててくすくすと笑う彼女から、カップへ目を落す。深い茶褐色のコーヒーに自らの顔が映った。
「いや。それが、その猫は一筋縄ではいかないようでね。当分は手に入らないだろう、と」
まるで茶褐色に浮かぶ自分と対話をしているかのように、カップに目をやったままで言ったロイに、はふたたび首を傾げる。
すこしの間、ロイはカップに手を絡めたまま押し黙っていた。何か考え込んでいるかのようなその様子には、鳴きはじめた烏の声が邪魔をしてはいけないと思い、窓を閉めるためにふたたびロイの傍らを通り過ぎようとした。しかしその腕を掴まれ、自然、足が止まる。
「くん。きみには今、飼い主はいるかね」
黄昏の夕日がふたりの横顔に茜の色を落し、その中でロイは射抜くような目でを見据えていた。ふと、外から烏に混じって猫の鳴き声が聴こえたような気がした。
は腕を掴むロイの右手をゆっくりと離し、冷めてしまいますよ、とそれにカップを持たせた。
「たとえ居たとしても、大佐にとっては何の障害にもならないんでしょうね」
「わかっているじゃないか。優秀だな」
コーヒーを一口啜る音に背を向け、窓枠に手を掛けたは、茜色の空に溶け込んでゆく数羽の烏に目を細め、そのまま視線を下へ移した。
そこには、木の下で一匹の猫がまるで黄昏に嘆くようにしてのどを鳴らしていた。
「本当に、おそろしい人」
(2008.5.4)
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