悪女になれない女の晩春
「こんなにも屈辱的なことって、きっと無いわ」
皮肉なほどに青く澄む晩春の空を睨むようにして仰ぎながら、は言った。同じベンチに座る男は三本目になる煙草を咥えて、
「今日の俺の昼休みは、おまえの失恋話で終わるのか」
「虚しい?」
「いや、光栄」
と言いながらも、それとは裏腹に関心のなさそうな声色と、気だるそうな雰囲気を醸し出すハボックに、
「それにね、あれは失恋なんかじゃないんだから。もともとわたしは本気じゃなかった」
と付け足したは足を組みなおした。あの男だって本気じゃなかったんだろうな、と漠然と思いながら、ハボックの口からすうっと吹き出された煙を横目で見ていると、それに気づいたのか彼は懐から煙草を取り出しに勧めた。
「おまえ良いの?その格好、悪女みたいだぞ」
足を組んだまま受け取った煙草にライターで火をつけるを、口元に笑みを浮かべながら見ていたハボックが呟いた。やめてよ、と言ったは力なく笑った後で、ふたたびベンチに背をもたれて空を仰ぐ。
昨晩は散々な目にあった。付き合いはじめて一ヵ月になる男に妻と幼いこどもがいたのだ。そんなことを露ほどにも知らなかったを昨日、その男が妻と云う女に従えられるかのようにして訪れた。扉を開けた途端に頬を引っ叩かれ、金切り声で罵られた挙句に「この悪女!」と吐き捨てられた。どうやら男は不倫が知られたとき、に唆されたのだと妻に話したらしい。 反吐が出る、と女の後ろであたふたとしている男を見ながら思った。先に色目を使ってきたのは向こうで、まるで貪るかのように体を求めてきたのもまたそうだった。わたしはあんな腰抜け野郎に、見事に悪女に仕立てられたのだ。そう思うと怒りが体の内からふつふつと湧き上がるかのようにして、気づくと拳を男の横顔にめり込ませていた。
「……まさか自分が人の家庭に影を落すような存在だったなんて」
「でもその二人、離婚してねぇんだろ」
ふうっと煙をはいたは、声を落す。
「それはそうだけど。でも、一度でも幸せな家庭に足を突っ込んだなんて、屈辱」
「おいおい、幸せな家庭を持つ野郎が不倫なんかするかよ」
「違う、そうじゃなくて」
馬鹿にするかのような笑いを数回あげたハボックを宥めるような目で見たは、ため息をついて煙草を灰皿に押し付けた。
「それでも、こどもの目は幸せな家庭を見ていたはずでしょう。たとえそれが幻覚だったとしても」
静かにそう言ったは亜麻色の髪を耳に掛け、煙草を咥えたままじっと自分の横顔を見つめるハボックを怪訝そうに見返した。なに?と訊くと、彼はようやく瞬きをして煙草を指間に挟み、煙をはき出した。そうして、言った。
「おまえは悪女なんかじゃねぇよ。……いや。正確に言えば、悪女にはなりきれねぇ、か」
正直、昨日女に叩かれた頬は、かぎりない憎しみが込められていたのか、今まで執念深く痛みが滲んでいた。しかし、ハボックが何とでもないと云うようなこの男特有の表情でそう言った瞬間に、痛みまでもがすうっと拭い取られていった。
「でもなあ。おまえも、ころころ男替えるから妙なのに引っかかるんだろうが」
「……だって―――」
「少しは俺を見習えよな」
が、俯きながらも紡ごうとした言葉を遮るようにハボックは言った。彼女が顔をこわばらせたのを、ハボックは知るはずも無い。
「……まだ、あの人と別れてないの?」
「なに勝手なこと言ってやがんだ。当たり前だろ」
「……そう。めずらしいのね」
「失礼な」
そこでハボックはちらと横目でが首を垂らしている姿を見ると、まだ昨日のことで気を揉んでいるのかと思い、励ますように彼女の背をぽん、と叩いた。
「お前無くして、その夫婦のこれからは無かったんじゃねぇの?」
この人は、とは思った。まるで勘違いをしてる。どこまでも鈍い男だ、と。
は顔をあげて、髪を掻きあげた。亜麻色が風に攫われそうになるのをハボックは盗み見するようにしていたが、は気づかなかった。
「つまりわたしは、あの二人の越えるべきハードルだった、と。そう言いたいの?」
「……ま、そういうこと」
「なに、それ。悪女の次は道具扱い?」
小さく鼻で笑ったハボックは、灰皿に煙草を押し付けたその手を、そのままポケットに突っ込んだ。遠くの方で高く揚げられた軍の旗が、晩春の香りを乗せた風に揺られるのを目を細めて見ている。
「その愛が揺るぎないものになるか、はたまたそこで跡形もなく消滅するかってやつだ。今回は前者に転んだみてぇだな」
そう言って立ち上がったハボックの背に、は咄嗟に固く結んだ唇を緩めた。
「じゃあ、わたしが……あなたと恋人のハードルになったら、どっちに転ぶかしらね」
ハボックは手を服に入れたまま、しばらく立ちすくんだようにしていた。はその肩越しに雲ひとつない空をただ何も考えずに、見つめていた。
「やめとけ。やるだけ無駄だろ、結果は見えてるからな」
遠くではためく軍旗の音でかき消されてしまいそうなほどに、まるで呟くような低い声だった。
「それに、おまえに悪女は向いてねぇよ」
離れていく背中が、霞んでいく。空いてしまった隣の席にそっと手を触れると、そこにはまだぬくもりが残っていた。
「わたしがいけないのよ。節操の無いくせに、悪女になりきれないわたしが」
白塗りのベンチに独り言をつぶやいたは、もうあんなに小さくなってしまった彼の背に言う。
「でも、なぜわたしがこんな女になったのか、そろそろ悟ってくれても良いじゃない」
―――ハボック。これまでずっと探してきたけれど、やっぱり、あなたほど好い男なんてこの世には居ない。
春の終わりを告げる風には、散ってしまった花々や芽吹いたばかりの新緑の香り、そして煙草のにおいが溶けこんでいた。
(2008.5.4)
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